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衛生と都市造りの獅子「後藤新平」

  • 2023.1.30
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日本国内の衛生を確立。台湾の近代化。関東大震災後の東京を作った経緯があるので、明治以降の近代史を紐解けば、後藤新平の名は、聞いたことがある名前に挙げられると思います。やることが多岐に渡るゆえ、わかりにくく、一言では語れない後藤。「獅子座」らしいパワーで、時代をけん引した足跡と星回りを負いました。さっそく見てみましょう。

後藤新平ホロスコープ

☽星座 ♍ 7°09(この日の☽ふり幅 ♍0°37~13°35)

第1室本人の部屋♌☀・☿。第2室金銭所有の部屋♍☽。第3室幼年期の部屋♎。

第4室家庭の部屋♏。第5室喜びの部屋♐。第6室健康勤務の部屋♑。

第7室契約の部屋♒。第8室授受の部屋(生と死の部屋とも呼ぶ)♓♆R・☊R。

第9室精神の部屋♈。第10室社会の部屋♉♇・♃・♅。

第11室友人希望の部屋♊♀。第12室障害溶解の部屋♋♂・♄。

第2室から遡り、東南に第8室まで。惑星ひしめく、ボールタイプのホロスコープ(第9室を除く)自意識も独立意識も非常に強い人で、社会的な活動をしつつも、万事気が向くように動く気質です。

火属性の星は、☀☿の2個。・水属性の星は☊Rと♂・♄の4個。 土属性☽と♇・♃・♅の4個(ステリウムなので強め)風属性は♀のみ。

♌に入室したての☀。共にある☿が、自己主張の強さ、新しい情報をつかむ感度、機知に富むことを告げています。基本明朗快活。だけど何事も計画的に、細部まで凝りたい、時に神経質な乙女座の☽が、ヒステリーや、絡み症といった、困った面も潜ませています。

想像力と発想力の豊かさから展開する研究、事業が、大衆のためになることで、財を成すことは可能。ただし、その発想が、突飛な話に聞こえる人も多く、「大風呂敷を広げる人」という印象を持たれることもありそう。

親族・血族のつながりは強く、理解やフォローを得られますが、問題も抱えます。

責任感と成功意欲に実力も持つので、それなりの立場に立つことは可能な半面、大人げなさや気性の激しさから、人とぶつかることも多くなりがち。トップに立つと、本人よりもサポートをする人が、苦労するかも。

第10室社会の部屋が、♇・♃・♅のステリウム。♇と♃は記と肥沃な調和。♅は、☀☿とセキスタイル。人生上の制約も多く、社会的な困難に直面する可能性も高いが、勝ち気な気質で、成功するためには、それ無理と思うことでも、努力で勝ち取る持久力持ち主。 支援される側に立つより、支援する側に立つ方が、物事循環します。

後藤新平略年表(ウィキ、その他資料参照)

1857年7月24日(安政4年6月4日)仙台藩水沢城下(現在の岩手県奥州市水沢区)、留守家家臣の後藤実崇、利恵夫妻の長男として生まれる。

1869年(明治2年)留守家削封。後藤家は土着帰農して平民となる。7月25日 版籍奉還実施。胆沢県大参事安場保和に目をかけられる。

1870年(明治3年)県庁勤務。

1871年(明治4年)安場、岩倉使節団として海外遠征へ行く。

1872年7月(明治5年)上京。東京太政官少史・荘村省三の下で門番兼雑用役になる。

1874年(明治7年)須賀川医学校入学。

1876年(明治9年) 愛知県病院三等医拝命。医局診察専務を仰せ付けられる。月給10円。

1877年(明治10年)6月 開業医免許の試験を受ける。9月 開業医免許交付。名古屋鎮台病院兼務 月給15円。1878年(明治11年)名古屋公立病院三等診察医兼務。

