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近代日本を導いた原動力 与謝野晶子

  • 2022.5.23
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異国文化が雪崩のように押し寄せた明治時代。ロマン主義の風が吹く文学界に、背徳の恋歌「乱れ髪」が、異彩を放ちます。日露戦争に出兵する弟を案じた長詩「君死にたもうことなかれ」は、さらなる物議を巻き起しますが、文学界の喧騒をよそに、大衆は彼女の歌を支持。歌人与謝野晶子の名声を押し上げてゆきました。

今回は、明治から昭和まで生き抜いた、情熱的な女性の星回りと、その人生にスポットを当てました。久しぶりにシナストーリーも加えています。

与謝野晶子ホロスコープ

1873年(明治11年)12月7日。大阪府堺市 12時設定

太陽星座♐ 14度55分

月星座♉ 14度12分(月のふり幅0時~23時59分・♉ 8度9分~♉20度17分)

北半球(円の半分から下)のハウスに星がないのは、第5室(嗜好の部屋)のみ。

第10室にある♍の♅と、第12室(障害溶解の部屋)♏の♂が、南半球(円の半分から上)に属しますが、視覚的には♅以外、すべて北半球に星が集まっているように見えます。

第1室(本人の部屋)は、狙いを定めたら一直線な♐に、☀♀のコンビ。これだけで運気よしというか、振り返ってもらえる感バッチリ。(誕生時間不明なため、ASCやMC。マイナーアスペクトは外してます)一つ飛ばして、第3室(幼年期の部屋)は、♒に♃☊。拡張機能に人脈がコンビ。働き方や、ライフスタイルを示す第6室(健康勤務の部屋)は、♉で♆☽♇のステリウム。☽と♇は、良くも悪くもタフさを引き立てる♂とオポジション。

さらに♆は、第2室(金銭所有の部屋)にある♑の☿。さらに第10室の♅とも土のトリンを構成。第3室の♃☊との相性も良いのを見ると、時代を越えてその名を知らぬ人がいないほど、有名人となった彼女を物語っているようなホロスコープです。

年表 (ウィキその他、資料参照)

1871年(明治11年)12月7日堺県和泉国第一大区(現大阪府堺市堺区)の老舗和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれる。父鳳宗七・母津弥。

1884年(明治17年)4月宿院尋常小学校入学。

1886年(明治19年)宿院尋常小学校高等科入学。後に新設の堺女学校へ転校。

1887年(明治20年)漢学塾で朱子学・儒学を学ぶ。琴や三味線等、芸事も習う。

1889年(明治22年)父や兄、鳳秀太郎(後の電気工学者)の影響で読書にハマる。

1892年(明治25年)堺女子学校卒業 同校の補習科に入学。源氏物語/樋口一葉の作品に傾倒。

1894年(明治27年)堺女学校補習科卒業。

1895年(明治28年)「文芸俱楽部」第9編に鳳晶子の名前で短歌が掲載される。

1898年(明治31年)「読売新聞」に掲載された与謝野鉄幹の短歌を知る。

1900年(明治33年)4月新詩社の機関紙『明星』が創刊。5月『明星』2号「花たがみ」に6編の詩を掲載。8月与謝野鉄幹と対面し、以降不倫関係となる。

1901年(明治34年)3月ゴシップ記事「文壇照魔鏡」が出回り訴訟となる。5月渋谷の与謝野の元へ上京。8月「乱れ髪」刊行。9月鉄幹、前妻と離婚。翌月晶子と再婚。

1902年(明治35年)11月 長男光誕生。

1903年(明治36年)父鳳宗七死去

1904年(明治37年)1月歌集『小扇』刊行。7月次男 秀誕生。9月『明星』に長詩『君死にたもうことなかれ』掲載。内容を巡り、大町硅月と激論を交わすことになる。

1907年(明治40年)1月選歌集『黒髪』刊行。2月母津弥死去。3月長女山峰・次女七瀬を出産。名づけは森鴎外。

1909年(明治42年)3月3男麟誕生。4月恋のライバル山川登美子死去。5月歌集『佐保姫』刊行。9月『源氏物語』の口語訳を執筆開始。この頃から、自宅で『万葉集』『源氏物語』の講座を開始。

