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80年働いてきた97歳現役看護師が語る50年前の"忘れることができないほどの苦労"

  • 2022.4.22
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10代で看護師になった池田きぬさんは、80年間看護師として働き続けてきた。責任者としての苦労、家庭と仕事の両立の苦労、人間関係の苦労、お金がない苦労とさまざまな苦労をしてきた池田さんが、50年も前なのに忘れられないと語る苦労とは――。

※本稿は、池田きぬ『死ぬまで、働く。』(すばる舎)の一部を再編集したものです。

「一生涯を貫ぬく仕事」を持てた、ありがたさ

59歳のとき、総婦長になった病院で、福澤心訓というものが大きな額に入れて飾ってありました。毎週月曜日の朝礼のとき、この7項目をみんなで唱和していました。ずっと昔、雑誌で、俳優さんが家族みんなで読んでいるという記事を目にして、「いいな」と心に残っていました。

現在も一人暮らしを続けながら、週に1度のペースで看護師の仕事をしている。
現在も一人暮らしを続けながら、週に1度のペースで看護師の仕事をしている。

だから、就職した病院で飾られているのを見つけたときは、うれしくなりました。その後、新人教育など、研修の場でも使わせてもらいました(編集部注:実際は福澤諭吉が書いたものではなく、作者は不明なようだが、人生の教訓として広く知られている)。

「世の中で一番楽しく立派な事は
一生涯を貫ぬく仕事を持つと云う事です」

なかでも、この1文は一番印象に残っていたものです。私は、看護師しかしてこなかったけれど、それで「よろしかったんかな」と思います。

今でも、この心訓を居間の壁に貼って、時々眺めています。自分が日々、こんなふうに過ごせているかなと、振り返るようにしています。

看護師をしているひ孫と、就職したばかりのひ孫にも、「社会人として知っておいたほうがいい7項目があるよ」と教えておきました。

取り入れるかどうかは本人たちの自由ですが、知る機会になればいいのかなと思います。

30代後半から80代前半まで責任者を務める

30代後半で転職した精神科の病院で、管理の仕事についてから、80代前半までずっと責任者を任されてきました。直接、患者さんに看護をするよりも、スタッフの人事や教育、病棟の問題解決、業務改革などに尽力してきました。

池田きぬさんの年表
池田きぬ『死ぬまで、働く。』(すばる舎)より。

今は一看護師として、肩の力を抜いて楽しく働かせてもらっています。若い頃に現場のスタッフを経験した後、みんなをまとめる責任者になり、そして、また現場のスタッフに戻りました。

でも、どんな立場になっても、大切にしてきたのは、「苦しんでいる患者さんが少しでもラクになるように、何がしてあげられるか」です。看護の質の向上を常に考えてきましたが、それは1人ではできません。いろいろな問題点を周囲のスタッフと話し合いながら、解決してきました。

今、職場で問題になっているのは、入居者さんの便秘です。年を取るとどうしても便秘になるので、スムーズな排便を促すために何がしてあげられるのか、看護と介護のスタッフが連携して取り組んでいます。

病気ではないけれど、老人の施設なので、体調管理は大切な仕事です。経過を観察し、必要なら主治医とも連携できるようになっています。

「この人、最近便が出ていない」と介護スタッフから報告があると、看護師が記録を確認して、必要なら薬を飲ませます。オムツ交換は介護スタッフの仕事なので、お互いに協力してやっています。

「今できる看護はなんだろう」と常に考えている

また、最近こんなこともありました。

私が取っている新聞にクイズがあったので、入居者さんに持って行ってあげました。1日ベッドにいるので、「変化がなくてつまらないだろうな。少しでも楽しめたらいいな」と思ったのです。その方はとても喜ばれ、実際にやってみたそうです。

