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【深発見62】立ち上がった民衆たち…大邱で起きた三つの事件

  • 2022.9.14
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薬令市や慶尚監営公園などがある大邱(テグ)の中心部が、日本の植民地支配から解放されて1年余り後の1946年10月、騒擾状態になったことがあった。

解放後の韓国は、極度の食糧難、急激なインフレ、伝染病の流行など、様々な困難に直面していた。そのうえ大邱などの南部地域は、日本からの帰還者などで人口が急増していた。

そうした10月1日、朝鮮共産党など左翼の人たちが主導し、大邱の中心部で行った飢餓対策などを求めるデモは、一般市民も巻き込み広がった。

デモを鎮圧する際、警察が発砲して死者が出たことで、騒乱はさらに大きくなった。翌日には、大邱地方に戒厳令を宣布。デモが治まるまでに、136人が死亡した。

この事件は大邱10・1事件とか、10月人民抗争などと呼ばれている。韓国では、1950年に朝鮮戦争が勃発する以前から、左右の対立により多数の犠牲者を出しているが、大規模な事件は、これが初めてであった。

今日の保守的なイメージとは裏腹に、解放前後の大邱は、「朝鮮のモスクワ」と呼ばれるほど共産主義者が多かった。

朴正煕の兄・相煕(サンヒ)も共産党に入党しており、この事件で、警察の発砲により死亡している。朴正煕自身も、左翼の活動をして死刑を宣告され、助命されたことがあった。

また政権末期になるにつれ独裁者としての悪名が高まった初代大統領・李承晩(イ・スンマン)は、1960年のいわゆる4・19革命で下野し、ハワイに亡命したが、4・19革命の先駆けとなる運動も大邱から始まった。

3月15日に行われた正副大統領選挙で李承晩の当選は確実であったが、側近の副大統領候補・李起鵬(イ・ギボン)の当選は厳しく、あらゆる不正を行った。

2月28日には、大邱で行われる野党の遊説に若者が集まるのを警戒し、市内の8つの高校の生徒に日曜日であるにもかかわらず、登校を命じた。

しかし学校に集まった生徒たちは、反政府デモを行った。これは「2・28大邱学生義挙」と呼ばれている。李承晩が下野するのは、その約2カ月後のことである。

各校の生徒たちが集結した薬令市の南にある明徳(ミョンドク)交差点には記念碑が建てられ、慶尚監営公園から中央路という大通りを挟んで東側には、2・28記念中央公園が造成されている。

大邱学生義挙記念碑(写真=大島 裕史)

この2・28記念中央公園の東隣には、国債報償運動記念公園がある。この公園の入り口にある達句伐大鐘は、大邱のシンボル的な存在であり、日韓共催の2002年のサッカー・ワールドカップの韓国戦では、パブリックビューイングが行われるなど、市街地の公園として親しまれている。

公園の名前になっている国債報償運動は、日本支配が進んでいた1907年、大邱の有志が、タバコを吸うのをやめて、その代金で日本からの借金を返済しようとした運動である。

近代化を推し進めていた大韓帝国は、日本から多額の借金をした結果、経済的隷属が進んでいた。国債報償運動は大邱から朝鮮半島全体に広がった。

この3つの事件・運動は、それぞれ性格は異なるが、大邱は民衆運動が盛んだったことを示している。

ではそんな大邱がなぜ、1960年代以降、軍事政権を支えた保守王国になったのか。その要因の一つが、1950年に勃発した朝鮮戦争であった。

文=大島 裕史

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