1882年(明治15年)軍医石黒忠悳に認められ、内務省衛生局入り。4月6日岐阜の神道中教院での演説会で、板垣退助がテロに遭う事件発生。板垣の治療を担当する。

1883年(明治16年)父の訃報に察し、弟の彦七を代わりとして帰郷させる。衛生局東京試験所長心得を兼務。9月 恩師安場の次女・和子と結婚する。

1893年(明治26年)相馬事件連座の罪で5か月投獄。結果、無罪となるが、内務省衛生局長の地位は消える。

1895年4月1日(明治28年)臨時陸自検疫部事務官として日清戦争の帰還兵検疫事業に従事。児玉源太郎の目に留まる。

1896年(明治29年)台湾総督府衛生顧問嘱託。伊藤総理・西郷海相と、台湾へ渡り視察。後藤の書いた「陸軍免疫報告書」が、ヴィルヘルム二世から賞賛される。

1904年~1905年(明治37~38年)日露戦争。

1909年(明治42年)10月26日 伊藤博文ハルピンで暗殺される。

1914年~1918年(大正3~大正7年)第一次世界大戦。

1918年(大正7年)和子夫人永眠。享年53歳。外務大臣に任ぜられる。9月29日寺内内閣総辞職。

1923年(大正12年)母永眠。9月1日 関東大震災第二次山本権平内閣内務大臣兼帝都復興院総裁となり、東京の復興事業にあたる。

1924年(大正13年)社団法人東京放送局設立。初代総裁となる。

1926年(大正15・昭和元年)2月11日一回目の脳溢血で倒れる。12月25日大正天皇崩御。

1928年(昭和3年)1月7日スターリンと会談。

1929年(昭和4年)4月4日三回目の脳溢血。京都府立病院に入院。4月13日早朝逝去。特旨をもって正二位に叙せられる。4月15日自宅に皇室から御使いが使わされ、ご弔問をいただく。4月16日青山斎場にて葬儀執行。青山墓地に和子夫人と並んで埋葬。

後藤新平 惑星history

●☽年齢域 0~7歳 1857~1864年(安政4年~元治元年) 1857年(安政4年)太陽が本領を発揮する♌入りした7月24日。 仙台藩水沢城下(岩手県奥州市)仙台藩伊達家一門・留守家の家臣、後藤実崇と利恵夫妻の長男として、後藤新平は誕生します。(本編は、フルネーム・後藤、新平と表記します)

父の実崇は、礼法を重んじる人で、生け花と謡曲を嗜みました。(江戸時代、お茶や生け花は男性の嗜みでした。女性が嗜むようになったのは、明治以降です)

母の利恵の実家は、板野家。留守家の藩医でした。 ちなみに蘭学者であり、医師だった高野長英は、水沢領主水沢伊達家家臣後藤実慶の三男で、新平とは遠縁に当たります。長英が亡くなったのは、1850年12月3日(嘉永3年10月30日)。二人が会うことはないのですが、世間的に罪人の血縁者というレッテルが貼られ、これが新平の進路に影響を与えます。

●☿年齢域 7~15歳 1864~1872年(元治元年~明治5年)

1867年(慶応3年)明治天皇が即位するこの年、水沢家13代(留守氏30代)邦寧の奥小姓になった新平。藩校立生館では、詩文や径史を習います。その翌年、年明け早々に、鳥羽伏見の戦いが起こりました。相手側に錦の御旗がハタめいたことから、勤皇派の反乱ではなく、彼らは新政府軍。徳川家&幕府軍は、逆賊となってしまったのです。

続く戊辰戦争で、白河口に出陣する水沢家ですが、思わしくない戦局に、藩論は幕軍側から、明治新政府へ恭順に傾きました。敗戦後、仙台藩62万石から、28万石に削られたあおりを受けて、留守邦寧は水沢領を失います。

1869年(明治2年)後藤家は土着帰農し、平民となりました。禄を得ることができなくなり、困窮しますが、ここに朗報が入ります。仙台藩少参事となった邦寧。県庁の給仕を探すように、胆沢県の大参事安場保和(肥後細川藩出身)から頼まれると、旧臣の子弟、斉藤実(後の代30代総理大臣)・片桐清治(後に東北地方を代表するキリスト教牧師)・後藤新平の三人を推挙しました。

学校へ通い勉強をしながら、県庁の仕事もこなす書生生活が始まったのです。 気の荒い性質ながら、単なる粗暴な若者ではなく、新平は人の上に立つことができる筋を持っている。読んだ安場は、書記官に新平の性格を矯正しないよう、指示したとか。

安場は懐の広い人だったのでしょう。良い意味での放任主義で、接したことから新平も信頼を寄せ、勉学にも熱意を傾けました。

仕事も生活も落ち着いてくる約1年後、人事異動&岩倉使節団の一員として、安場は日本を離れることになります。 ☿年齢域仕上げの15歳を迎えた新平は、使えるつてを使って、横井小楠の弟子荘村省三の元へ上京しました。

●♀年齢域 15~24歳 1872~1881年(明治5~明治14年) 1872(明治5年)は、田畑永代売買禁止令」が撤廃され、6歳になる子供の義務教育が始まり、新橋~横浜間に、鉄道が開通という、年でもあります。

文明開化な変化著しい都会にやってきた新平少年。東京太政官少史荘村省三の元で、書生として働きながら学問に打ち込んだのですが、当時は、官軍カラーが色濃い時代でした。

荘村が来客に、新平を紹介する際、「この書生は、奥州の朝敵の子だ」と言ったのが、プライドの高い新平には、苦痛となったのです。

いろんな人の紹介で荘村の元で働けることはわかっているため、我慢はしたようですが、安場が帰国して福島県令になると、仙台へ戻りました。語学を中心とした洋学を学ぶため、福島洋学校へ通いますが、物足りず、途中で投げてしまいます。この頃、空回りな新平。

