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レオス・カラックスが見出した、観客の感情との確かな接点 『アネット』で新たな境地へ

  • 2022.4.18
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『アネット』(c)2020 CG Cinema International/Theo Films/ Tribus P Films International/ARTE France Cinema/UGC Images/DETAiLFILM / Eurospace/Scope Pictures/Wrong men/Rtbf (Televisions belge) /Piano

映画界に存在する伝説的な存在の一人である、レオス・カラックス。フランスで10代より映画批評家として活躍し、20代から30代のはじめまでに、『ボーイ・ミーツ・ガール』(1983年)、『汚れた血』(1986年) 、『ポンヌフの恋人』(1991年)と、革命的ともいえる長編映画を撮り上げていった。その感覚的で強いパッションを感じさせる映像表現は、同時代の若者の心情を繊細かつ強烈に映し出し、いまもなおカリスマ的な支持を集めるまでに至っている。日本では、90年代を中心とする「ミニシアターブーム」との結びつきも強い。

若くしてこれ以上ないキャリアを積み、新作が望まれながら、その後単独での長編作品は『ポーラX』(1999年)、『ホーリー・モーターズ』(2012年)の2作にとどまるという寡作ぶりも特徴的だ。それがまた、“厭世的な天才”という、常人ならざるイメージに繋がっている部分もある。

『アネット』は、そんなカラックス監督による9年ぶりの新作である。ここでは、そんな伝説的な監督が長い年月を経て到達した境地と、本作が描いたものが何だったのかを考えていきたい。

フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック ゴダールがそうだったように、新時代の映画表現の旗手を担う作家として、なかば神格化され語られるようになったカラックス監督だが、それは彼にとって、手放しで幸福なことだったとは言い難いのではないか。

その評価を決定的なものにした初期三部作の主題である“ボーイ・ミーツ・ガール(典型的な恋愛物語)”を、彼は10年をかけて若い勢いのままで、自分の物語として描き続けてきた。その衝動が奇跡的なまでに、時代との幸福な“相思相愛”関係を生み出したことで、次作以降に大きな期待がかけられることとなったのだ。そして、その期待に応えながら、同時に新しい主題へと移行するという難題にも向き合わなければならなくなる。なぜならカラックスにとって、自分自身の内面をさらけ出し、現在の気分を映し出すことが、作品づくりと不可分であるからだ。

10代から天才映画監督として高い評価を得たグザヴィエ・ドランもまた、近い状態にあるといえる。カラックス作品同様、若い時代ゆえの“視野狭窄”的な世界観が、痛切でみずみずしい魅力を初期の作品に与えていたのだが、近年の『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』(2018年)では、30代になってもまだ自意識の問題に囚われ、狭い視野のままで周遊しているような印象を与えられる。監督としてのキャリアを積んでいるにもかかわらず、後から成功した同世代の映像作家の視点に比べると、その世界観は幼いものに感じられるところがある。

一方、カラックス監督は『ポーラX』において、大人の作家への脱皮を試みている。だが、そこには初期3部作のような分かりやすい魅力や、確かな手応えがない。依然として知的で突飛でありセンスを感じる作風ながら、その表現の行きつく先は定まらず曖昧な印象を与えられるのである。

それはやはり、作品に自身を投影していたカラックス監督自身が、それまでに保留していた要素と向き合わなければならなくなってきたことを示しているように思える。その姿勢は、映画作家としての彼の誠実さであり、人間としての健全な成長だともいえるが、そのような進歩が観客や批評家の評価にそのまま繋がるかというと、また別問題である。

作品の評価が以前ほど芳しくなかったことに、カラックス監督は少なからず傷ついたはずである。だがそのようなプレッシャーを彼が感じることとなったのは、そもそも神格化されたり、これまで以上の期待が寄せられていた状況があったからだともいえる。周囲と自身とが相互にかたち作ったイメージを背負いながら、「映画」への献身ゆえに、ある種のナイーブな面を持ったままで作家的な進化を遂げてしまった彼は、必然的に困難な状況に追いつめられる他なかったのかもしれない。