1910年(明治43年)2月三女佐保子誕生。観潮楼歌会へ出席。

1911年(明治44年)1月歌集『春泥集』刊行。2月四女宇智子誕生。7月評論集『一隅より』刊行。夫の渡航費用捻出のため、グッズ販売を試みる。9月青鞜社創立。賛助会員となり、『青鞜』第1巻第1号に。『そぞろごと』発表。11月寛、フランスへ行く。

1912年(明治45年)1月歌集『青海波』刊行。2月『新約源氏物語』刊行。5月晶子フランスに向かう。10月単身帰国。

1913年(大正2年)1月寛、帰国。4月四男アウギュスト誕生。6~9月朝日新聞に長編連載『明るみへ』連載。

1914年(大正3年)1月歌集『夏より秋へ」刊行。5月紀行文『巴里へ』刊行。7月~翌年3月『新約栄華物語』上中巻刊行。第一次世界大戦勃発。

1915年(大正4年)1月『和泉式部歌集』寛と共著で刊行。雑誌「太陽」に『婦人界評論』連載開始。3月 五女エレンヌ誕生。『新約栄華物語』下巻と歌集『さくら草』刊行。この頃から評論の執筆が増える。

1916年(大正5年)3月五男健誕生。7月『新約紫式部日記・新約和泉式部日記』刊行。11月『新約徒然草』刊行。

1917年(大正6年)10月11番目の子寸誕生(2日で死亡)

1918年(大正7年)6月以降、平塚らいてう等と、母性保護論争を展開。8月米騒動とシベリア出兵宣言が起こる。小林政治の天祐社創設に夫婦で企画参加。

1919年(大正8年)3月六女藤子が誕生。4月寛、慶応義塾大学文学部教授に就任。

1921年(大正10年)4月男女共学の文化学院創設。

1923年(大正12年)9月関東大震災。『源氏物語』の原稿が文化学院と共に消失。

1924年(大正13年)婦人参政権獲得期成同盟会の創立委員の一人となる。

1927年(昭和2年)9月東京府下井荻へ転居。遙青書屋「采花荘」と命名。

1929年(昭和4年)1月『晶子詩編全集』刊行。

1930年(昭和5年)寛、文化学院退職。

1934年(昭和9年)晶子狭心症の発作を起こす。

1935年(昭和10年)寛、急性肺炎のため死去。『みだれ髪』英語訳ボストンで刊行。

1940年(昭和15年)5月脳溢血で倒れ、半身不随となる。

1942年(昭和17年)1月病状悪化。5月29日死去。6月1日告別式。9月遺稿歌集『白桜集』刊行。11月歌文集『落花抄』刊行。

与謝野晶子 history

●複雑な幼年期 ☽年齢期0~7歳1878年~1884年(明治11年~明治17年)

かつて商人の街として栄えた大阪の堺(現大阪府堺市堺区)。仁徳天皇陵が鎮座し、茶の湯の大家千利休ゆかりの地である町に、和菓子屋「駿河屋」を営む夫婦の元に、与謝野晶子は誕生しました。

父は鳳宗七。母の津弥は後妻で、二人の男の子に恵まれますが、長男秀太郎(後に電気工学者となる)は病弱。次男が夭折したことから、三番目は男の子を望みましたが、女の子の晶子が、生まれたのです。

本名は鳳志よう(ほうしよう)。本編は与謝野晶子、または晶子と表記します。

晶子の幼年期を紐解くと、「駿河屋」は経営が厳しく、家は傾きかけていた。男の子が欲しかったのに、女の子が生まれたため、両親はがっかりしたとか、いただけない話が出てきます。さらに、生まれてすぐ叔母の家に預けられ、三男の籌三郎(ちゅうざぶろう)が誕生する頃、実家へ戻ったという経緯もあり、落ち着かない環境で生育したことは、想像にたやすいと思います。

冷静にみれば、既に先妻の娘が二人いる、老舗の和菓子屋の後妻となった津弥は、女中にも気を使っていたのでしょう。病弱な長男。稼業に家事、老舗ということは、近所や親族付き合いも欠かせず、心身ともに目一杯で、乳飲み子の世話するのが、難しかったのかもしれません。