政治家になりたくて、悶々とする新平に、朝敵の藩出身な上、高野長英の縁者という2枚の壁もあって、周囲は医師になることを進めたのでした。

1874年(明治7年)「田舎の遅れた学校へ行きたくねー」的な気分もあった新平ですが、須賀川医学校入学。化学・物理・解剖学・生理学に目覚め、成績は優秀。「高野長英の縁者で、すこぶる鋭敏な少年がいる」校長塩谷退蔵から、後藤新平の名を聞いたのが、後に軍医となる奥州(福島県)出身の石黒忠悳生でした。

卒業すれば、山形県鶴岡の病院勤務でしたが、安場が愛知県令と決まると、迷わず愛知県へ移動する新平。愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医師になったのです。

1877年(明治10年)6月開業医免許の試験を受けますが、その後、私費で大阪の陸軍臨時病院を見学後、西南戦争で負傷、病気になる患者の治療をする傭医に志願しました。これは一時的なもので期間後は、名古屋公立病院三等診察医として勤務。

♀年齢域と☀年齢域が交差する1881(明治14年)学校長兼病院長となり、病院事務に携わってゆく他、医療目的の海水浴を奨励しました。夏になれば、当たり前のようにいく海水浴を、進めたのは後藤新平だったのです。

●☀年齢域 24~34歳 1881~1891年(明治14~明治24年)

1882年(明治15年)2月。陸軍軍医石黒忠悳の推薦を受けて、新平は内務省衛生局に入りました。須賀川医学校の校長の生徒自慢話だけでなく 大阪での臨時陸軍病院の仕事ぶりを観たこともあっての推薦です。医師兼役人となり、出世街道を歩む後藤新平。世界が変わり始めた証のように、とある人物の治療をすることになりました。

4月6日の夕方、自由党党首板垣退助が、岐阜県神道中教院で行われた演説会の後、暴漢に襲われ重症を負う事件が発生。一報を受けた県当局が、翌朝、岐阜へ向かわせたのが、新平だったのです。板垣は新平を政府の刺客と勘違い。治療を頑なに拒むなど、すったもんだもありましたが、午後には治療完了。

その手際の良さと「閣下、御本懐でございましょう」と言う新平を、板垣退助すっかり気に入りました。新平が帰った後、板垣は、「彼を政治家にできないのは残念だ」とこぼしたそうです。

1883年(明治16年)は父の訃報。さらには家庭を持つという、個人環境の変化が訪れました。お相手は安場和子さん。新平にとっては、人生最大の恩師、安場保和の次女で、1866年(慶応2年)生まれ。 新平とは9歳差となります。

地域や環境による衛生の違いを確認するため、群馬や新潟等、各地の視察を行いました。この積み重ねが、日本の衛生環境改善を進めてゆくのですが、勤務先では、北里三郎と一悶着起。

年齢も学歴も高く、ドイツのコッホ研究所で、実績を上げている北里は、新平の下に付くことを拒否。「浅学の田舎医者」と新平を揶揄し、これに対して、「横文字好きに青二才」と北里を嫌う新平。仕事上であっても、互いにそう思っていたようですが、1889年(明治22年)破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に、北里が成功。世界の医療が日本の衛生局を注目しました。

翌1890年。(明治23年)は、破傷風菌抗毒素を発見。これまで死者が多かった破傷風を、凌駕するチャンスを、人類は得たのです。ジフテリアの治療にも、光明が見えたこの年は、新平の☀年齢域を仕上げてゆく時期で、私費によるドイツ留学が認められました。

4月には、横浜港から渡独。念願かなっての留学でしたが、プライドが高い新平。これまで外国語で医学を学ぶ機会が少なく、強い語学&西洋人コンプレックスだったのです。

うまくドイツ語が話せないため、相手をステッキで叩いちゃうとか、結構な黒歴史的失敗をしました。ホームシックもすごかったようですが、元が不動宮サインの太陽。月は土星座。自分の居場所へのこだわり・固執は強く、それが全面に出たのでしょう。

●♂年齢域 34~45歳 1891~1902年(明治24~明治35年)

そんなこんなでも、やることはやる新平。☀と♂年齢域が交差する1891年(明治24年)8月「万国衛生及び民生会議」に、日本代表として出席しました。

翌年にはドクトル試験に合格。ローマで行われた「バンコク赤十字会議」に出席後、マルセイユから帰国の途に就きます。博士号を引っ提げて、職場に戻れば、内務省衛生局局長というポジションに付き、待望の長男も生まれて、人生充実期なのですが、世間を騒がせた明治時代のお家騒動。相馬事件に首を突っ込んだことから、1893年(明治26年)11月。逆風が吹きます。

