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だったら独身でいればいい…「低収入&受け継ぐ財産ゼロ」の江戸の庶民が貫いたツラさを面白さに変える生き方

  • 2025.12.9

「家庭を築いて当たり前」というのが過去のものとなっている現在。ひとりを楽しむ暮らし、ライフスタイルを満喫する向きも多いが、反面、将来への不安もまた多い。有識故実家の髙山宗東さんは「年金も低く、仕事のペイも安く、金利さえゼロ。そんな時代を生き抜こうとする時、江戸の庶民の生き方が参考になる……それは独り身でいることだ」という――。

歌川広重 1834年 東海道五十三次(保永堂版) #1 日本橋 朝之景
※写真はイメージです
江戸都市生活者に学ぶ「老後をひとりで生きる」知恵

年金も低く、仕事のペイも安く、金利さえゼロ。

そんな時代を生き抜こうとする時、江戸の庶民の生き方が実はとても参考になる。

江戸の庶民の生き方の知恵……それは、独り身でいること。

家族を持つから、家や、車や、財産や、社会的なステイタスが欲しくなる。そこを諦めてしまえば、辛さが逆に面白味になる――こともある。

男性の生涯未婚率が31.9%、女性は23.3%(2024年度統計)。さらに3組に1組は離婚する今の時代、もはや、ひとりで生きていくことは普通なことではないか。

少し以前の世の中では、「家庭を持って暮らすことが、あたり前」と思われていた。しかし、それがあたり前になったのは意外に新しいことで、実は明治時代以降のこと。

江戸時代には、家庭を持って暮らすのは、武家や農家、財産のある商人など、特定の人びとに限られていた。都市に住み、ごく普通に暮らす庶民の男女の多くが、ひとりで暮らし、そしてひとりで死んでいったことは、意外と知られていない。

家庭をもたない生き方が普通だった

南和男氏の『江戸の社会構造』(塙書房)では、享保6(1721)年の江戸の町人人口は約50万人で、男性約32万人、女性約18万人だった。これでは、特に男性は、相方をみつけることは難しい。基本的に「家庭」を持たねばならなかったのは、財産を受け継ぎ、受け継がせていく人だ。

武家は、その家に代々与えられた「家禄」を次代に引き継ぐのが最大のミッションである。たとえ戦場で命を落としても、その功が認められて子や孫に高い禄が与えられれば、故人としては本望なのだ。だから、死ぬことを厭わないし、卑怯なことをして命を惜しむことを嫌うのである。

土地持ちの農家も、農地を次代に引き継ぐことが大切だし、商家も、財産や利権を引き継いでいくのが基本的な営みである。

逆にいえば、そして極論をいえば、次代に引き継ぐ財産が無ければ、家庭を持ち、子供を持つ必要なんかないのだ。

江戸っ子は「三代続いた」ことを自慢するものだが、それは都市人口の増加が地方からの流入者によって支えられていたことへの反撥であって、商家に奉公にあがった小僧や、腕を見込まれて地方から招かれた職人など、都会人の一世が実はうようよしていた。

江戸時代の銀行
※写真はイメージです
都市の女性独身者

また江戸の町には、女性の独身者も意外に多かった。

2022年の統計によれば、日本の離婚件数は17万9096件で、婚姻件数に対する離婚件数の割合は約35.5%。これに対し江戸時代の離婚率は4%ほどだが、特に武士階級に限っていえば10%に達していたともいわれる。

こうした背景のみではないが、都市には独りで生きている「自立した女性」が多くいた。武家や商家に奉公にあがり、仕事をしながら生涯を終えるのである。

「紺の前垂れ松葉に染めて まつにこんとは気にかかる」という都々逸は、そうした独身女性の心を唄っている。おそらく商家に奉公しているのだろう、貸本屋か小間物屋か、10日に一遍くらいまわってくる行商人と、ちょっといい仲になった。ところが、ここのところしばらく顔を見せない。「私のことが嫌いになったのかしら……いや、違う。新しくした前掛けの柄が、紺地に松葉の柄だ。ひょっとするとこれが、『まつにこん(待っているのに来ない)』という呪いにでもなったんじゃあないかしら」。

このような働く独身女性のエリートが、大名・旗本、あるいは大奥に仕えた「御殿女中」である。彼女たちの中には、奉公を退いた後に「一家」を立てた女性もあった。自らの財産を基盤として養子をとり、自分は家の創始者(祖先)となったのである。

色里には、遊女としてつとめた後、コンシェルジュとでもいうべきか遣り手婆となる女性もあった。遊郭の縁の下で鶏を飼い、間夫に翌朝のもてなしをする花魁に卵を売って小遣いを稼いだりしていたという。

