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【戦国武将に学ぶ】酒井忠次~家康と信長の信頼得た故に苦しんだ「信康事件」~

  • 2022.5.23
愛知県岡崎市にある酒井忠次像
愛知県岡崎市にある酒井忠次像

徳川家康の家臣で、特に重く用いられた4人を「徳川四天王」と呼んでいます。酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人です。ただ、酒井忠次と他の3人では親子ほど年齢の差もありますし、家康家臣として活躍した時代も違っていますので、4人を並べるのには少し違和感があります。

同時代の史料には「徳川四天王」とは出てきません。江戸時代になって、そのような言い方が生まれたものと思われます。

奇襲献策、歴史的勝利に貢献

忠次は1527(大永7)年の生まれで、家康より15歳も年長です。しかも、忠次の正室の碓井(うすい)姫は、家康の父松平広忠の妹で、叔母にあたります。おそらく、若い家康にとっては、単なる家臣ではなく、一族の重鎮といった思いで接していたものと思われます。

1560(永禄3)年の桶狭間の戦い後、家康が今川家から独立し、三河一国を平定したとき、家康は家臣団を2つに分け、東三河の家臣団を忠次につけ、吉田城(愛知県豊橋市)の城主とします。ちなみに、このとき、西三河の家臣団は石川家成につけ、のち、石川数正に代わります。しばらくの間、酒井忠次と石川数正のことを「両家老」と呼んでいます。

その忠次の軍功として知られるのが1575(天正3)年5月の長篠・設楽原の戦いにおける鳶ケ巣山砦(とびがすやまとりで)の攻撃で、このことについては興味深いエピソードが伝えられています。

決戦前夜の5月20日、信長の陣所で軍議が開かれ、そこに家康とともに忠次が出ていました。その軍議の席上、忠次が、長篠城を包囲している武田方の鳶ケ巣山砦などへの奇襲攻撃を進言しました。すると、信長は「そのようなことは田舎武者のやることだ」と、忠次の提案を一蹴。恥をかいた形の忠次が自分の陣所に戻ったところ、「すぐ信長さまのところに来るように」との命令があり、忠次は、「また、けなされるのではないか」と暗い気持ちで信長の前に出たのですが、「いい策だ。すぐ実行せよ」とのこと。信長は、軍議の席でそれを決めることで、敵に察知されるのを恐れていたというわけです。

この鳶ケ巣山砦への奇襲攻撃が20日深夜から21日早朝にかけて実行され、押し出された形の武田軍が、設楽原に出てきて、そこで信長の鉄砲隊によって大打撃を受けることになります。つまり、忠次の献策とその実行によって、織田・徳川連合軍勝利へとつながったわけです。

信長の詰問に弁護できず

このことがあって以来、忠次は信長から信頼され、家康から信長へ使者が遣わされるときは、忠次がその役を務めることになります。ところが、そのことが結果的に忠次を苦しめることになるのです。

1579(天正7)年、「信康事件」とも「築山殿事件」ともいわれる事件が起きます。家康の正室築山殿と嫡男信康が武田勝頼と内通しているのでは、と信長が疑い、その弁明の使者として忠次が信長のところに赴きました。信長から詰問された忠次は、信康と築山殿を弁護することができなかったのです。

この事件は、結果として、信康の自害、築山殿暗殺という形で終わるわけで、忠次としては、後味が悪い出来事だったと思われます。

なお、忠次の戦場での働きがみられる最後は、1584年の小牧・長久手の戦いのときの「羽黒の陣」です。このとき、忠次は羽柴秀吉方の先鋒森長可(ながよし)を破っています。局地戦での家康方勝利の一つにカウントされています。

1588(天正16)年、忠次は家督を嫡男家次に譲り、隠居。1596(慶長元)年、70歳で亡くなりました。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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