最後の相馬藩藩主誠胤は、親族から精神病者として、座敷牢生活をさせられました。旧藩士錦織剛清、それは異母弟家の家督相続を狙った犯罪と、訴えを起こして世間に発覚。

主人思いの強い錦織は、親族から力づくで、誠胤の身柄を奪いましたが、警察沙汰になり逮捕されます。その直後に誠胤が死亡という、ドラマのような展開が起きて、遺族対旧家臣の泥仕合が激化。世間は錦織に同情しましたが、遺族の志賀直道(志賀直哉の祖父)らから、訴えられて有罪判決をくらいます。医師として錦織を支持した新平も「連座」となり、ムショ暮らしとなったのでした。

誠胤殺害の証拠はなく、5か月で無罪放免になるのですが、この投獄で、これまでの地位を失います。衛生と医療の実力者。無職にしておくのは惜しいし、後藤の性格を案じた石黒は、ある事業の適任者として、陸軍次官兼軍務局長児玉源太郎(当時の階級)に、彼を推薦。こうして児玉に紹介をされた新平は、臨時陸軍検疫部に着任したのです。

「その危険の恐るべきこと弾丸より大いなるものがある」

1895年(明治28年)勝ち戦となった日清戦争が終わり、23万人の兵士が、日本へ帰還してくることを知った後藤新平のセリフですが、清はコレラが蔓延していました。

着任二日後、仲は悪いけど、互いの腕は信頼する北里をはじめ、衛生局の凄腕や医学生に、緊急招集をかける傍ら、帰還してくるすべての日本兵の検疫を行うため、大規模検疫所を広島の似島、国内にもう二か所作ったのでした。検疫所を設置する地域住民には、理解してらうため、見学会も行いました。

コレラをはじめチフス等の検疫を実施する=医師やスタッフは罹患の危険が伴う、命がけの作業となります。新平はスタッフが罹患するリスクをけるため、綿密な検疫チャートを作り、罹患防止対策をしながら、23万人の検疫チェックを、数ヶ月で行うのは無理。当時、ほとんどの人が、そう思っていた大事業を開始しました。

臨時陸軍検疫部の総責任者は、大本営にいる児玉源太郎です。帰還兵の不満や苦情、その他、些細なことは、彼がすべて握りつぶし、687隻23万2,346人の検疫を、後藤新平、約3か月で完了させました。

記録を見ると、258隻が伝染病患者を乗船させていて、コレラ感染者369人の発見と治療を実施。復員兵が検疫をしないまま、国に帰れば、日本中にコレラが蔓延するところだったのです。事業が終わる頃、新平は睡眠時間、平均約3~4時間。ロクに食事もとらないため、衰弱して人と口もきけない状況だったとか。その仕事ぶりを観た児玉は、新平に大きな信頼を寄せました。この実績をもって、新平は衛生局長へ返り咲きます。

医学界だけでなく、各国が注目をした類を見ない衛生事業は、1898年(明治30年)台湾総督府衛生顧問嘱託となった新平は、伊藤博文総理・西郷従道海軍大臣に随行して、初めて台湾へ渡りました。この時は、衛生環境を精査が目的で、それ以外の政治的分野は、蚊帳の外感覚。一方の伊藤内閣は、大日本帝国憲法が発布されて6年ほどで、予定外の植民地を手に入れ、これをどうしたモノか、道筋も見えていない状況だったのです。

後藤新平が台湾と縁を持ったのは、1898年(明治31年)。 「もう台湾のことは、あきらめて、いっそフランスにでも売りましょう」と、周りが匙を投げる中、児玉源太郎が待ったをかけ、第四代台湾総督府となった時でした。児玉の総督府在任期間は、1898年2月26日~1906年4月11日の約8年で、陸軍大臣・内務大臣・満州軍総参謀長という役職柄上、台湾に在住はできなかったのです。その代わりに、衛生と仕事の鬼。後藤新平を民生局長に据えたのでした。

もともと政治家になりたかった新平。ここで全権委任に等しい立場を与えられたのです。

この時、新平のN☀にT☊オポジション。N♀とTの♆♇がコンジャンクション。N♆とT♀もコンジャンクション。未開の地、麻薬と疫病の地を、変えてゆくことの暗示とも取れますが、これはとても面白い組み合わせです。