家庭の部屋である第4室♓の♄と、第6室の☽♆。♄は第6室の♇と重低音のセクスタイル。厳しく削られることもあるけど、最悪な事態はまぬがれる。シビア星が、これらを物語っているのかもしれません。同時に、、振り向かせるのが得意な☀♀を宿す晶子。 まだ幼い彼女の言動から、「賢さ」を見抜いたのは、父の宗七でした。

●店を手伝いながら、本を読みふける少女 ☿年齢域 7~15歳1884年~1892年(明治17年~明治25年)

「磨けば光に違いない!」そう思ったのか、小学校だけでなく、父は娘を私塾に通わせ、漢学や朱子学を学ぶ機会を与えます。しっかり者の娘は、店の手伝いをしながら、勉学の上、三味線に琴といった芸事まで、習わせてもらえました。

小学校も高等科へ進学します。当時の小学校の高等科は、義務教育ではなかったことから、家庭に余裕のある家の子が進学し、貧困な家庭の子は、初等科の4年で卒業すると、丁稚奉公などに出たのです。進学後 新設の堺女子校(現大阪府立泉陽高校)が開校したことから、こちらに転校する晶子は、本を読む楽しさにも目覚めました。

父の書蔵する古典を読むことを許された晶子は、『源氏物語』に触れる機会を得て、雅な世界に惹かれてゆきます。さらに兄弟がいる特権で、優秀な兄の影響から、対象年齢以上の本も読む好奇心旺盛な少女は、尾崎紅葉の作品や、艶やかな樋口一葉の作品にも惹かれ、正岡子規の俳句の素朴さに心吸い込まれました。

晶子の実家は「貧乏」といいつつ、大農家同様、「旧中間層」にあった商家なので、衣食住に困ることはなく、学問好きな父は、子どもたちの学びも応援したのです。15歳で堺女学校を卒業後、晶子は補習科に入学しました。この頃には、店の手伝いと家事にすっかりなれ、親としては頼もしい存在に成長してきたのです。

●歌人デビュー&理想の愛に一直線。後押しは♅?♀年齢域 15~25歳1892年~1903年(明治25年~明治36年)

♐を背景に、☀♀のオポジションを持つ晶子。補習科を卒業後は、家の手伝いをしながら、鳳晶子の名前で、活発な創作活動を始めました。

1895年(明治28年)『文芸倶楽部』に、短歌が掲載されます。大きく運勢が動く前には、思わぬきっかけも潜むものですが、この当時♐には♅がやってきていました。その効果発動うなのか、ある日、新聞に掲載されていた、歌人の歌に晶子は強く引き付けられます。

作者は与謝野鉄幹。当時、質実剛健な歌人として名を馳せていた人物でした。 晶子は、彼の歌に共鳴するだけでなく、人物にも関心を抱きます。 (本名河野寛。本編は、与謝野鉄幹もしくは、鉄幹で表記)。

姉に劣らず文学好きな弟、籌三郎の紹介で、浪華青年文学会堺支部に入会すると、鳳小舟というペンネームで、新体詩や短歌を発表。交友関係も広げつつ、鉄幹とも、歌の投稿を通して交流も始めました。

1900年(明治33年)4月与謝野鉄幹が創設した東京新詩社から、機関誌「明星」が創刊されると、晶子は社友になります。「明星」は、北原白秋や石川啄木といった歌人が、見出されてゆく雑誌で、多くの人に文学が身近になることを、期待する晶子の歌6首「花がたみ」も、5月に発刊された第2号に掲載されました。

彼女の才能にほれ込んだ鉄幹の采配で、以降、「明星」は、無名の新人鳳晶子の、執筆フィールドともなったのですが、これが後に騒ぎの火元となったのです。 二人が初めて互いの顔を見たのは、同年8月。短歌の革新運動のため、鉄幹が大阪にやってきた真夏でした。その後は晩秋の京都の栗田山に遊びに行きますが、歌会仲間の山川登美子も伴います。

え? 二人じゃなく三人?