2018年4月14日、第16回浅草観音うら・一葉桜まつり
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裏長屋に住む

栗原柳庵の『文政年間漫録』によれば、文政(1818~1831)当時の大工の日当はおよそ銀五匁だったという。銭に換算すると五百四十文ほどで、「楽ではない」ものの、極貧というわけではなかった。だから彼らは、案外に生活を楽しんでいた。

住むのは「裏長屋」だ。江戸の町屋は、大きく「表店おもてだな」と「裏店うらだな」に分けられる。表店は表通りに面した家作。ここには、有力な商人が住んでいた。これに対して裏店は、表店の裏に路地を切って配置されている区画で、そこに並ぶ賃貸物件が裏長屋である。路地から庭へ吹き抜けた「割長屋」や、並んだ部屋同士が背中合わせに双方の路地を向く「棟割長屋」があった。

割長屋は、路地から庭(というほどのものではないが……)へと吹き抜けた形式。風が通るので、夏場は多少涼しい。住人は、路地や庭に鉢植えなどをおいて楽しんだ。江戸の町で、朝顔やほおずき、菊などの市が立つのは、こうした需要を満たすためである。

棟割長屋は、背中合わせにふたつの居室が双方の路地を向く二列形式の構造。こちらの方が、割長屋より規模が大きいことが多い。割長屋、棟割長屋ともに共同のトイレがあった。基本的な江戸の長屋の広さは九尺二間(間口約2.7m、奥行約3.6m)。入口にはへっついと呼ばれる竈をしつらえた台所、小さな座敷がふたつほど。家族がいるから、マイホームが欲しくなる。独りなら、これで充分だ。

清潔でお洒落。「こざっぱり」の美意識

江戸っ子は、毎日のように銭湯に行き。月代を剃って髪を結い、季節の変わり目には着物を買った。

彼らは「小ざっぱりしたものを着る」ということにこだわった。その対極である、小汚い、煮締めたように汚れた着物は野暮の極みだった。といって、そうそう頻繁に洗濯ができるわけではない。まして、一度縫い糸を解いて水洗いし、板にピンと張って乾かして、再度縫いなおす「洗い張り」などは、独身者ではなかなか手がまわらない。

そこで、便利に使われたのが古着屋である。彼らは、ある程度着ると、汚れが目立ちすぎないうちにこれを古着屋に売った。ついでに、そこで新しい(古着だけれど)着物に替えた。その差額には、古着屋の洗濯代も含まれている……というわけ。このサイクルを、普通は盆暮れの年に二度、最低でも年に一度は大晦日行うのが、貧乏であっても江戸っ子の心意気であった。歳の暮れまでは着古したボロボロの着物で働き、除夜の鐘を合図に新しい着物に着替える「暮れ襤褸」などという言葉からは、そうした美意識を窺うことができる。士農工商のてっぺんに立つ武士でさえ、着物を新調することなど、滅多にできるものではなかったから、江戸の独身者たちは、貧乏なくせに、ナカナカ贅沢なシングルライフをおくっていたのである。

また、男たちがこだわった持ち物に、財布や煙草入れなどの「提げ物」と呼ばれる携帯入れ物があった。革や高価な織物など素材を吟味し、柄やデザインには、自分の干支や生まれ月、季節にちなんだ意匠などを用いた。

ことに、提げ物を携帯する際、帯から落ちないように留める役割をはたす一種のストラップ「根付」には、持主のこだわりが存分に発揮された。掌におさまるほどの大きさに過ぎない根付に、十二支すべての動物や、大仏を掃除する20人もの人が彫り込まれていたりする。通常こうした贅沢な持ち物は金持ちの特権であったが、ちょっと小金を手に入れた独身者が手を出すことも多々あったようだ。

古着屋でお洒落な服を物色し、フィギュアや推しのグッズを買う現代の独身者に、どこか相通じるものがある。

1800年代に作られた象牙のネズミの根付
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外食・中食も充実

江戸の独り者は食事のほとんどを外食に頼っていた。燃料費を考えれば、自炊より余程効率的だ。

幕府開闢当初は流石に少なかったという江戸の食べ物屋も、およそ50年を経た明暦以降は増え続け、幕末には店構えの蕎麦屋だけで3700軒を超えていたという。安政年間(1855~1860)に和歌山の医師が書いた『江戸自慢』には「いかなる端々にても、膳めし、蕎麦屋、しるこ餅、腰掛茶屋のなき所はなし」などとあるから、江戸も中期を過ぎた頃には、外食をするに全く不自由はなかったはずである。