新平のN♃は♉を背景に、♇♅とステリウムを組んでいて、拡張機能としての効果も強め。それが、T♀・T☀とセクスタイル。T♂とはスクエア。

物事の拡張だけでなく、大掛かりなことに挑んでゆく気配を見せていると思います。

早々に京大の民法学者や、行政学者をはじめ、中国哲学や歴史の研究科等を集めて、「臨時台湾旧慣調査会」を発足した新平は、台湾調査を開始しました。

「ヒラメの目をタイの目にすることはできない」

これは後藤新平が、自身の研究を例えた比喩した言葉ですがその国の歴史や民族性。環境や風習を、精査した上で、無理やり変えることなく、西洋の植民地政策制度も手直しを加え、合理的に近代化を進めるという手法。衛生局で培った経験を活かしたローカライズ(地域化)を、行ったのです。

清による中途半端な支配を受け続け、財政破綻と、阿片による二重苦で悩まされていた台湾の実情から、抗日ゲリラを掃討しつつ、公安の強化をはじめ、財政の健全化を図りました。

阿片・塩・樟脳に関しては、総督府の専売化を進めます。阿片中毒患者を登録。阿片に高利の税をかけた上、免許販売にしたのです。当初、反対もありましたが、押し切った結果、買いにくくなったことから、吸飲者の数は、マイナスに傾いていきました。

後藤の後任にもこの方法は引き継がれ、台湾統治50年の中で、阿片中毒を根絶させたのです。

湾岸整備、鉄道、水力発電といった、インフラ整備にも力を注ぎ、多くの労働者を必要とした際、協力的な台湾人のみならず、抗日を止めた者にも、仕事を与えました。この飴と鞭には、苦言を呈する者も出ましたが、きちんと賃金がもらえて、暮らしが改善するため、一定の効果はあったようです。

ペストやマラリアが蔓延する衛生環境を、ライフラインと医療設備の両輪で、改善しようと思えば、人もお金も必要で、進新平より先に総督府に赴任していた中村是公をはじめ、優秀な役人。各分野の専門家の協力と、日本からの資金援助も大きかったのです。

医師である後藤新平は、医療施設にも力を入れ、台湾の若者たちが、医療を学べるように、日本人も台湾人も分け隔てのなく学び、留学もできるように教育機関も設備します。

台湾の自活力を付けるため、各分野のスペシャリストたちを、あの手この手で口説いて台湾へ招致。農業生産量も増やすべく、声をかけ続けた結果、♂年齢域の仕上げとなる1901年(明治34年)。台湾総督府技師として、ついに新渡戸稲造が台湾にやってきました。

●♃年齢域 45~57歳 1902~1914年(明治35~大正2年)

台湾の近代化形成=後藤新平黄金期といえる、♃年齢域の前半。台北は大きな近代都市へと、変貌を遂げました。新渡戸が来たことにより、サトウキビ栽培改良や、サツマイモ栽培といった農業にも、変革を起こすことができ、精糖工業も活性化。

台湾に渡って仕事をする日本人も、増えてゆく中で、うまく溶け合う反面、日本の植民地化に対する抵抗も、根強く残っていていたのです。新平がこの世を去った後の1930年(昭和5年。事)。日本台湾統治期間最大の反日虐殺事件といわれる、霧社事件も起きました。反日感情から来る問題が、全くなくなったわけではありません。

阿片専売化では、星製薬(創業者が新平の盟友杉山茂丸の弟子)との癒着もあったと言われています。それでも、今なお、多くの台湾の人たちから、「台湾近代化の父」と呼ばれる後藤新平。

台湾の歴史語る上で、外すことができない存在となったのは、現地で暮らす彼らが、何に困っているのか、何を必要としているのかを、環境も把握しながら考え、近代化の土台作りを行ったからだと思います。もちろん、これは彼一人でできたことではなく、彼の求めに応じて、多くの人が集まり、携わったこともありました。

第1代台湾総督府から第3代台湾総督府まで続いた、軍人気質の統治では、できなかったことでもあったのです。

1904年(明治37年)台湾に住む日本人が、6万人に達していた時代、ついに日露戦争が始まります。政治家から軍人に戻る降格人事を、自ら受け入れた児玉源太郎は、陸軍の大将大山元帥と共に、大陸へ渡りました。陸海ともに大激戦の末、帝国ロシアを破る勝戦となったのです。

1905年(明治38年)9月4日(日本では9月5日15時)。ポーツマス条約が結ばれて、日露戦争は終結。日本は現在の中国の遼東半島の租借権と、長春以南の東清鉄道(満州鉄道)の利権を、国営ではなく、官民半々で経営するという条件付きで、ロシアから引き継いだのです。

「満州鉄道の地は清のもの。だから、清に返してしまおう」穏健的主張の伊藤博文に対し、「勝って得た土地と鉄道を、日本の権益のために利用する」と、牽制したのが、児玉源太郎でした。