はい、そうなのです。気心知れた女友達二人が、一人の男を巡って、微妙な恋のさや当てをするドラマや小説ではありませんが、登美子も鉄幹に惹かれていました。

女性二人のライバル意識が、過熱材料にもなったと思いますが、晶子は積極的に、彼との関係を深め、それを歌にも表していきます。

二人のシナストーリー

与謝野鉄幹本人の事に、少し触れます。

西本願寺の末寺成願寺の僧侶の息子として、生まれた与謝野鉄幹。旧時代の因習から、新時代への様変わり激しい時代の中で育ち、成人すると教師となりました。 山口県の徳山女学校に4年ほど国語科教師として勤めます。が、ここで女学生と問題を起こして退職。その後に結婚しますが、離婚して同じ学校の生徒だった林滝野と、再婚したのでした。二人の間には、子どももいます。

再婚後は京都に戻り、跡見女学校で教員を務めつつ、歌人落合直文の門下となって、歌詠みました。歌集「天地玄黄」を世に出し、その質実剛健な作風が評価され、注目を集めました。晶子と詩の交流を始めたのも、この頃で、我が世の春だったのでしょう。 名声があることを自信に、理想を追って1899年(明治32年)11月。東京で東京新詩社を立ち上げたのでした。

晶子21金星年齢域真っ只中。鉄幹27歳太陽年齢域真っ只中。

晶子の☀は♐。鉄幹の☀は♓。柔軟宮のカップル。晶子が満月に近い生まれなら、鉄幹は新月に近い生まれ。男女の仲へ発展するのも、無理からぬ所ですが、鉄幹の☀☿は、晶子の♍♅と対。この♅は、彼の♃ともヒット。鉄幹の♌は入口に♅。出口♃があり、夏の☀を刺激。♅は晶子の♃☊と対。互いの♂が、深淵の♏で合。さらに対岸の♉には、互いの♇が絡み合うという、火が付きやすく、それでいて一過性ではすみそうにない、宿命的な関係を表意しています。

♓に☀☿を持つ与謝野鉄幹。自己主張強めな野心家で、何事も言語化するのは得意。新情報を仕事や生活に応用することもできますが、自分大好き、マイスタイルの「理想」を優先しがちなので、現実が伴わない傾向アリ。

幼年期は厳しい家庭に育つか、苦労を伴いますが、プライド高く、スマートな自分を資本にしたい気質から、汗流して働くのは好みそうにありません。

進行中の♅効果真っ盛りの晶子。♉には、ぼかし効果の♆もあるので、文化人・芸術家には追い風。鉄幹の第5室が♈になっていますが、文学や芸術を好むだけでなく、浸り、理想や愛を求める♓の☀を第1室としてみた場合は、第2室金銭所有の部屋になります。♈に♀♆の合。第2室でも第5室でも、遊び心と、気持ちもお金も流れやすい傾向あり。 目立つ部分だけ、ピックアップしましたが、出会った男女が、夫婦になるのには、星もそれなりの形を見せていると思います。

明治時代は家制度が色濃く、女性の自由はなかったと言われていますが、戦乱もあった事から、離婚再婚は結構あったのです。男女双方がいい年の大人同士だったなら、周囲もそこまで目くじらを立てなかったかもしれませんが、彼が既婚者と知っている人たちから見れば、世間知らずな乙女たちを、引っ掛けたように見えたのでしょう。

その上、誌面でも、私情を挟んで晶子を起用。周囲が眉を顰めるのも無理はなく、晶子の家族も反対します。

鉄幹の理念や理想に心酔した晶子は、不倫の関係を止めることなく、お構いなしに、グングンと近づきました。 シンプルな♐気質なのか、♉の所有欲なのか、難易度が高いほど燃える!晶子は引くことなく、むしろ鉄幹への思いを、歌に反映していったのです。

1901年3月二人を誹謗中傷するゴシップ記事「文壇照魔鏡」が世に出回り、訴訟に発展した後、晶子は着の身着のままで出奔。鉄管の住む渋谷にやってきました。

好きな人の傍にいたい。

純粋な気持ちから、上京した晶子は、女中がいるのも不思議なくらいの貧乏と、彼の配偶者の顔を初めて目にします。いつの時代もそうですが、文筆者、文学者やアーティストで食べていける人は、ほんのわずか。明治の文明開化は、多くの歌人、文化人も輩出しましたが、実家が太くない限り、生活は暗澹たるものでした。

