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親のしつけが身につくのはいつなのか【新米ママ歴14年 紫原明子の家族日記 第15話】

  • 2017.3.7
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子どものころ、お風呂に入るのが嫌で嫌で仕方なかった。髪の毛を洗うのもめんどくさいし、湯船にじっと浸かるのも退屈の極み。それにうちは田舎の古い一軒家なので、冬場のお風呂は特に悲惨だ。真っ裸で外にいるのと同じくらい極寒なのだ。冷え切った体に熱いお湯をザバッとかけると、皮膚に刺すような刺激が走る。

ひ~っとなりながら、そのままでいるとやっぱり寒いので湯船に入る。「寒い!」から、「熱い!」へ、急激な温度差に体が慣れるまで、しばし息を止めて、耐える。リラックスからは程遠い、拷問のようなひととき。

大人になって知ったことによると、このお風呂の寒暖の差でなんと年間1万人以上死んでいるらしい。私のお風呂嫌いの理由の一つは、無意識に命の危機を感じていたからかもしれない。

お風呂に入るとか、朝は顔を洗うとか、食後に歯を磨くとか。前日に次の日の持ち物を揃えておくとか、脱いだ靴下を放置しないとか、愛情深い両親のもと、小さいころから真人間の営みをそれなりに教えられてきたものの、残念ながら私には、それらが全然身につかなかった。

身につくっていうのはきっと習慣付くってことで、別にそうしなくてもいいのについどうしてもやってしまう、というような状態になることをさすんだろうと思う。

そして幼少期に、親から毎日うるさく言われていることは自ずと身についていくだろう、大人になって家を出て、一人で暮らすことになっても、きちんとできるようになるだろう、と、一派的には思われている。だから世の親はしつけに励むわけだが、現実には私、母に粘り勝ちして、子ども時代の最後まで、真人間たる生活習慣を身に付けなかったのだ。

実家を出た後はすぐに結婚をして二人暮らしとなったのだが、真人間たる生活習慣が身についていなかったので当然、生活はままならなかった。脱いだ靴下を自分で洗濯物に持っていかなければ誰も持っていってくれない、というのはこういう状態か。食べた食器を洗わなければいつまでも汚れたまま、というのはこういう状態か。といちいち気づいて、痛い目をみて、“うわ、めんどくさ”と思いながらしぶしぶやるようになった。

化粧をするようになると自ずと化粧を落とす必要がでてきて、顔もしぶしぶ洗っている。会う人に口が臭いと思われたくないからしぶしぶ歯も磨く。未だに全部、しぶしぶでやっている。

しかし、こうなってくると逆に、必要に迫られさえすれば、しぶしぶとはいえ、やれるんだ、という妙な悟りも開けてきた。片付けが苦手でも、部屋に誰かを連れ込みたい、という欲望が生まれればしぶしぶ片付けるようになる。不潔だとモテないと分かれば、しぶしぶお風呂にだって入るようになるのだ。

仮に今子どもに戻ったとしても、親や先生に囲まれながら生活習慣を守って生きていけるかと言われたら、やっぱりとてもじゃないけど無理だと思う。やってくれる人がいれば甘えるし、身綺麗であることが他人からの評価軸にならないうちは、身綺麗にしようとも思わないと思う。そんなもんだ。

親は子を、生活力のある大人に育てなければならないと思うから、あれこれ口うるさく注意したり、教育を施そうとしたりする。そういう意味で、家って、子どもにとっての鍛錬の場だ。

でも、それと同時に、いざとなったら逃げ込める、絶対的に安心できる場。家って、子どもにとっても、親にとっても、そうあるのがいいと私は思う。親と子は、教える側と教えられる側、育てる側と育てられる側であるけれども、同時に一つの基地に共に暮らす同居人でもあるのだ。共に心地よく暮らしたい。

あれこれ備えさせたい気持ちと、共に心地よく暮らしたいという気持ち。その両立は難しい。きちんと生活させようと思うと一日中お小言だらけになってしまう。だから、大きな声では言えないけど、半分くらいはもう諦めている。必要に迫られたらきっとしぶしぶやるだろう、と。

親である私が提供する心地よい暮らしに乗っかって、心地よい思いをすればいいだろう、と。だけどそんな心地よい暮らしの記憶を、大人になってからの「しぶしぶ」の原動力に変えてくれよ、と。……そんな風に思いながら、何度言っても床に落ちている脱ぎ捨てられた靴下を、今日も洗濯カゴに運ぶのである。

イラスト:片岡泉
(紫原明子)

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