戦利の地というより、満州はロシアと日本の緩衝地と、とらえたのかもしれません。 満州鉄道を返せば、清は喜ぶ上、息を吹き返したロシアが、侵入しやすくなる。そうなれば、死者84,000人、負傷者143,000人といわれる犠牲を出し、国民にも著しい負担をかけた日露戦争が、全くの無意味になってしまうという主張で、押し切ります。

満鉄をめぐっては、それぞれの欲と思惑もありました。陸軍から見れば、自分たちが犠牲を払い、心血注いで得た土地という思いもある満州です。軍政を敷いてガンガンと行く気満々。

領事館は「我々は外交の専門家」と、エリート意識丸出し。政治家は政治家で、利権のそろばんをはじく者もいました。が、鉄道経営は官民半々が条件なため、民間からも人が必要だったのです。人選については、鉄道利権や思惑とは別に、台湾統治に成功した後藤新平が適任者であろうと一致。こうして政府を代表して西園寺公之が、後藤新平にオファーをかけたのでした。

台湾は日清戦争の戦勝によって、日本領土にできた。そのため台湾人も、日本人と同等という位置づけで統治ができた。しかし、満州鉄道は日本のもの。線路を引いた土地は清の領土。そのため、清国の者を統治はできない上、ロシア人と日本人が混在している状況で、さらにとまとめることが難しい。

半官半民の満鉄は、東インド会社のように、「軍隊」を持たないため、守りが手薄。 治安の維持保証がなく、社員となる日本人の移住にも不安がある。という理由を述べて、新平はこのオファーを蹴ったのです。

1906年(明治39年)男爵を授与された新平は、南満州鉄道初代総裁の件で、7月22日。 児玉を尋ねて大論戦。答えを保留にしましたが、yes、no どちらにしても、返事を彼に告げる事は、二度と出来きませんでした。

翌日朝、児玉源太郎は脳溢血のため、亡くなってしまったのです。 台湾から帰国した新平は、同年11月。亡き友の願いを引っ提げて、満州鉄道初代総裁に就任してゆきます。

「陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行するにあり」という経営方針を軸に、台湾統治を始めたころ同様、満州調査事業も行ったのです。副総裁には中村是公を抜擢。岡松参太郎といった台湾開拓時代、行動を共にしてきた者たちも起用。三井物産、日本銀行からも優秀な若手が加わりました。

伊藤博文や西園寺公望の威光を、フル活用。官僚でありながら、鉄道社員でいられるように勅令の準備して、都市化計画に着手します。やるからにはやる後藤新平。満鉄を軸に、病院や学校といった設備も整えた他、文化や芸術をはじめとする施設や、娯楽設備も作りました。ホテルや炭鉱の経営も行い、現地民の雇用を促進するだけでなく、様々な分野の研究機関も充実させ、欧米人が来やすくします。大連の湾岸整備をはじめ、奉天や新京のライフラインも整備。近代化させたのでした。

多くの国の人が、様々な理由で満州にやってくる。活発に交流することで、文明国の日本を世界にアピール。懐の深さを見せることで、アメリカをけん制する狙いもあったのです。満州に強い関心を示す袁世凱と、彼を中心にまとまっていた北洋軍閥は、日本にとって脅威の一つでした。

日本の進出を抑えて満州鉄道の利権を得るため、袁世凱は、アメリカを巻き込もうと画策していたのです。後藤新平、袁世凱の不穏な動きを、武力ではなく、政治で止めるため、清とも接触。西大后に謁見。袁世凱とも会見を開きます。

さらにはロシアと清と日本の三国が、争うよりも、協力して互いに利益を得る方が、建設的と判断。ロシアとの関係改善を見据え、満鉄のレールをロシアから購入しました。

♃年齢期の絶頂を迎えた1908年(明治41年)。ロシア皇帝ニコライ二世とも謁見。 日本は桂太郎と西園寺の桂園時代で、満鉄を逓信省の主管に入れるという、桂の提案に乗った新平は、満鉄総裁の座を中村に引き渡して、ついに内閣入り。逓信大臣となりました。そのなごりが、赤い円筒形の郵便ポストと、簡易保険です。

この年後藤夫妻、結婚25周年でもありました。新平は苦労を掛け通しの和子に、欧米旅行プレゼント。しかし、自分が動くと政治や仕事からむ。奥さんのための旅行に、それは嫌でした。そこで気心知れた新渡戸夫妻が、里帰り(お嫁さんのメアリーはメリカ人)に行くので、同行という形で出発。

新渡戸は後藤夫妻について「後藤男爵に良いところがあるとすれば、それは夫人の影響を受けたから。また夫人に悪いところがあるとすれば、それは後藤男爵の影響を受けたから」と、言葉を残しています。

