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賢者の選択心理テスト【スティーブ・ジョブズと羅生門効果】

  • 2022.8.17
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アップル社のスティーブ・ジョブズ公認の評伝「スティーブ・ジョブズⅠ」「スティーブ・ジョブズⅡ」の中に、【羅生門効果】という心理用語が出てきます。今回はこの心理用語を紹介し、心の持ち方について考えてみたいと思います。

平安時代、藪の中で、一人の男の死体が発見されます。胸を刀で刺されて死んでいました。 検非違使(けびいし。当時の警察)が、7人の関係者から事情を聞きます。

第一発見者の木樵(きこり)

「刀も馬もありませんでした。落ちていたのは、縄と女物の櫛だけです」

旅法師

「殺された男が、馬に乗った女といっしょに旅をしているところを、前日に見ました」

放免(ほうめん。検非違使の部下)

「殺された男の衣服を着て馬に乗った盗人「多襄丸(たじょうまる)」を捕らえました。女は見ていません」

被害者の妻の母親

「殺された男は侍で、私の娘の夫です。娘はどこに行ってしまったのでしょう?」

多襄丸

「あの夫婦を見かけ、女を奪ってやろうと決めた。男を木に縛りつけ、女を襲った。男を殺すつもりはなかったが、女が『二人の男に恥を見せるのは忍びない、生き残った男の妻になる』と言うので、男の縄を解いて、刀で勝負し、オレが勝ったのだ。しかし、その間に、女は姿を消していた」

清水寺に来た女の懺悔(ざんげ)

「わたしは、多襄丸に襲われた後、夫のそばに駆け寄りました。ところが、夫の目には、わたしへの蔑(さげす)みと憎しみの色が……。わたしは夫とともに死のうと思い、夫を刺し殺しました。そして、自分も死のうとしたのですが、死にきれず、こうしてやってきました」

巫女(みこ)の口を借りた死霊(殺された男の霊)の言葉

「多襄丸に襲われた妻は、私を殺すよう、多襄丸をそそのかした。その妻にあきれ、多襄丸は私に聞いた。『この女をどうする? 殺すか? それとも助けてやるか?』私はこの言葉だけでも、多襄丸の罪を許せる気がする。私がためらう間に、妻は逃げてしまい、多襄丸も姿を消した。一人残された私は、世をはかなんで、刀で自殺した」

7人の証言はそれぞれくいちがっていて、矛盾しています。結局、誰の証言が正しいのか、誰が真犯人なのか、わからないまま物語は終わります。

犯人がわからないままミステリーが終わっているようなもので、本当の犯人は誰なのか、これまで山ほどの論文が書かれてきたそうです。

しかし、いまだに決着がついていません。真実がわからないことを「真相は藪の中だ」と言うようになったのも、この芥川龍之介の「藪の中」がもとです。

あなたはこの7人の証言のくいちがいを、どう思いますか?

A「誰かが、あるいは全員が、自分に都合のいいように、ウソをついているのよ!」

B「当人たちは本当にそう思い込んでいるのかもしれないけれど、いつの間にか記憶を作り変えてしまっているのよ!」

C「同じ出来事でも、見る人によって見方がちがって、本当はどうだったかということは、なかなかわからないのでは?」

心が決まったら解説をんでください。

このテストから学ぶテーマ 「同じ出来事を見ても、人によって見え方がちがう」

この芥川龍之介の「藪の中」の7人の証言のように、「同じ出来事について語っていながら、それぞれにちがってしまう」ことを【羅生門効果】と言います。

なぜ【藪の中効果】ではなく、【羅生門効果】なのか?

ここがちょっとややこしいのですが、芥川龍之介の「藪の中」を原作として、映画監督の黒澤明が「羅生門」という映画を撮りました。「羅生門」というタイトルは、同じ芥川龍之介の別の短編からとったものです。映画の中にも少しだけその要素が入っています。

そして、この「羅生門」という映画が、ヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞し、世界的に有名になりました。 そのため、「藪の中」のストーリーは、「羅生門」として世界に知られることになり、その結果、心理用語も、【羅生門効果】となったわけです。 さて、この【羅生門効果】はなぜ起きるでしょうか?

大きくは3つの理由があります。それが今回の3つの意見です。

一つ目は、自分の都合のいいようにウソをつくということ。

これは当然あることです。ウソをついているうちに、本当に自分でも信じ込んでしまうこともあります。昔、ある裁判で、殺人の被告が無罪を訴え続けて、ついには「自分は本当に無罪です」という遺書を残して、刑務所の中で自殺しました。

しかし、その人が間違いなく真犯人であったことが、後でわかりました。自殺するくらいですから、助かりたいためにウソをついていたわけではありません。無罪を主張しているうちに、本気で自分は無罪だと信じ込むようになっていたのでしょう。

「そんなバカなことがあるものか」と思うかもしれませんが、人間の記憶というのは、実はかなり簡単に変化してしまいます。それが2つ目の理由です。

過去に父親から性的イタズラをされていたと娘が訴えた裁判で、その娘の記憶がじつはニセの記憶だったというケースが多数あります。

その逆で、実際に親が虐待をしていたのに、そのことをすっかり忘れてしまっている場合もあります。子供から責められても、「まったく身に覚えがない!」と本気で驚くのです。

「それはウソをついているだけでは?」と思うかもしれません。たしかに、そういう場合もあるでしょう。でも、記憶が変化していて、当人は本当にそう思い込んでいる場合もあるのです。

