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「ほぼ日」で人気のニットデザイナー・三國万里子さんが「記憶の糸」で編み上げた作品とは?

  • 2022.10.12
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三國万里子さんをご存じだろうか。「ほぼ日」の「ミクニッツ」のニットデザイナーと言えば、「あ、あの人!」とピンとくる方もいるかもしれない。
ざっくりと太めの糸で編まれたセーターや幾何学模様のミトン、ポンポンのついたニット帽。どの作品も、トラディショナルでありながら斬新で、素朴さのなかに独特なセンスが光る。

そんな三國さんがこのたび、初めてのエッセイ集を上梓した。

温かく深みのある文章は、三國さんのニット作品に通じる。三國さんとは何者か、なぜ彼女の作品は人々を魅了するのだろうか――。

書くことでだんだんと身軽になっていった

自分の思い出話をするように、親しい友人たちに宛てて書き綴ってきたというエッセイ。心の中にしまい込んでいた記憶の断片をつなぎ合わせ、物語をつくりあげていく。それは自分が健やかに生きていくために大切なことだったと、三國さんは顧みる。

「書くことでだんだん身軽になっていきました。自分の来し方を振り返り、物語にしていくことは、誰しもある程度の年齢になったら必要なことなんじゃないかと思うのです。大人になると、心に気付かないうちにいろんなものが溜まって重くなるような気がします。混沌としたものを明快にしていくことが自分の哲学になり、次の一歩を踏み出すための指針にもなると思うので......」

よみがえった幼少の記憶もある。保育園の園庭にぽつんといる姿だ。お帰りの時間なのに、母は仕事で遅れているのか迎えに来ない。園の先生は言い包めようと適当な言葉で慰めるのだが、何度か続くと嫌でならなかった。

「"子どもだと思って、うそ言ってもわからないと思っているんでしょう? わたしは大人になっても、この悔しさや寂しい気持ちは絶対に忘れない!"と、怒りまくっていたまりこを思い出しました」と苦笑する。

女の子の「暗黙の了解」に壁

新潟の田舎で生まれ、勤勉で愛情深い家族の中で育った幼少時代。とても「スローな」子どもだったので、一歳違いの妹がいても一人で遊んでいることが多かった。小学校の頃までは教室に馴染めていたが、中学に入ってからは仲間の輪に入るのがしんどくなってしまう。中2の頃から早退を繰り返すようになった。

「皆があまりにも早く大人になっていくような気がして、自分のことがとても子供っぽく見えたのです。いつのまにかできた女の子の間の暗黙の了解みたいなものを理解できなくて、壁を感じる。とくに仲間外れにあったというわけではないけれど、自分は学校の中で異物っぽい感じがするなと思っていて」

三國さんはエッセイの中で、〈わたしは「自分という生き物」になるために繭を作っていたのかもしれない。薄い皮膚から漏れ出しそうな中身を守るために、ひとりになり、静かな場所で、さなぎの栄養となる「世界」をむしゃむしゃと食べながら〉と当時を回想する。

家に帰ると、音楽を聴き、本を読み、古い映画を観る。大人の文化にふれることで救われ、自分の居場所ができていく。さらに外の世界を開いてくれたのが「ひろしおじ」だ。東京で大学生活を送った後、富山の山奥でアルバイトをしながらスキーを滑って暮らし、フランスに長く滞在していた叔父で、帰省する度に話し相手になってくれる。「生きにくかったらフランスに行くといいよ。まりちゃんには合っている」と言われたこともあった。

「ここではないどこかで生きてみたいと思っていました。ひろしおじという人を通して、自分の未来も見えそうな気がしたので」と三國さん。

高校時代は自己流で受験勉強をし、叔父に薦められた東京の大学へ進学。フランス文学を専攻する。田舎にいた頃の息苦しさから解放され、遊び仲間もできた。それでも知り合いは似たような境遇の若者ばかり。自分はきっと社会に通用しないだろうと無力感を抱え、就活もせずに「フリーター」になった。

古着屋、秋葉原のゲームショップとアルバイトを転々として半年。長年付き合ったボーイフレンドとも別れ、どこか違う場所へ行きたいと思うようになる。叔父に相談すると、知人が経営する秋田の温泉宿で仲居の仕事を頼んでくれた。

