1. トップ
  2. グルメ
  3. みんな大好き台湾スイーツ。浅草、銀座…戦前の東京にも広がっていた台湾グルメ

みんな大好き台湾スイーツ。浅草、銀座…戦前の東京にも広がっていた台湾グルメ

  • 2022.10.12
  • 610 views

タピオカミルクティーにかき氷、ルーロウファンにジーパイ。次々と日本に現れヒットする台湾グルメですが、実は戦前の東京にもさまざまな台湾グルメが渡来していました。食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

台湾スイーツ、オーギョーチ

タピオカミルクティーにマンゴーかき氷。日本でも人気の台湾スイーツ。

マンゴーかき氷(画像:photoAC)

そんな台湾スイーツの一つに、オーギョーチというゼリーのような食物があります。

オーギョーチ(画像:近代食文化研究会)

台湾料理を出す店はもちろん、現在(2022年)では大手中華チェーン、バーミヤンにおいても提供されている、人気スイーツです。

東京は根津にある老舗、「愛玉子(オーギョーチィ)」は、このオーギョーチを昔から提供している店。

根津の老舗「愛玉子」(画像:近代食文化研究会)

戦前からオーギョーチを提供している店舗はこの一店舗だけになってしまいましたが、かつての東京では、オーギョーチは浅草の名物とされていました。

浅草名物、愛玉只

“今の松竹座の横、六区への道に、オーギョチという、これこそは浅草だけにしか無い、不思議な食いものがあった。台湾産の植物からつくったとかいう、ところてんの如き、怪しげな、食いもの(というより飲みものに近い)だった。愛玉只と書いて、オーギョチと読むんだから、よほど不思議なことがお分りだろう。”

これは浅草を本拠地にコメディアンとして出世した古川緑波の証言(『ロッパの悲食記(ちくま文庫)』1995年刊 )。古川緑波が書いているように、戦前のオーギョーチには愛玉子ではなく愛玉只という漢字があてられていました。

かつて愛玉只店が並んでいた浅草の一角(画像:近代食文化研究会)

台湾の果実、カンテンイタビの種を乾燥させて、これを布袋に入れて水の中で揉むと、ペクチンが溶けて水がゼリーのように固まります。これに甘いシロップをかけて食べるのが オーギョーチです。

浅草を根城にしていた詩人のサトウハチロー(『僕の東京地図』1940年刊)によると、浅草のオーギョーチ元祖の店は、朝倉という店。台湾で役人をしていた人が始めた店で、店頭で種が入った布袋をもみ出しながら、

“第一に煮たり、やいたりする手數はいらない”

と実演販売をしていたそうです。

実は台湾経由で日本に来た焼きビーフンとバナナ、パイナップル

「ケンミンの焼ビーフン」でおなじみの焼きビーフン。実はこの焼きビーフンも、戦前に渡来した台湾グルメなのです。

塩崎省吾 『焼きそばの歴史《下》: 炒麺編』(2021年刊)によると、1903(明治36)年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会以降、さまざまな博覧会で「台湾館」 が設置され、ビーフンが紹介されていたそうです。

第五回内国勧業博覧会においては台湾料理店が出店されており、そのメニューの中には「焼三絲米粉」「焼鳩絲米粉」などの焼きビーフンが存在したとか。

1926(大正14)年出版の起業マニュアル、山本政敏『裸一貫生活法』では台湾名物ビーフンの販売を勧めており、戦前にもビーフンはある程度浸透していたようです。

山本政敏『裸一貫生活法』1926年刊より(画像:国立国会図書館ウェブサイト)

日本にバナナやパイナップルが定着したのも、台湾からの輸入が本格化してからです。

バナナは青果店だけでなく、夜の屋台でも売られていました。明治時代末から大正時代にかけての東京の庶民にとって、バナナは夜店で買うものだったのです。

夜店のバナナは「たたき売り」といって、 独特の言い回しで観客を集める大道芸的な商売。高値から始めて大胆に値段を下げていき、お客さんから「買った!」の声がかかると「持ってけ泥棒!」というのが定番でした。

十数年前、世田谷ボロ市でバナナのたたき売りを見たことがありますが、スーパーやコンビニで気軽にバナナを買うことができるようになった現在では、なかなか見ることのできない商売です。

銀座のおしゃれドリンクだったウーロン茶

1905(明治38)年、銀座に台湾喫茶店がオープン。ついたあだ名が「ウーロン」「ウーロン亭」「ウーロン喫茶」。そのあだ名のごとく、台湾産のウーロン茶を出す喫茶店でした。ウーロン茶もまた、台湾から日本に渡来したのです。

台湾茶(画像:photoAC)

このように日本のウーロン茶の歴史は、銀座の喫茶店から始まりました。ちょうどスターバックスが銀座に一号店を開いてから全国展開したように、ウーロン茶もまた銀座のおしゃれなイメージをまとって全国に普及していきました。

永岡涼風『涼風筆戦録』(1931年刊)によると、

“内地では近年、三越、高島屋その他、銀座の喫茶店、東京以外の六大都市の要所々々で読者は既にお馴染みの通り(中略)漸く一般家庭の常用にまで、普遍的に需要を喚起されつつあり”

ウーロン茶は台湾喫茶店から、三越や高島屋などの都市部の百貨店に広がり、そこから家庭へと伝播(でんぱ)していったのです。

近代食文化研究会(食文化史研究家)

元記事で読む
の記事をもっとみる