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頑張ったことを全否定されているようでつらいです。どうすればいいでしょうか?【ひとみしょうのお悩み解決】

  • 2019.10.23

“【お便り募集】文筆家ひとみしょうさんにあなたのお悩み解決してもらいませんか?”にお悩みを送ってくれた方の中から、ピックアップしてひとみしょうさんが解決していきます。

〜「もももさん 43歳」のお悩み〜

いつもコラムを拝見しております。既成概念にとらわれない自由な回答にハッとさせられます。

今日は仕事の事でご相談させて下さい。とある業界に10年弱おります。

中途採用だったこともあり、必死で仕事をしてきたつもりです。目立ちたいという願望はそんなにないはずなのですが、気がつくと講演したり、執筆したりと、名前が一人歩きしています。

応援してくれる人もいるのですが、手の平を返したように冷たくなる人も出てきます。頑張ったことを全否定されているようで、今でもとても辛いです。社外の先輩は「とにかく気にするな」と言いますが、そんなに強くなれません。心の持ちようを教えて頂けないでしょうか。

〜ひとみしょうさんのお悩み解決コラム〜

相談メールを読みながら、日本って、9割の「頑張ったけどできなかった人たち」と、1割の「頑張ってどうにか成果をあげ、さらに自分のために頑張ろうと意思する人」で成り立っているのだろうなあと思いました。

頑張ったけどできなかった人の気持ち

もももさんは、自分のために努力し、工夫し、なんらかの成果を(周囲の人が嫉妬するくらいの成果を)あげてきました。周囲の「できない人」は、もももさんのことを、たとえば以下のように思っているはずです。

――おれは/わたしは、努力しても、もももさんのような成果をあげることはできない。あいつは生まれつき優れた才能に恵まれているはずだ。優れた才能をもっているにもかかわらず、あいつはおれに/わたしに挨拶に来ない。偉そうだ!あいつは自分のことしか考えない利己主義者だ。あいつだけは絶対に許さねぇ!

努力してなんらかの素晴らしい成果をあげるなんてご立派ですね、どうすればあなたのようになれるのか、わたしに教えていただけませんか?ではないんですね。できる人は、できない人に、「あいつは利己的に努力した結果、おれを/わたしを置いてきぼりにした」と思われているのです。

日本人は変化を嫌う

日本人は変化を嫌うとぼくはつねづね思っています。そのくせ、努力しよう!とか、今を精一杯生きよう!などと、さほど役に立つとは思えない標語を恥ずかしげもなく口にするのが大好きです。

努力するということはすなわち、今この瞬間を生きるということにほかならず、その必然の結果として人は変化します(成長します)。この変化を、多くの日本人は、なぜか、じつは嫌っています。多くの人は、努力しよう!努力はすばらしい!と思いつつも、10年後も20年後も今とおなじ場所にいて、努力してそこから出ていった人のウワサ話をするのが好きなんですよ。

これはきっと、なんらかの努力をして、その結果、自分で自分を変えることに成功した人にしか見えない日本人の実態ではないかと思います。

みなさん口では「努力はすばらしい!わたしも明日から努力します」と言うのですよ。そうですよね?でも同時に、努力した結果自分が変化することを、なぜか受容しないんですね。だから、自分が変化するほどの努力はしない。

ぼくはそんなのは努力ではないと思います。中国の故事に「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というものがあります。朝(あさ)から勉強して、人生における大切なことを知ることができれば、夕方には心置きなく「もう死んでもいい」と思える、それくらい劇的に「自分が変化すること」が、じつは努力だということを、多くの日本人は知りません。(あるいは、知っているけど知らないふりをしています)。

「できない人」はとくに、なぜそんなに変化を恐れるのか?

「できない人」はなぜそんなに変化を恐れるのか?漠然と淋しいからだろうとぼくは思います。

漠然と淋しい、つまり、自分がどんなふうに生きていくといいのか、自分でわかっていないから、自分が変化することを恐れ、また、変化してゆく周囲の人のことを嫌うのです。

漠然と淋しくない人、つまり、自分はこう生きていくというのを自分でわかっている人は、変化を恐れないし、周囲の人が変化したら「おめでとう!よく頑張ったね!」と拍手するはずだからです。

「その結果、発見したこと」とは?

自分のために努力して、たえず自分を変化させること、そして「その結果、発見したこと」を、社会に活かすこと――ぼくはこれが人生のすべてだと思っています。

とくに、もももさんやぼくのように、40歳を過ぎた人は、そうあるべきではないだろうかと思います。

「その結果、発見したこと」の中には、「できない人の気持ち(置いてきぼりにされた人の気持ち)」も含まれます。

繰り返しになるかもしれませんが、できない人は、なんらかの能力が低いからできないわけではないんですね。そんなことを言えば、もももさんもぼくも、できないことだらけですよね。

できない人は、なんらかの能力に恵まれていないからできなのではなく「努力の対象を自分の側に引き寄せる方法を知らない」からできないのです。つまり、自分で自分を知らない、つまり、自分のことがあまり好きではない、つまり、漠然と淋しいのです。

謙虚であるとはどういうことか?

人は、ある何かに対してはとても優れた能力を発揮するし、別の何かに対しては、ぱっとしない成果しかあげられません。「みんな」そんなもんだと僕は思っています。

そして、なんらかに対して優れた成果をあげられたもももさんやぼくのような人間は、努力の結果そうなった、という面もありつつも、究極的には、なぜ自分がそれほどの成果をあげることができたのか、その理由を知りません。知らないですよね?もう、偶然とか奇跡などがいくつも積み重なった結果、なんらかに対してのみ優れた成果を収めることができたわけですよね。

だからぼくは、なにか目に見えない存在が、自分に成果をあげさせてくれた、思っています。その目に見えない存在に対して、もっと謙虚でありたいとも思っています。

その気持ちが、ぼくが期せずして置き去りにしてしまった人の淋しさに、生きる希望を与えるのではないかと思うのです。

お互いがんばって生きていきましょう!

(ひとみしょう/作家)

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