気難しい後藤新平は、北里柴三郎顔負けの怒鳴り口調で、部下を怒鳴る癖もあり、その都度、怒鳴られた人をフォローし、周りの人に気を配っていた和子でした。台湾で新平と仕事をした際、しっかりと夫を支える和子の姿を見てきた新渡戸は、彼が大きな仕事に立ち向かえたのは、奥さんの和子の支えが合ってのこと。そう思ったのでしょう。

後藤夫妻は、長男一蔵。長女愛子生まれています。時代が時代だったので、新橋の芸妓きみという女性が、新平との間に男4人女2人の6人ほど、子どもを産みました。実子との年齢差は、一回り以上ということで、♃年齢域後半に出会ったのでしょう。 和子亡き後も、彼らを実子に迎えることはありませんでしたが、子どもたちそれぞれを、教育の行き届く家に、養子として出しているも、この時代ならではの愛情表現だったと思います。

1909年(明治42年)10月26日ハルピンで伊藤博文が、安重根に暗殺されました。伊藤博文と、ロシア側の要人が、会談を行うためのハルピン行きでした。

この会談。手伝ったというより、仕掛けたという方が正しいかもしれませんが、過日、厳島神社を参拝した伊藤に、ロシア外相との会談を頼み込んだのは、他ならない後藤新平だったのです。日露のどちらも協力して、互いに豊かになることを願っての交渉ですが、伊藤が殺されたことで、不発に終わりした。

さらに当時の韓国に対して、穏健かつ融和であった伊藤を失ったことから、日本の朝鮮半島の植民地化が加速してゆくのです。ある意味、台湾統治と、韓国の統治の明暗を分けるきっかけにもなりました。

1911年(明治44年)ロンドンで開かれた国際連絡運輸会議で、イギリス→カナダ→日本→シベリアという経路で、世界一周をする世界周遊券。日欧を結ぶ東阪急周遊券が作られることが決まりました。「新橋から倫敦へ」というキャッチピーが作られ、1913年(大正2年)から切符の販売開始となったのです。そう、大正2年。

前年1912年(明治45・大正元年)後藤新平が明治天皇の崩御を聞いたのは、7月30日。桂と共に、ロシア訪問から、急遽帰国する途中でした。騒乱の中で桂内閣は瓦解。新平も大臣と鉄道員総裁の地位を免ぜられてしまいます。♄年齢域に入るので、一つの終息と観てもいいのかもしれません。

●♄年齢域 57~70歳 1914~1927年(大正3年~昭和2年)

明治から大正に移り変わる時期は、藩閥政治から政党政治に政治スタイルが変貌する時代ともいえます。世界は協商国と同盟国に分かれて戦った、第一次世界大戦(1914~1918年)に突入。 この戦争は空軍も含んだ、陸海空による近代戦の幕開けでもあったのです。

大臣と鉄道総裁の地位を失った後藤新平ですが、1916年(大正5年)寺内内閣で、内務大臣兼鉄道員総裁就任。シベリア出兵を推し進める。戦時中の欧州に、「戦時下の衛生調査」と称して、留学という形の職員派遣とか、オイオイな面もありました。

1918年(大正8年)終戦の年。和子が永眠します。57歳。 亡くなるには早すぎる年で、周囲は、その死を悼みました。新平と交流があり、漢詩の師と思われていた徳富蘇峰は、弔いの辞と共に「後藤男爵は最上無二の好伴侶を失った」とう言葉を残しています。

新渡戸や徳富の言葉から、彼女は、決して表には出なかったものの、嫌々黙って使えていたとか、涙に暮れて我慢という女性ではなく、後藤新平を支えてきた人が、伝わってきます。気が強いしっかり者の奥さんに、頭の上がらない新平だったのでは?と思うと面白い。今時の「わきまえない女」とは、真逆な女性ですが、できる事なら、彼女を主人公にしたドラマを見てみたいものです。

1919年(大正9年)ハルピン日露協会学校創立委員長となり、さらに桂太郎が設立した拓殖大学(前進は台湾協会学校)の学長に収まります。この学校との縁は、台湾統治時代からあるので、思いも強く、1929年4月まで勤めました。

学長としては三代目。直接経営に携わります。同年5月には、早稲田大学の科外講師として「吾が国大学生の覚悟」という講義も行うなど、教育に熱が入りました。 東京市長選に選出され、当選しますが、乗り気でないため断ります。一説によると、渋沢栄一の説得もあったようで、年棒を釣り上げを承諾させて第7代目東京市長に就任します。