外で買ってきたものを家で食べる、現代のいわゆる「中食産業」までも存在していた。あまつさえ江戸の中食産業は、家まで売りに来てくれた。納豆、豆腐、金時豆、稲荷寿司、ゆで卵、ところ天、舐め味噌や金平牛蒡などの惣菜まで、ありとあらゆる食べ物を売り歩く商いがあったのである。まさに、都会の独身者を対象とした「出張するコンビニ」で、Uber Eatsのはしりといってもよろしかろう。むしろ現代人のほうが、出遅れている。

江戸文化・風俗の研究家の三田村鳶魚によれば、江戸っ子すなわち鳶・大工・左官・棒手振・駕籠舁などといった人々は身軽でなければ務まらないから、小食にして度々食事を摂る傾向があったという。大食いは田舎風と嫌われた(「江戸ッ子の食好み」)。いきおい彼らは美食を好み、金離れも良かった。これも、家庭があって、子供を養おうと思えば、控えねばならないことである。

人恋しくなったら……

人恋しくなったら、擬似家庭に相当する公娼制度や私娼窟があった。

昔、吉原などの遊郭という場所は、単に性的な欲求を満たすためだけでなく、生涯独身で過ごす男たちが、擬似的な「家庭の味」を楽しむ場という側面を備えていた。

わずか四畳半ほどの遊女の部屋に、台所や風呂までも拵えた店もあったとか。ニュアンスとしては、五、六人の男性で一人の妻を養っているような感じである。落語の『五人廻し』は、この五人の男が一斉に来てしまうというスラップスティックな可笑しさを描いたもので、反面、とてもリアルな噺だったのである

お女郎さんの部屋で出される「家庭の味」は、シンプルなレシピで、極力火も使わず、後片付けも簡単なものばかり。ことに、一晩泊った朝ごはんに、花魁が気の利いたオカズを作ってくれるのがイロオトコなのだ。

たとえば、こんなものが出されたという。

・生姜飯 醤油で味をつけたおろし生姜を、炊き立てのご飯に混ぜたもの。
・竹虎 炙った油揚げに、刻み葱をのせて醤油をジュッとかける。
・浦里 梅干しの種をとって裏漉しし、大根おろしともみ海苔を和える。好みで醤油を。

これらのオカズに、遣り手の婆さんの生卵がつけば、それは大モテの証。結婚なんかしなくても、幸せはそこにあったのだ。

生卵
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なぜ「結婚して当たり前」が蔓延したのか

彼らは、こうした境遇を、別段不幸とも思わなかっただろう。手に職さえあれば、貧乏でも、こんな暮らしが営めるのだ。

やがて病にでも罹って働けなくなれば、「大家といえば親も同然」などと近所が面倒を見てくれる。それに、お医者になぞ掛かれないから、寝付いたらほどなくぽとり、と死ぬ。近所の人も、ひと月くらいは面倒をみてくれるかもしれないが、半年一年はそりゃ無理だ。調度良い、のである。だから「宵越しの銭」など、持たなくて良かった。それが、粋でいなせな江戸っ子のひとつの類型になったのである。

こうした人が、無理に家庭を持つと、たちまち生活のバランスは崩れてしまう。家庭を持たずにスマートに生きることが、彼らにとっては「自然」だったのである。

何故、こうした庶民の生き方がイレギュラーなものとされ、結婚して一家を構えることが「普通」だという常識が蔓延したのか?

それは明治政府の策謀である。明治維新というと、「士農工商の身分の枷を取り払った」という清新なイメージがあるかもしれないが、その実は、「一家を構える」という武家のしきたりを国民全員にすすめる態で、徴兵制度を押しつけ、また国民全員から税金が徴収できるようにと目論んだのである。

江戸時代、江戸の街に住む独り者の職人は無税だった。いくら身分制度から解放されたといっても、貧乏のうえに税金を課されたり、兵隊にとられて戦場で殺されたりしてはタマラナイ。

髙山 宗東(たかやま・むねはる)
近世史研究家、有職故実家
歴史考証家、ワインコラムニスト、イラストレーター、有職点前(中世風茶礼)家元。不肖庵 髙山式部源宗東。1973年、群馬県生まれ。東京大学先端科学技術研究センター協力研究員、大阪市ワインミュージアム顧問、昭和女子大学非常勤講師(日本服飾史)などを務める。専門は江戸時代における戦国大名家関係者の事跡研究、葡萄酒伝来史、有職故実、系譜、江戸文芸、食文化、妖怪。

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