すべてを捨てた晶子は、配偶者がいようとお構いなく踏みとどまり、二人が出会ってから、1年目の夏を迎える8月。これまで「明星」に載せた鉄幹への恋歌を、まとめた6章からなる歌本「乱れ髪」、与謝野鉄幹プロデュース。鳳晶子の名で、世に送り出します。

「やは肌のあつき血汐にふれもみでさびしからずや道を説く君」

この歌が一番有名でしょうか。今の時代にはこれを読んでも、何も思わないかもしれませんが、当時は赤裸々な恋歌を、女性が歌うなどとんでもないと、「乱れ髪」非常にセンセーショナルな作品として、注目を集めました。

懐古的な文学者がけしからん!という中「感じるままに、思うままに歌うのか歌」と、晶子は主張し、譲ることはありませんでした。ロマン主義が流行り出していたのも後押しとなり、開放的な文学を好む若者は作品を支持。

「やわ肌の晶子」と、称賛を受ける中、煮え切らない夫の言動に、愛想が尽きた妻の滝野が、子どもを連れて離婚をしたのです(後に別の男性と再婚)。

こうして晶子は、相思相愛の鉄幹と入籍。世に言う略奪婚が叶ったのでした。

与謝野晶子としての作家活動も始まり、翌年には、長男が誕生する♀年齢域のラストですが、ろくに食べられなかったことから、子供は低体重児だったそうです。鉄幹は別れた妻からお金を借りるし、前妻が連れてきた女中からは、嫌味を言われて解雇するなど、気苦労も絶えないこともありました。

貧乏生活の中で、なんとか家計費をねん出するため執筆を続ける。娘を案じる母は、着物のほか、2回ほどお金を送ったそうですが、すべて一瞬で消えてゆく生活でした。

●名を馳せ駆け上がる☀年齢域 25歳~35歳1903年~1913年(明治36年~大正2年)

☀年齢域と重なる1903年(明治36年)。日本国内に、日露戦争の機運が高まる中、堺の実家では、父の鳳宗七が亡くなりました。長男秀太郎は、大学教授を目指すため、跡取りにはならず、店は弟の籌三郎が継いだのです。結婚もして、これで実家も一安心。

その弟が、日露戦争に出兵することを知った晶子は、大ショック受けました。 鉄幹との不倫騒動の中で、ずっと自分の味方でいてくれた弟の籌三郎。 24歳で、人生これからだというのに、何故、日露戦争に出兵?何故、旅順攻略戦になど参加するんだ?と、憤り交じりの疑問も吹き出したのでしょう。

「国の事などより、稼業の方が大切だ」

「えらい人は安全な所にいて、戦地に行かないじゃないか」

1904年(明治37年)の9月長詩「君死にたもうことなかれ」を生み出した原動力は、出兵する弟への思いからでした。 実際、旅順攻略戦のために、多くの日本人男性が、兵隊となって戦地に向かったのです。

国がなければ、自分たちの生活も立ち行かないこと。「植民地」となる事の恐ろしさも、冷静に考えれば、理解できる道があります。国際情勢がわかれば、避けたくても避けきれない戦で、国も大変な思いで準備をしてきたことも理解できたでしょう。ただし、それは「日常」とは別な事で、見ないままに生活しても済むのが、一般人でした。

時勢な事にも関心はあっても、晶子もここ数年の間は、我が事が非常に大きかったし、今は今で忙しい日々でした。自分自身や、身近な人が関わることにならない限り、考えないでいられるので、「ある日突然、戦がやって来た」という感覚にもなるのでしょう。

二児の母となり、母性的な思考も強くなっていた彼女故に、<刃を握らせて人を殺し、殺されるために、親は子どもを産み育てたりはしない>という意味を込めた歌は、子どもを、兄弟を、恋人を、家族を戦地に送り出す一般の人々の、強い共感を呼び、支持されてゆきます。

雑誌も思いのほか売れましたが、「国家観念をないがしろにする危険思想」と、問題視する大町桂月と晶子の間で論戦に発展。歌人や文化人も、それぞれ意見が割れる中、佐藤春夫は、自然な女性の気持ちを歌う歌と、好評価をしています。いずれにせよ、論争になる分、注目を浴びた晶子は、仕事の舞い込む書き手になってゆきました。

