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『ショーシャンクの空に』はいかにして“名作”となったのか 今こそ沁みるラストシーン

  • 2022.5.20
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『ショーシャンクの空に』(c)1994 Castle Rock Entertainment. All Rights Reserved.

スティーヴン・キングはホラーだけの作家にあらず。そのイメージを初めて映画ファンにもたらしたのは、青春映画の金字塔となった『スタンド・バイ・ミー』(1986年)だろう。監督のロブ・ライナーは同作の成功を機に、キング作品の舞台となる架空の町の名前をとって、製作会社キャッスルロック・エンタテイメントを設立した。

しかし、映画界ではその後も相変わらず、キングはジャンル映画ファン御用達作家として重宝され続けた(著者本人が1986年の『地獄のデビル・トラック』なんていうジャンル愛まるだしの珍品で映画監督デビューしていたせいもあると思うが……)。キャッスルロックも『ミザリー』(1990年)、『ニードフル・シングス』(1993年)とホラー寄りの作品を相次いで映画化し、ようやく非ホラーに取り掛かったのが、1994年公開の『ショーシャンクの空に』だった。

監督・脚本を務めたのは、これが初の劇場用長編となったフランク・ダラボン。当時は監督としては未知数で、こんなにストレートな人間ドラマとしてキング原作を映画化できるなんて、ジャンルムービーにさほど興味がないのかとさえ思った。しかし、それ以前には脚本家として『エルム街の悪夢3 /惨劇の館』(1987年)、『ブロブ/宇宙からの不明物体』(1988年)に参加するなど、むしろ熱烈なジャンル信奉者であり、さらに筋金入りの「キング愛」の持ち主であることも後から知った。何しろ、まだ学生だったころにキングから短編小説『312号室の女』の映像化権を格安で取得し、30分のショートムービー『老母の部屋』(1983年/オムニバス『スティーブン・キングの ナイトシフト・コレクション』に収録)で早くも監督デビューを果たしているほどだ。

ダラボンはほかにもキング作品の映像化権をいくつか取得しており、そのなかに連作中編集『恐怖の四季』の一編「刑務所のリタ・ヘイワース」があった。舞台は太平洋戦争が終わって間もないころのアメリカ、メイン州にあるショーシャンク刑務所。妻と愛人を殺した罪で収監された元銀行員アンディと、刑務所内の調達屋をつとめる終身犯レッドが長年にわたって紡ぐ交流、そして大胆不敵な脱獄を描いた物語だ。言うまでもなく、ホラーではない。

これをダラボンは映画脚本として巧みに整理した。1947年から1976年まで続く原作の時代設定も60年代中ごろまでに圧縮。何度か入れ替わる刑務所長や看守のキャラクターも絞り込み、映画オリジナルのエピソードやセリフも随所に散りばめた。『暴力脱獄』(1967年)や『パピヨン』(1973年)といった「刑務所もの」の名作群からエッセンスを援用し、最終的にはジャンルに限定されない全方位型のヒューマンドラマとして作品を完成させた。そこには、キングという作家の才能をホラーファンだけでなく、もっと幅広く世に知らしめたい! という熱烈な「推しの心」もはたらいていたに違いない。

製作のロブ・ライナーとキャッスルロックは、ある時期まで本作の企画を大スターの共演作として進めようとしていた。一時はトム・クルーズとハリソン・フォードが主演候補に挙がったこともあったという。ダラボンはそれも悪くないと考えていたが、最終的にはアンディ役にティム・ロビンス、レッド役にモーガン・フリーマンという実力派キャストの起用を決めた。この時点で、作品全体の作りも大きく方向性を変えたのだろう。主演スター頼みの話題作として作れば、刹那的なヒットは見込めるが一瞬で消費される可能性も高い。しかし、ダラボンは地味だが長く記憶に残る、一切無駄のない142分の良質の映画にするという道を選んだ。新人監督にとっては大きな賭けでもあったはずだ。

実際、『ショーシャンクの空に』は批評家ウケこそ良かったものの、初公開時の興行はあまり振るわなかった。同年には『パルプ・フィクション』や『フォレスト・ガンプ/一期一会』などのトリッキーな作劇が話題を集めていたことを思えば、確かに地味で直球で落ち着きすぎていたかもしれない。それでいて刑務所映画ならではの口汚いセリフと暴力描写のおかげで北米ではR指定となったのも、興行面で不利な条件となった。

しかし、その後のソフトリリースやTV放映、アカデミー賞ノミネート後の再公開などを経て、本作は徐々に観客の支持を得ていった。いまや『スタンド・バイ・ミー』と肩を並べる名作として定着し、キング作品やホラー映画のファンでなくとも「繰り返し観る、お気に入りの1本」として挙げる人は多いのではないだろうか。ダラボンの賭けは、見事に実を結んだといえる。

日本では1995年6月、松竹東急系で全国公開された。リアルタイムで観た印象としては、なんといっても主演俳優2人の「旬」に立ち会っている感が強かった。モーガン・フリーマンは『許されざる者』(1992年)、『アウトブレイク』(1995年)、『セブン』(1995年)と代表作の公開が相次いでいる時期で、本作のレッド役も前述の作品群に引けを取らないハマり役だった。