「東京とまったく違う山奥の温泉宿に住み込んで、年齢も経験も大きく離れた人たちの中で働くことは、自分がまさにやりたかったことでした。おじいさん、おばあさんたちに可愛がられて働いていると、毎日が楽しかった。社会の中にはいろいろな働き方があって、"こういう生き方もありだなあ"と思えたのです」

25歳で結婚。専業主婦からニットデザイナーへ

東京へ戻ったのは5カ月後、24歳のときだ。まもなくアルバイト先で出会ったクラシック音楽の奏者と結婚。息子を授かって専業主婦になった。そこから思いがけなく「ニットデザイナー」への道が拓けていった。

「息子が生まれてまず考えたのは、この子を大学にやらなければいけないということ。私も働かなければと思うけれど、たとえばス―パーで勤めるとしても、レジ打ちが苦手なのでダメだろうな......と。そこで妹に相談したのです。すると、ものを作ることなら私にも向いていると思ったのでしょう。当時レストランに勤めていた妹は、店の片隅で『お姉ちゃんの小物と私がつくる焼き菓子でちょっとしたイベントをやろう』と提案してくれたのです」

姉妹の旧姓をとって「長津姉妹店」と名づけた展示会では、刺繍入りの鍋つかみやエプロンなどのキッチン小物がたちまち売れていく。お店で接客する妹から毎日電話があり、「今日はこんな人たちが買って行った」「すごく可愛いと言ってたよ」と報告してくれた。

「自分の作ったものが人に喜んでもらえるという実感があり、誰かの役に立っていることが目に見えるのは本当に嬉しかったですね」

もともと手芸は好きで、編み物は3歳から祖母に手ほどきを受けていた。最初は縫いものばかりだったが、試しに作った編み込みのミトンが思いのほか好評だったという。

「あの頃はミトンを編んで売る人もいなかったと思います。それが褒められたと聞いて、あまり人がやらないなら私がやろうと。実際にやり始めたら、すごく大変だったのですが」

編み込みのミトンを作るには3、4日かかり、毛糸代などを引くと採算がとれない。それでも買ってくれた人は翌年も身に付けて展示会に来てくれる。使い込まれたミトンを見る度、「なるべく長持ちしますようにと願いながら編んでいました」と三國さんはほほ笑む。

「書く」ことも「編む」ことに似ている

2年目からは編みものだけに切り替え、展示会も少しずつ広い場所にかえていく。世界中の編みものの資料を揃えてテクニックも勉強しながら、色や形を変えて作ることが楽しかった。小物からセーターへと、アイデアはいくらでも湧いてくる。ものを作ることが仕事になり、気がつくと「ニットデザイナー」に。初のエッセイ集『編めば編むほどわたしはわたしになっていった』というタイトルには、こんな思いが込められている。

「私はあっちにぶつかり、こっちへ転がってという風に生きることで『自分』がどんどん変わってきました。いろんな目に遭うことを厭わず、山奥の温泉で仲居をしてみたり、カッコいい男子がいたらどんなに冷たくされてもとりあえずぶち当たってみたり(笑)。様々な経験を重ねる中で繭がほどけて、ようやく小さな蝶々になれたのかもしれませんね」

三國さんは、「書く」ことも「編む」ことに似ていると気づく。書きたいことを探し、拾いながら、ひとつの「物語」につなぎ合わせていく。それは自分のセーターの作り方にとても近いのだという。

「セーターはひと筆書きのように一直線に進めていきますが、ずっと同じ場所で編んでいても旅しているような気持ちになるのです」

ざっくりと計画は立てても、最後の段にたどり着くまではただ手を動かして、形を追い続けるしかない。それでも最後まで行き着くことができるという、自信というか、予感のようなものが自分を導いてくれる。だから、「私は前進しているという感覚があって、書いているときもそんな気がするのです」と。

記憶の糸をたぐりながら編み上げられた珠玉のエッセイ集。私たち読者もその旅に誘われながら、自身の来し方を振り返る時を過ごしているような気がした。読み終えたときには少し心が軽くなっていて、ふと思う。自分のために温かなミトンを編んでみようかな、と。

■三國万里子さんプロフィール
みくに・まりこ/1971年新潟県生まれ。3歳で祖母より編みものの手ほどきを受け、長じて多くの洋書から世界のニットの歴史とテクニックを学ぶ。「気仙沼ニッティング」及び「Miknits」デザイナー。著書に『編みものワードローブ』『うれしいセーター』『ミクニッツ 大物編・小物編』など多数。

取材・文 歌代幸子/ノンフィクションライター

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