占星術的には、♐を進むT♅が仕上げモードになる時を迎えたのと、乙女座にある晶子のN♅に、T☀がヒットしていること。この時期、♀が♍を通過しているのも、理由になると思います。

ちなみに歌の主人公の籌三郎ですが、大阪第4師団8連隊に所属。旅順攻略戦には行かず、部隊が遼陽会戦で戦っていました。姉同様、読み書きが得意な籌三郎は、上官に重宝がられ、書記を担当。最前線には立つことなく、無事に復員しています。

1907年(明治40年)母が鬼籍に入った後、晶子は女の子の双子を産みました。この双子の名付け親は、森鷗外です。夫妻揃って、鴎外とは親密な付き合いをしていました。 自然主義が全盛となり、北原白秋や吉井勇が新詩社を辞めて、「明星」は廃刊。プー太郎となってしまった与謝野鉄幹。翌年には、三男が生まれ、続いて三女、四女と、与謝野家、毎年子どもの数が増えてゆきます。

最終的に12人の子どもを産むことになるのですが、夫が働けない分、家計を維持するため、歌集の他に童話。評論等、精力的に執筆量を増やす晶子でした。

今の時代と違って、ガスコンロが使えるわけでもなく、電子レンジもありません。洗濯機もありません。なんでも手作業な時代に、子どもたちの世話と家事、さらに多数の執筆が可能だったのは、女中さんがいたからに尽きました。

算術の他に、他人と如才なく接する術を身に着けてい晶子。おかげで、鴎外をはじめ、多くの協力者を得る下地となり、引き寄せるがごとく、大好きだった「源氏物語」の口語訳の仕事をゲット。自宅を使って、夫婦で「万葉集」「源氏物語」の講義も始めます。

☀年齢域の終盤に差し掛かる時期、職に就けず、作品も描けず、スランプに陥っていた鉄幹に、「気分転換に留学に行ってきたら?」と、海外旅行費を工面してしまう彼女には、恐れ入ってしまいます。

強気な明治女性だからなのか、柔軟な♐の☀がさせたのか、どちらにしても、かなり太っ腹な一面を持っている晶子に、平塚らいてうが、声をかけたのもこの頃でした。

女性のための出版社を作るという、らいていのオファーに、晶子は躊躇しますが、賛助会員となり、初女性文芸同人誌「青鞜」の第1号に、「山の動く日来る」で有名な「そぞろごと」を書きました。

1912年(明治45年)『新約源氏物語』を刊行した後、フランスに留学している夫からの誘いもあり、森鴎外の協力を得て、晶子はパリへ旅立つことを決めます。 読売新聞が、晶子の旅を取り上げたことから、出発は一大イベントになりました。

子どもたちを、女中さんに任せて、福井県の敦賀港へ向かい、ウラジオストックからシベリア鉄道で、巴里を目指す旅に出た晶子。いて座は旅好き星座。見るもの聞くもの、すべて新鮮で、カルチャーショックを受ければ受けるほど、楽しくなるのです。

5月中旬にパに着くと、念願の夫と再会。日本とはまるで違う花が咲くパリが、すっかりお気に入りになった晶子は、街の様子や様々な事を楽しんだことを、旅行記につづります。 その楽しさが、7月に明治天皇崩御の訃報が、入ったことで、止まりました。

晶子の太陽年齢域の終わりは、明治の終わり。大正の始まりと重なったのでした。 日本の歌界を、けん引する夫妻の心は重くなり、パリを離れてベルギーやオーストリア、英国といった近隣の国々を訪れます。楽しみましたが、晶子は日本で暮らす、子どもたちの事が頭から離れなくなりました。体調もすぐれないため、訪仏していた日本人医師に診察してもらうと、妊娠がわかりました。 こうと決めれば動きの速い晶子は、鉄幹の留学スケジュールより一足早く帰ることを決めると、体が安定した11月に、マルセイユから船に乗り、日本へ帰ったのでした。

●激闘そしてスペイン風邪 ♂年齢域 35歳~45歳1913年~1923年(大正2年~大正12年)