1920年(大正10年)どうも東京を変貌させたい意志があり、自分の年棒を全額東京市に寄付。これが目的で、市長の年棒を釣り上げた説があます。

8億円をかけての東京改造計画提案に、周囲はビックリ。衛生環境改善のため、水道水をカルキ臭くしたのも、新平の仕業でした

後藤新平Nホロスコープと関東大震災

9月1日11時58分。茨城県千葉県をはじめ、静岡県の東部の内陸と沿岸を、震度7の地震が襲います。死者・行方不明者合せて、10万5000人と言われた関東大震災でした。

死者・行方不明者合せて、10万5000人と言われた関東大震災は、昼直前ということもあり、東京や横浜等、大都市は大火災を引き起こしました。8月24日第21代総理加藤雄三郎の病死を受け、28日に大命が下りた第二次山本内閣ですが、稼働前の空白期的な時間が流れていた時だったのです。

9月2日山本権兵衛が第二期内閣を指揮し、内務大臣兼務で帝都復興院を、後藤新平は引き受けたのです。 関東大震災の日、ASCは♐。山本権兵衛の☀星座は♐なのか、摩訶不思議ですが。

新平のNの☽に、T☀♀☊かかっているのと、♉にあるN♇♃♅には、T☽。しかもどちらも土星座。これ見ると、多くの人の人生と街の再生がかかっているのを物語っていますね。

ちなみに木星同士、土と水が混ざり合うオポジション。ここにN♇も加わって、具体的なものを形作るか、土石流にしてしまうか、それは本人次第の♏にある新平の♂♄に、時間と再生の王♇がかかっているのも、重いテーマと読めます。

・復興費30億円(現在の300兆円ほど)

・新都市計画実現のため、地主に対して断固とした態度で臨む。

・最新の欧米型都市をモデル(主にパリ)に、日本に合った都市を造営する。

東京市長時代に描いた都市計画。ここで実現!と踏んだのか、後藤新平の強気な提示に、周囲ビックリ。国家予算よりもはるかに大きく見積もった30億円は、5億7500万円となりましたが、その範囲で、最大限できることをしました。

現在の昭和通り。靖国通り(大正通り)。明治通り等は、この復興事業で作られ、「延焼処断帯」の役目を持たせたのです。当時は交通量も少なく、新橋から箕輪までの昭和通りは、中央が公園路になっていたとか。

いざという時、人々の避難路がなくならないように、隅田川にかかる9本の橋は、すべて鉄製に変わりました。(デザインは公募だったとのこと)隅田公園や浜町公園等、避難場所になるような公園を設けたのです。予算不足、不理解その他、様々な現実とのすり合わせの結果、パリのような都市にはなりませんでしたが、後藤新平の描いた起死回生の東京。そのグランドデザインは、今も引き継がれています

1924年(大正13年)には、社団法人「東京放送局」を設立。初代総裁となった新平は、翌年3月22日。日本初ラジオ放送が開始された際、挨拶を放送しています。 重要な位置に付くけど、責任も果たすけど、自由気ままにやりたい後藤新平。大正時代の末期も、やりたいようにやっていました。

●♅年齢域 70~72歳 1927~1929年(昭和2~昭和4年)

1928年(昭和3年)少年団日本連盟会長として、ソ連を訪問。スターリンと会談しています。 日清日露を経験し、そこに直接携わった友を見送った新平。日中ロがいがみ合うことなく、友好的であることが、国際上でも利するところがあると、伊藤博文にも説き、そのための協力を、彼に仰いだ経緯もありました。

伊藤が暗殺されたことにより、止まってしまった事を、晩年に成すもりだったのか、わかりませんが、人口増加問題を決策する策の一つとして、シベリア開拓移民という話を、東京市長時代に来日したソ連の外交官ヨッフェとしていること。モスクワで、スターリンと会ったのを観て、政治家や軍人の中には、快く思わない人もいました。

真意はわかりませんが、開拓できる場所があれば、新たな街づくりができる。というハラだったかもしれません。 いずれにしても、動いているのは好きで、終生現役を地で行ったのです。

1929年(昭和4年)4月4日午前中。岡山で開かれる「日本性病予防協会」の総会へ向かう列車中で、新平は倒れました。三回目の脳溢血を起こしたのです。京都駅で列車を止めて、京都府立医科大学医院に搬送れますが、同年4月13日息を引きとったのです。 享年72歳。♅年齢域に入り、間もなくのことでした。

「よく聞け、金を残して死ぬ奴は下だ。仕事を残して死ぬ奴は中だ。人を残して死ぬ奴は上だ。よく覚えておけ」これは三度目の脳溢血で倒れる日、同行していた三島通陽(作家。少年団日本連盟で新平と親しくなった)に語った言葉と言われています。

お話/緑川連理先生

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