利害関係や自分の都合がまったくない場合でも、記憶は変化していきます。たとえば、認知心理学者のナイサーがこんな実験をしています。

1986年にスペースシャトルのチャレンジャー号が墜落する事故がありました。大変ショッキングな出来事で、多くのアメリカ人の記憶に焼き付きました。

ところが「事故の翌日に状況をくわしく書いてもらった記録」と「1年半後に書いてもらった記録」を比べると、内容に不一致な点が多々あったのです。

たとえば、事故を知ったときに自分がいた場所や、いっしょにいた人などがまるで違うのです。これには書いた当人が一番、驚きました。昨日のことのようにありありと思い出せるのです。それなのに、実は間違った記憶なのです。

この記憶の変化は、「自分にとって都合のいいように」ということは関係ありません。しかも、トラウマになるくらい、衝撃的な忘れられない事件です。それでも記憶は変化してしまうものなのです。

では、見たすぐ後なら、証言は一致するのか? これもじつはそうではありません。これが3つ目の理由です。私たちは同じ現実を見ても、それぞれに見え方が異なるのです。 なぜなら、現実というのは多面的で、さまざまに解釈できるものだからです。

たとえば円錐(すい)は、上から見れば○に見えますし、横から見れば△です。「これは○だ!」「いや、△だ!」と言い合いになってもおかしくないのです。円錐のような単純な人工物でさえそうなのですから、人間や現実の出来事はなおさらです。

スティーブ・ジョブズの評伝の「はじめに」でも、【羅生門効果】はそういう意味で使ってあります。その文を引用すると、次のようになっています。

「ジョブズに対しては、皆、プラスかマイナスか、とにかく強い感情を抱くため、同じ事実が見る人によって違って見える『羅生門効果』がはっきり出てしまう」

同じジョブズという人が、見る人によってまるで別に見えてしまうということです。 今の目の前の現実は、「今の自分の見方」でそう見えているだけで、別の見方をすれば、ちがって見えるかもしれないのです。

「自分の見方を変えることはできないか?」と検討してみる、いいきっかけになります。

嫌で仕方ないあの人を、別の角度から見てみることはできないか? 辛いことばかりに思える毎日を、別の角度から見てみることはできないか? もしかしたら、まったく別の面が見えてくるかもしれません。

<賢者の答え>

A「誰かが、あるいは全員が、自分に都合のいいように、ウソをついている」 →この意見をもっともだと思ったあなたは……

日常的にいちばんよくあるのは、たしかにこのパターンかもしれません。 でも、たとえばあなたが「あのときあなたはこう言ったじゃない!」、相手が「そんなことは言ってない!」と水掛け論になったとします。

このとき、「相手が自分に都合のいいようにウソをついている」と思ったら、相手が強く主張するほど、あなたも怒りが高まって、ケンカが大きくなってしまいます。 そういうときは、相手はウソをついているのではなく、本気でそう思い込んでしまっている場合があるのです。

また、あなたのほうの記憶も、あなたは絶対に間違いないと思っていても、実際にはちがっていることがあります。

記憶は人それぞれに間違っていることがあるし、出来事の見方はひとつじゃなくて、人それぞれにちがっている。そう思っていると、腹の立つことも減るはずです。謙虚にもなれるはずです。 新年から試してみていただくと、人間関係が少し円滑になっていくかもしれません。

B「当人たちは本当にそう思い込んでいるのかもしれないけれど、いつの間にか記憶を作り変えてしまっている」 →この意見をもっともだと思ったあなたは……

あなたは記憶の不確かさに気づくような体験をされたことがあるのでしょう。 「ドラえもん」では、のび太のお母さんとお父さんが、それぞれ「プロポーズをしたのはそっちだ」と言ってケンカになる回があります。

どちらが本当なのか、ドラえもんとのび太がタイムマシンに乗って、過去を見に行きます。ところが、じつはドラえもんとのび太が過去をいじったせいで、両方が本当なのでした。どうしようと思って現在に帰ってくると、お父さんとお母さんは、「そんなことはどちらでもいいよね」と仲直りしています。

これはとても大切なことです。記憶のちがいや、見方のちがいにこだわりすぎず、お互いに相手を受け入れるということです。自分に対してヒドイことをした人が、「そんなことはしていない」と言ったり、まったくちがったふうに記憶していたりすると、ものすごく腹が立つと思います。でも、あなたはすでにわかっておられるように、人間はそういうものなのです。腹を立てている自分のほうの記憶も、じつは真実とは少しちがっているかもしれません。

人の記憶はくいちがうもの。それが当然ということは、不必要に苦しまないために、知っておいたほうがいいことだと思います。

C「同じ出来事でも、見る人によって見方がちがって、本当はどうだったかということは、なかなかわからないのでは?」 →この意見をもっともだと思ったあなたは……

現実が多面的で、見方によってちがって見えることに気づいているあなたは、意識的に見方を変えることができていることでしょう。

もちろん、わかってはいても、なかなかできないということもあります。 人も出来事も、イヤな面ばかりが目につくこともあるでしょう。それはそれで仕方のないことです。 なにも良い面ばかりしか見てはいけないわけではありません。

酸いも甘いもではありませんが、良い面も悪い面も、多面的に見て、総合的にとらえることができれば、それがいちばんです。悪いところもあれば、良いところもある、というとらえ方は、曖昧でどっちつかずのようですが、こういう見方が実はいちばん強いのです。

悪い面ばかり見て、不必要なまでに落ち込むこともなくなりますし、良い面ばかり見て、後で裏切られたような気持ちになることもなくなります。 人や物事の悪い面ばかりが目につくようなら、意識的に見方を変えて、良い面も見ようと努力してみる。人や物事の良い面ばかりが目につくようなら、悪い面もあることを、無視しすぎないようにしてみる。そうすれば、より生きる力が湧いてくるはずです。

お話/津田秀樹先生

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