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「頑張ってね」とは言わない優しさ【新米ママ歴14年 紫原明子の家族日記 第8話】

  • 2017.1.10
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最近ハマって通っている、タイ古式マッサージの店がある。

ご存じの人も多いかと思うけれど、タイ古式マッサージというのは普通の指圧やオイルマッサージより、かなりアクロバティックな施術をしてくれる。行きつけの店では、元気なタイ人のおばちゃんが、うつ伏せになった私の背中に四つ這いで乗っかって、肘や膝で凝っているところをグリグリやってくれたり、必要に応じて踏みつけたり、力一杯叩いたり、ひっぱったり、ねじったりする。文字だけ見ると手荒な暴行を加えられているようだが、マッサージ+ストレッチという感じで、かなり体が楽になるのだ。

行きつけの店で私を担当してくれる人は、「アキコさんいらっしゃい♪」と私を下の名前で呼ぶ。どうやらこの店ではどのおばちゃんもそんな調子で朗らか。先日は隣の部屋から「ハイハイ、ゆみちゃんお待たせ~」という別のおばちゃんの陽気な声が聞こえてきた。

ゆみちゃんもまた相当な常連かと思いきや、直後に「タイ古式マッサージは初めて?」という会話が続き、えっ、そうなの?と私は内心、仰天した。タイに行ったことがないのでそれがお国柄なのかどうなのかわからないけれど、少なくともこの店にいるタイ人のおばちゃん達は、みなものすごく気さくで、おまけにちょっとびっくりするくらい優しい。

「今日はどこがつらい?」
「足がパンパンで……」
「ああ~つらいねえ。いっぱい歩いたねえ。」

初めにつらいところを聞かれるのは、どこのマッサージ屋でも見られるお決まりの会話である。だが、この店のおばちゃんは「足がつらいんですね」じゃなくて「つらいねえ」と、さも自分の体もつらさを感じているように言って、その上で、いっぱい歩いたねえ、と労ってくれる。なんだかちょっと、お母さんみたいだ。

実はこの有り余る優しさに触れ、当初は少し戸惑った。心の中で小さく、警戒のアラートが鳴った。ただにこやかに迎え入れられるおもてなしなら、お客さまは神様の国ニッポンで散々味わってきたはずなのに、それとは全然違う種類の優しさである。何が違うって、とにかく距離がぐっと近いのだ。

「私たち、さっき会ったばかりですよね……?」と尋ねたくなるほど寄り添ってくれる。会話の中で、絶対に突き放されないのだ。

あるとき、施述中にふと、私がシングルマザーであることや、長男が14歳であることを打ち明けると、おばちゃんはこんな風に言った。

「そっかあ。じゃあ大人になるまであと6年、頑張ろうねえ」

「頑張ってね」でもない、「頑張らなきゃね」でもない、「頑張ろうねえ」は、じんわりと、凝り固まった心に沁みた。

私が小さかったころ、母が泣いているのを一度だけ見たことがある。後々、なぜ泣いていたのかを尋ねると、私の虫歯で受診した歯医者さんから「子どもの虫歯はお母さんの責任です」と厳しく叱責され、気落ちしていたのだという。

当時は、そんなことで泣かなくても、と思ったけれど、自分も親となった今なら当時の母の気持ちが少し分かる。

子どもに怪我をさせてしまった。子どもに忘れ物をさせてしまった。子どもを“りこんのこども”にしてしまった。私もまた、あのときの母と同じように失敗した、と感じて、ことあるごとに落ち込んだり、反省したりすることがよくある。

子育て中の親はいつだって、子どもをまっとうに育てなきゃいけないという責任を大なり小なり感じている。そして責任とは、負っている人とそうでない人の間に、明確な境界を作る。だから、親は何かと孤独を感じやすい。

親子を取り巻く社会の人だって案外暖かい。本当は応援したいという気持ちを多くの人が持ってくれている。だけど、望むように助けられないかもしれないから、叶わないのに手を貸す期待を追わせるのは無責任だから、多くの人は「頑張ろうね」じゃなく「頑張ってね」と、境界の外側から励ましてくれる。

安易に責任を負わないために、その方が誠実だと思って、距離を置く。いざというときの保険みたいなものだ。……だけどそんな保険、本当に必要なんだろうか。

その場、そのとき、誰かの気持ちに寄り添いたいと思ったことを、その後いつまでも全うしなければ、誰かに無責任だと咎められるようなことなんてあるだろうか。

「頑張ろうねえ」、といくらタイ古式マサージのおばちゃんが言ってくれたって、明日から私と一緒に子育てしてくれるわけでも、私の代わりに生活費を稼いできてくれるわけでもない。そんなことはじめから明白だ。でも、そもそも望んでもいない。何をしてくれるわけでなくとも、ただ境界の内側に、思いがけず一歩踏み込んできてくれる、近くから声をかけてくれる、それだけで十分なのだ。今が終わればもう会うこともないかもしれない私に、頑張ろうねえ、と近くから声をかけてくれる誰かのいる世界に生きている。その事実が、明日も生きていかねばならないこの社会を、少しは信頼してみようかな、と思わせてくれるのだ。

(紫原明子)

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