留学を終えて夫が帰国した後、四番目の息子が生まれます。名前はアウギュスト。訪仏中、彫刻家のロダンと親しくなったことから、彼の名にあやかりました。翌年生まれた五女エレンヌは、名前の由来がわかりませんが、欧州に行った影響で、つけた模様。後に子どもたちが困ることで、この二人は改名をしています。

大正時代早々に、第一次世界大戦が起こりました。その時の気持ちを、ストレートに表現している晶子。この時は「今は戦う時である。戦嫌ひなわたしなさへ、今日この頃は勇気昂る」という歌を書いています。日露戦争の時とは違ったようで、反戦に関しては、一貫性がありません。

五男の健が生まれた翌年。ロシア革命起きる1917年(大正6年)に、11番目の子を産みますが、この子は二日後に亡くなっています。

夫が職ナシ状態の中で、何人もの子を産みながら、仕事を続けられたのは、家事や育児を支えてくれる女中さんのかげですが、雇う以上は、賃金も払い続けなければいけません。身体的にも、経済的にも、精神的にも、楽ではなかったと思います。 運勢的に観れば、略奪婚をしたことへの代償だったのかもしれません。

結婚した頃から♑にあった制約の♄は、1917年。♌で♆♄となります。

スペイン風邪が猛威を振う時期でもありましたが、全世界で約6億人の患者数。そのうち、約4000万人の人々が亡くなったそうです。日本では、感染者数が約2400万人。死者は約40万人。これだけでも痛手なのに、大戦の煽りもあって、世相は荒れ気味でした。

以前賛助会員になった「青鞜」の平塚らいてうと、晶子の間で、「母子保護論争」を展開し、世間の注目を集めます。

<女性の社会的地位の向上や、女性の経済力をどうつけるべきか>

<働く女性と子育てについて、どうあるべきか。>

鹿鳴館の花として娘時代を過ごし、母のバックアップで、「青鞜」を興した平塚らいてう。フェミニストの旗頭的存在な彼女の主張は「妊娠や出産・育児という女性の抱える負担は、国が全面的に保護するべき」でした。

今や花型書き手であり、職業婦人の代表格の立場の与謝野晶子は、「国家による保護は依頼主義」「何かに頼るうちは、女性の真の自立ナシ」と、真っ向から対立したのです。 熱くぶつかり合いですが、結論が出ないまま、世間は寺内内閣の失策ともいえる米騒動と、シベリア出兵。広がるスペイン風邪へと、関心が移っていきました。

小林政治が立ち上げた天佑社の企画に、与謝野夫婦は参画する頃、スペイン風邪の死亡率上がりだします。米騒動の時は都市で、5人以上集まって歩くことを禁じた政府が、スペイン風邪の罹患には対策を打ち出さない事へ、猛然と批判をしたのでした。

『感冒の床から』『死の恐怖』は、この時書いた作品で、当時の感染症の様子が描かれています。

1919年(大正8年)12番目の子藤子を出産した春。まるで付き物が取れたように、鉄幹、慶応大学文学部の教授として、働くことが決まりました。

♓に♅入り。T☀は♈。この頃牡羊座は、☿と♂も進行中。鉄幹のN♀♆を、いい意味で刺激したのでしょう。♉には♀が里帰りしていて、晶子の♆☽♇を輝かせます。

☀年齢域、♂年齢域の約20年近く。子どもを産み育て、執筆業で家計を支えた晶子の激闘期が、ここで一段落します。

風向きが変わった運勢は、夫婦を新たなステージに誘いました。

欧州を旅した時に観た、個を重視する教育の在り方を、日本の学校にも取り入れたい与謝野夫妻の思いと、娘を良き学校に入れたいため、学校を作るべく神田駿河台に土地を購入した建築家、西村伊作の思いが一致して、文化学院を開校させます。 スペイン風邪が落ち着いた1920年(大正10年)。学校令に左右されない一流の芸術家と、文化人の元で学ぶオルタナティブ校で、晶子は学監に就任します。

「明星」を復活させた後、1911年(大正11年)これまでずっと夫妻の支援者だった森鴎外が、この世を去りました。長いトンネルを抜けて、ようやく動き出した矢先、鉄幹は強力な援助者をなくしたのです。

●活動領域がグンと広がる♃年齢域 45歳~55歳1923年~1933年(大正12年~昭和8年)