本作『アネット』は、その意味でいうと、かなりの部分でプレッシャーから解き放たれる作品のように、一見思える。なぜならこの作品は、ポップバンド「スパークス」による、ストーリー仕立てのアルバムを基にした、彼らの持ち込み企画だからである。ストーリーは、日本の『四谷怪談』や、エドガー・アラン・ポーの『黒猫』『告げ口心臓』のような怪奇譚や古典的なサスペンス映画に近い。ミュージカル、英語劇は初めてとはいえ、カラックスはこれまでの経験を活かしながら、職業監督としてそれを映像化する手腕を見せればよいだけのはずである。しかし彼の「映画」への献身は、作品をそれだけのものにとどめようとするはずもなかった。

アダム・ドライバーが演じるのは、毒舌のスタンダップコメディアン、ヘンリー・マクヘンリーだ。彼は人気絶頂のオペラ歌手アン(マリオン・コティヤール)と結婚し、郊外にある彼女の豪邸で順風満帆な日々を送っている。「We Love Each Other So Much(お互いにとても愛している)」と、アンと歌いながら仲睦まじく歩くヘンリーの姿は、舞台上で傍若無人に振る舞う彼と同じ人物とは思えない。

このシークエンスでは、ヘンリーとアンが2人乗りでバイクにまたがりながら、歌いつつ真っ暗な闇を切り裂いていく光景も映し出される。そのパワフルな映像は、カラックスの過去作で愛されている、主人公を捉えた横移動の撮影を想起させ、心踊らせるものがある。だが、幸せなはずの毎日がヘンリーの心のバランスを、かえって危ういものにしていくように、そのシーンは、カラックスと「映画」との、過去の“蜜月”の時期の象徴にも思えてくるのである。

ヘンリーの舞台上でのパフォーマンスは過激さを増し、観客を戸惑わせ不快感を与えるようになっていく。本作のクレジットでは“感謝”として、毒舌や危険なネタで知られるコメディアンのビル・バー、そして2022年の第94回アカデミー賞でウィル・スミスに平手打ちをされたことで一躍世界から注視されることとなったクリス・ロックの名前が確認できる。どうやら、彼らがアダム・ドライバーの舞台上の演技のインスピレーションとなったようである。

それだけでなく、ヘンリーはアンとの関係に倦怠を感じ、彼女がオペラで死にゆく役を演じる姿を見て、役柄同様に死にいたらしめるという、脅迫めいた幻想に囚われることになる。彼は、このような奇妙な心理状態を「depth(深淵)」と呼ぶ。そしてそんな異常な妄想をスタンダップコメディとして、プライベートな性生活の模様とともにステージ上でぶちまけてしまうのである。

「ひねくれた精神が、私を最終的に破滅へと導いたのだ。自分を苦しめたい、自分の本性に暴力を振るいたい、間違ったことのために間違ったことをしたいという不可解な憧れが私を駆り立て、ついには、この無抵抗な存在を傷つけるに至ったのだ」(『黒猫』エドガー・アラン・ポー)

作家エドガー・アラン・ポーは、ある男が小動物や自分の妻を殺害する短編『黒猫』で、強迫症的な殺人者の感情を、このように描写している。そして、「“ひねくれた心”が人間の原初的衝動の一つであって、人間の性質と切り離すことのできぬ根源的な力、あるいは感情の一つだと確信している」と、殺人者に語らせている。責任逃れのような身勝手な言い分だが、暴力的な衝動が自分の内側の奥深くからやってくるという認識は、本作のヘンリーと通じるところがあるといえよう。それにしても、なぜヘンリーは、そのような深淵に近づいてしまったのだろうか。