原作のレッドはアイルランド系の白人という設定で、保険金を目当てに妻を計画的に殺した罪をのっけから読者に告白する、なかなかにヤバい男である(しかも過失とはいえ、知人の母子まで巻き添えに)。だが、映画では中年の黒人男性という設定になり、フリーマンが持ち前の落ち着きと頼もしさ、知性とユーモアをもって、ベテラン囚人を味わい深く演じている。その罪の詳細は劇中明らかにされないが、「若造のころに1人の男を殺した」ということだけが端的に語られる。人種差別がはびこる時代のアメリカで、彼が殺人を犯し、有無を言わさず終身刑を言い渡された状況、人生の大部分を塀の内側で過ごしてきた男の悔恨と諦念を、ダラボンはフリーマンの姿を通して観客にただ想像させる。原作そのままの設定では出せなかったであろう深みが、このキャスティングで見事に醸し出されている。

アンディ役のティム・ロビンスも『ザ・プレイヤー』(1992年)以降、役者として絶頂期を迎えていたころだ。『未来は今』(1994年)でも存分に発揮されたベビーフェイスがもたらす純真無垢なイメージ、さらに『ザ・プレイヤー』で見せた危険な知性と悪意、これらを両立させてしまう演技力は、本作で演じたアンディのミステリアスな人物像にも大いに役立っている。ちなみに原作のアンディは「小男」という設定だが、身長195~6cmのロビンスが脱獄に挑むことで、さらにサスペンスは倍増。いろいろな意味で秀逸なキャスティングだ。

ティム・ロビンスのもうひとつの大きな功績は、ロジャー・ディーキンスを本作の撮影監督に推薦したことだ。『未来は今』で彼の仕事に惚れ込んだロビンスは、監督としては経験不足のダラボンを支えるパートナーとしてディーキンスを強く推した。その後、ロビンスは監督作『デッドマン・ウォーキング』(1995年)でもディーキンスとタッグを組んでいる。

『ショーシャンクの空に』はディーキンスのベストワークのひとつでもある。ドラマティックな陰影のコントロールと、自然光を基調とした渋めのニュアンスが無理なく合致していて、すべてのカットの質感がリアルで美しい。ダラボンもまた映像面にも重きを置く作り手であることは『エルム街の悪夢3』や『ブロブ』の視覚的アイデア満載なシナリオからも、本作のルックからもうかがえる。演出とライティングの完璧な結合をひときわ感じるのは、映画の後半、巨大な壁を背にして座るアンディとレッドの会話シーンだ。日陰の暗く冷たい温度感は、アンディの不穏な未来と、明るい陽光のもとに踏み出す勇気も同時に映し出している。

ダラボンは本作で明らかに「高いレベルの映画表現」を目指した。もちろん作家それぞれに目指す頂点は異なるが、この映画の場合は「普遍性」だったのだと思う。だから決して映画マニアの恩情にすがったり、キング作品のファンだけを満足させるような作品にはしなかった。それもまた当時のダラボンには身の丈以上の選択だったはずだ。

映画だけに付け加えられた部分で特に印象的なのは、アンディが勝手に「フィガロの結婚」のレコードをかけ、それをスピーカーで刑務所中に鳴り響かせるというくだりだ。罰として独房に放り込まれたアンディは、めげずに仲間たちにこう語る。「心のなかにあるものは誰にも決して奪えない。それが音楽の素晴らしさだ。そう思わないか?」。続く会話のなかで「音楽」は「希望」に言い換えられ、セリフでわかりやすく本作の主題を伝えている。

本やポスター、ミニハンマーや瓶ビールといった小さな品物のやりとりをする男たちのドラマは、つまるところ形のないもの……人が心に抱く希望、あるいは自由と呼ばれるものについて考えさせる物語になっていく。終盤で刑務所長が叫ぶ「風のなかの屁のように消えたってのか!」というセリフはギャグでもあり、作品の主題のリフレインでもあるわけだ。

言うまでもなく、これは刑務所のなかだけに限った話ではない。会社でも、家庭でも、学校でも、義務感やプレッシャーにがんじがらめになって、自分が「囚われている」と感じた経験は誰にもあるだろう。そんなとき、自分の心は本来自由なのだということ、希望を抱くことに制限などないことを思い出すのは、正しいし、健康にもいい。それはいつか本当に「壁を乗り越える」アクションの原動力にもなるはずだ。そう思わせる普遍性が、本作にはある。

劇中では“施設慣れ”という言葉が出てくる。自分を閉じ込めている牢獄を、最初は憎み、次第に慣れ、最終的には頼るようになるという長期刑囚の心理だ。レッドはそれを恐るべきものとして語り、自身もそれを体感する。これもまた普遍的な心理である。

全人類がコロナ禍という刑務所並みの不自由と閉塞感を体験したいま、「元の日常が戻ること」に恐怖を感じている人も少なくないかもしれない。本作のラストシーンは、2022年の現在こそ余計に沁みるのではないだろうか。(岡本敦史)

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