晶子の♂年齢域と、♃齢域が交差する1923年(大正12年)。 まだ夏の暑さが残る9月関東財震災が発生。文化学院と、数千枚に及ぶ源氏物語の完訳原稿が、焼失するという重大アクシデントが起きました。

多大なる犠牲をもたらした震災から、復興に向かって世の中が動き出した時、女性の参政権運動が起こります。この頃はまだ、女性が選挙投票をする資格がありませんでした。

事ある都度、政治に不信を募らせ、抗議もするし、作品にしているものの、それが議会には響かない。女性が政治に参加してゆく道を作るべく、晶子は婦人参政権獲得期成同盟会の創設委員となったのです。

蛇足ですが、この当時、女性は政治活動そのものに参加する事が、禁じられていたのです。それは女性を卑下してみていたからという論調もありますが、この当時の思想活動や政治活動って、今より過激で暴力的な面も強く、人死にも結構ありました。そこから女子どもを守る意味もあったので、一概に悪いとは言い切れないと、筆者は考えています。

1927年(昭和2年)第二次「明星」は、事実上の廃刊となりますが、与謝野夫婦は新たな活動拠点として、東京府下井荻へ転居しました。手を焼いた育ても一段落。 上の子から結婚していく時期を迎えます。

「現代日本文学全集」「現代短歌全集」に、作品が収録されました後、与謝野晶子50歳の誕生祝賀会が開かれました。

1930年(昭和5年)文化学院を退職した鉄幹は、結社誌「冬柏」を創刊。晶子は文化学院の部長に就任します。♃年齢域に入った晶子、グンと社会的な活動増えてきますが、執筆も休むことなく、続けました。

1932年(昭和7年)鉄幹は、慶応義塾大学を退職。毎日新聞の歌詞公募に『爆弾三勇士の歌』を投稿。これが当選します。

●一つの基盤を耕し終える♄年齢域 55歳~63歳1933年~1942年(昭和8年~昭和17年)

1933年(昭和8年)2月与謝野鉄幹60歳の祝賀が、晶子の♃と♄年齢域が交差する年と重なりました。高島屋で与謝野夫妻の著書展覧会も開かれました。

鉄幹の☀を拡張するように、♍の♃が効果を発揮しています。♈を進む進行中の♅は、鉄幹の♀♆を刺激。晶子は♍に♅を持っていますから、一つの頂点越えともいえる運気。この著書展覧会が、その一つの形だったのかもしれません(高島屋も、与謝野夫妻も、そんなことは全く知らずに迎えた行事ですが)。

その後、狭心症の発作を起こした晶子は、活動をセーブします。 1935年(昭和10年)3月。与謝野鉄幹が急性肺炎で死去してしまいます。この年は、次男の結婚と、ボストンで「乱れ髪」の英訳版が、刊行される節目年でもありました。

1937年(昭和12年)鉄幹の三回忌が営まれ、夏には高野山夏期大学で、晶子は講師を務めた後、「新万葉集」の唯一女性選者となりました。 さらに翌年、あの震災から10年以上の歳月をかけて、秋にはようやく「新新約源氏物語」が完成したのです。一年後の1939年(昭和14年)10月「新新約源氏物語」完成祝賀会が行われました。

その後、脳溢血で倒れた後遺症で、半身不随となった晶子は、移動困難のため、1941年(昭和16年)3月と5月。京都で営まれた与謝野鉄幹七周忌法要を、欠席しています。太平洋戦争が勃発する年でもありますが、12月与謝野晶子63回誕生祝賀が開かれました。

1942年(昭和17年)病状が悪化し、5月29日に亡くなっています。6月1日告別式後、多磨霊園で夫の眠る隣に埋葬され、9月遺稿歌集「白桜集」が刊行されました。

明治中期に生まれ、大戦直前まで、日本の文学界に大きく貢献した与謝野晶子。その人物がたどった人生を追うので、今回は不倫という事にも触れ、経過も描きました。

執筆に教育、思想、女性の社会活動へと、活動領域を広げた彼女のパワー。個人の人生ではあるけれど、激動かつ、力をつけてゆく日本と重なるし、その背後で、日運、年運、時代運の星たちが一役も二役も支えていた。と思えます。

お話/緑川連理先生

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