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今年も細田守の夏がやってきた! 『時をかける少女』が描き出す“不可逆な時間”の美しさ

  • 2022.7.1
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『時をかける少女』(c)「時をかける少女」製作委員会2006

今年も細田守の夏がやって来た。

2021年公開『竜とそばかすの姫』が大ヒットし、今や夏の風物詩となった『サマーウォーズ』、4月より劇団四季でミュージカルが上演中の『バケモノの子』などを手掛けた細田守監督。フリーに転向後、初の監督作となった『時をかける少女』が、7月1日21時より『金曜ロードショー』(日本テレビ系)で放送される。

主人公の紺野真琴は、突然の出来事により過去へと移動できる「タイムリープ」という能力を手にする。何度でも失敗をやり直せる力を手にして、自分にとって都合の良い方向へと出来事を操る真琴であったが、級友の間宮千昭が隠していたある真実を知って事態が変わり始める。

原作は筒井康隆の同名SF小説。1967年に刊行された小説をおよそ40年後にアニメーション映画として蘇らせた。

40年という時の流れを踏まえて思うのは、本作が「不可逆な時間」を大きなテーマとして描いているということだ。主人公の真琴が手にしたタイムリープの能力は過去に戻ることができる力だが、現実で時を巻き戻すことは不可能である。誰しもが1度きりしかない過去を通過し、今を生きているのであり、本作はそういった「一瞬」の刹那性や輝かしさを描いている。

このテーマについて語るとするならば、キーパーソンは彼女の級友である間宮千昭だろう。彼には重大な秘密があり、その秘密を真琴に明かすことで物語は大きく動き始める。

千昭が真琴に真実を伝え、街がストップウォッチをかけたように停止する一連のシークエンスは、本作における河川敷での名場面に先立つ裏付けのような立ち位置だ。群衆でごった返す交差点を、千昭は人の間を縫うように歩いていく。しかし群衆たちは動いていない。すべて停止しているのだ。

そして千昭はすべてを真琴に話し終わり、彼女に別れを告げる。手を振る千昭と、引き止めようとする真琴。しかし時は無常にも進みだし、動き始めた雑踏の中に千昭は消えていくのだった。

このシーンには特に強く「時の刹那性」を感じる。停止する群衆など本来はありえない。常に流動する人の流れの中に消えていく千昭を追いかけようにも、人ごみにまぎれた彼を見つけ出すことはできない。そうして時というものは無常にも過ぎ去っていく。

また、同じく時間というテーマをより深く描写するモチーフとして、「白梅二椿菊図」という絵を見るために千昭と真琴が美術館を訪れるシーンがある。修復中の絵を一目見たかったと話し、大飢饉と戦争の最中に描かれたというその絵を、「今」見ることに執着する千昭。

絵という芸術が時代を超えて人々の前に飾られること、どんなに過去であっても、確かにその絵を描き、時代を生きた人間がいること。「時間」とは何なのか、という深い思考をもたらすシーンとして、「時間」についての物語を成立させる側面として、絵画のエピソードは不可欠であり見逃せない場面といえよう。

また、真琴と仲の良い千昭ともうひとりの級友・津田功介が校庭でキャッチボールをするシーンも、平凡なように思えてそこに意味が内包されていると考えたい。緩やかな放物線を描くボールを捉える画面を見ていると、毎秒ごとにミットへ吸い込まれていくボール=すべてのものは時間というレール上で絶え間なく動き続けている、という力学的な考えに至りはしないだろうか。これはそのまま、本作が全編を通して描こうとしている「不可逆な時間」という概念に結びつく。

ボールが空中で止まったり、群衆がいっぺんに足を止めたりすることは起こりえない。私たちは常に進み、動き、未来へと向かっている。そのことを考えながらエンドロールの直前に描かれたワンカットを観てみると、より深く本作が言わんとしていたことについて考えることができるかもしれない。

夏という季節は短い。だからこそ美しく、忘れがたいものになる。『時をかける少女』は、そんな「今」観るべき映画だと感じる。ぜひ、ひと夏の出来事で成長し、未来に向かって美しいフォームでボールを投げる少女の姿を見つめてほしいと思う。(安藤エヌ)

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