それは、彼のコメディアンとしての表現が行き詰まっていたからだと考えられる。彼はこれまで、自分の日頃思ったことをネタにして、歯に絹を着せず本音を語ることで評価されてきたはずだ。しかし、ヘンリーはいまや社会的成功者であり、人を笑わせる職人芸、もしくは芸術において名を遂げた人物なのである。彼自身が「寂しい観客を笑わせる自信がない」とぼやくように、一般的な観客との接点を失ってしまっていたのだ。

おそらくヘンリー自身は、これまでと同様に、自分の思うことを直裁的に舞台で叫び、演じているだけなのである。そして、ブーイングを浴びることになるパフォーマンスは、ややもすると彼のこれまでの舞台のなかで、最も真に迫る会心の出来だった可能性すらある。しかし、客席の人々には全く共感されない。観客の心が離れていく過程と、その反応に苛立ち焦燥していくヘンリーの心理状態は、この物語がカラックスから提出されたものではないのにもかかわらず、どうしてもカラックスの境遇と重ね合わせてしまうところがある。

この物語は、まさに古典的といえるような因果応報の結末を迎えることとなる。しかし、それだけではない。ヘンリーとアンの娘アネットが、自分の意志を吐露する、現代的な要素を持つ歌唱シーンが存在するのである。

劇中でアネットの姿は、操演される“あやつり人形”として表現されている。それは、ヘンリーが彼女を好き勝手に操り、一個の人格として認めることができないという状況を表現したものだろう。しかし、最終幕でついにアネットは“人形であること”をやめて、自身の感情をヘンリーに激しくぶつけるのである。興味深いのは、彼女の怒りが母親のアンに対しても向けられている点である。

精神的に問題を抱えていたのは、ヘンリーだけではなかった。アンもまた、ヘンリーの横暴への反発心はもちろん、女王として扱われていた過去と結婚後の状況を引き比べて、その選択を後悔していたのだ。彼女は感情をそのまま表に出すタイプではないが、まだ幼児のアネットと遊びながら、凄まじいスピードで振り回す危険な行為に及ぶなど、その内在する暴力性はヘンリーと似通ってしまうところがある。さらに、ヘンリー同様に、娘を自分の目的のための道具にしてしまうところを見ると、最終的にアネットが父母へ怒りをあらわにしたのは当然だといえよう。

だが一方で、一人の子どもが自分の意志で行動し、自身の心情を的確に表現できるまでに成長を遂げたことについては、喜ばしいことだといえないだろうか。ヘンリーは、娘が自分の手から離れ、制御ができない存在になるのを、ただ胸の内で認めるしかない。しかし、それを受け入れることが、終始自分のことだけしか考えてこなかった、ヘンリーの親としての成長であり、ささやかな贖罪だったのではないか。

それはまた、カラックス自身の実感とも重なっていたのではないか。前作『ホーリー・モーターズ』と同じく、『アネット』のオープニングでは、監督であるカラックス自身が実の娘とともに登場する。これが自分という父親と、その娘の物語であり、また逝去した妻の婉曲した物語でもあるというように。

“ボーイ・ミーツ・ガール”の主題に描かれた若者の感情や、その純粋さが現実の社会と摩擦を起こすこと、そして引き裂かれるような苦痛と爆発的なエネルギーが存在する初期の3部作は、たしかにいまもって普遍的な価値のあるものだ。しかし、カラックスは確実に人生を前進させ、いまは娘を愛し、彼女自身の人生の歩みを認めている。小津安二郎の映画がそうであるように、そんな家族の感情もまた、多くの人に共通する普遍的な感情である。カラックスは、そこに自身の生きる上での実感と、観客の感情との確かな接点を見出したのではないだろうか。

レオス・カラックス監督は、いまの自分を正直に作品に反映させることで、映画作家として「映画」を裏切らずにいる。むしろ、だからこそ歩みを止めることが、ときには必要になるのだろう。いまの彼にはたしかに、自身の分身であった若い主人公“アレックス(ドニ・ラヴァン)”が、夜の道を一直線に疾走した勢いはないのかもしれない。しかし彼はいまもって、先の見えない夜の道を、迷いながらも前進し続けているのである。(小野寺系)

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