小さいことですが、入居者さんが喜んでくれることがあったら、お手伝いさせてもらいたいなと思います。

若い頃のように、今はキビキビ働けません。一看護師として、与えられた仕事をこなすことに一生懸命です。

でも、管理の仕事をしていたときよりは、気がラクですね。入居者さんにクイズを持っていってあげるなんて、ゆったり向き合える今だからできることです。

「今できる看護は何だろう」といつも考えながら、働いています。

看護師はいい仕事だと思います。どんな時代でも必要とされますし、ちょっとしたことでも患者さんにしてあげると感謝されるのは、うれしいですね。

何事も断ることはしない

新しい仕事は、自分を試すチャンスになります。人が「やってみたら」と言ってくれたことなのに、私が「できない」と言うのもおこがましいと思って、断わらずに挑戦してきました。

なかでも、大きな挑戦だったのは、精神科の病院の責任者として働いていた40代のとき、看護学校の講師をしたことですね。

総婦長さんからの依頼でしたが、人に教える教育も受けていないので、最初は「困ったな」と思ったんです。でも、「できません」って背中を見せるのは、よくないという気がして、引き受けることにしました。

自分に能力もないのに「やってみます」と言ってしまい、それからが大変でした。

人に教えることは自分で勉強しないといけないので、看護雑誌を読み漁るなど必死になって勉強しました。

自分の意見が社会や看護の世界で通用するのかを確かめるためにも、他の人の意見や新しい情報を知っておかなければと思いました。

看護教育に関する本を毎月2〜3冊買って隅から隅まで読んで勉強し、やっと自分の意見が間違っていないと自信を持つことができました。そして、ようやく授業で教えられるのです。

精神科の看護は、通常の業務でも患者さんが何を思って話しているかわからなくて、迷うことがあります。実務でも迷うことを、生徒さんにもどういうふうに教えたらいいのか、いつも考えていました。教科書通りではなく、実務を踏まえて自分なりに枝葉をつけて授業をしていました。

忘れることができないほどの苦労

50年以上も前のことですが、今でも忘れることができないほどの苦労でした。でも、どうにか乗り越えることができ、自信がつきました。

その後、転職した別の病院でも、併設された看護学校で講師の仕事をしたり、いろいろな団体から講演を頼まれたりもしました。あの経験があったから、人前で話すことも慣れて、新しい仕事に挑戦できました。

池田きぬ『死ぬまで、働く。』(すばる舎)
池田きぬ『死ぬまで、働く。』(すばる舎)

「若いときの苦労は買ってでもせよ」と言いますが、人は苦労を乗り越えて、人間性が培われていくのだなと思います。私にとって苦労とは、人間性を作り上げる薬のようなもの。そう心がけるようになりました。

経験したことのない仕事の苦労、責任者としての苦労、介護や家庭と仕事の両立の苦労、人間関係の苦労、お金がない苦労など、今までたくさんの苦労に突き当たりました。

何にもなくてのんびり過ごしていた時期はほとんどなかったので、他の人よりも苦労が多い人生だったのかもしれません。

でも、いろいろな苦労があったからこそ、自分なりに考えて、解決しようと努力したことは、私を成長させてくれました。

いろいろな経験をさせてもらったので、年をとるにつれて何事も「どんとこい」という気持ちになってきました。今の職場でも、みんなが「困ったな」と言っていても、私は小さいことで動揺しなくなりました。そうクヨクヨせんと、解決できる知恵がついたような気がします。

経験してきたことが、肥料になっているんでしょうか。年いって、ゆったり構えることができるようになったのは、いいことですね。

池田 きぬ(いけだ・きぬ)
看護師
1924(大正13)年、三重県生まれ。地元の女学校を卒業し、赤十字の救護看護婦養成所へ進む。1943年、19歳のとき、海軍に療養所として接収された湯河原の旅館に、看護要員として召集される。終戦後、地元に戻り結婚。長男・次男を出産。中部電力津支店の保健婦として勤務。その後、精神科の県立病院で副総婦長を約20年。最後の1年は総婦長に。定年退職後、訪問看護や介護老人保健施設、グループホームなどの立ち上げにも関わった。75歳のとき、三重県最高年齢でケアマネジャー試験に合格。88歳のとき、サービス付き高齢者向け住宅「いちしの里」に看護師として勤務。現在も週1~2回の勤務を続ける。2018年6、75歳以上の医療関係者(当時)に贈られる第4回「山上の光賞」を受賞。

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