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橋本淳、黒木華らによる2時間の濃密な会話劇 『もはやしずか』に感じた“演劇”への希望

  • 2022.4.13
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『もはやしずか』

「劇団た組」主宰の加藤拓也による最新作『もはやしずか』が東京・シアタートラムにて上演中である。橋本淳、黒木華、藤谷理子、天野はな、上田遥、平原テツ、安達祐実といった優れたプレイヤー陣、さらには声の出演に松井周を迎え、上演時間2時間の濃密な会話劇を生々しく立ち上げている。

慄然とさせられるクライマックスを目撃し、言葉を失う。劇場を後にして柔らかな春の風に当たっても、一度粟立った心はどうにも落ち着かない。そこには動悸が止まらぬ深い余韻があり、これが影響して帰路を誤ってしまう。すでに観劇した方で同じような状況に陥った方は少なくないのではないだろうか。本作が描くテーマは身近で深刻であり、非常に身につまされるものなのだ。

物語の主な舞台は家屋。キッチンやソファなど、アースカラーを基調としたシンプルなセットが配置され、その両サイドに客席が並び、俳優たちの一挙一動のすべてが観客の視線にさらされている。ここで、康二(橋本淳)と麻衣(黒木華)の夫婦と、康二の両親である雅夫(平原テツ)と郁代(安達祐実)の二組の夫婦の物語が立ち上がっていく。あらすじはこうだ。長いこと不妊に悩んでいた康二と麻衣の夫婦は、治療を経て念願の子どもを授かることに成功。ところが出生前診断によって、生まれてくる子どもが二分の一の確率で障がいを持っている可能性を知る。障害を抱える弟を事故により目の前で失った経験を過去に持つ康二は出産に反対するが、彼の過去を知らない麻衣は反対を押し切り出産を決意。すれ違う二人の思いは観客の想像し得ない結末へと向かっていくーー。

「出生前診断」をはじめ、「子ども」にまつわるさまざまな問題に材をとった本作は、登場人物たちの会話がことごとくズレている。彼らは大切なことをきちんと言葉にせず、当人たちとしては気遣いのつもりなのか、物事の核心からズレた要領を得ない会話が展開。“夫婦”という特別で親密な関係にありながらも分かり合うことができない、そんなコミュニケーションの難しさを見せつけられる。そこでは対面する者への過度の配慮や、自分の主張を押し通すために相手の声に耳を傾けぬ結果として「対話」が欠如しているのだ。

本作は文字通りの“会話劇”である。場面転換時を除いて音楽は使用されず、静寂に満ちた劇場空間では延々と会話が続くのみ。そんな2時間が成立するのは、加藤の脚本と演出による静と動のメリハリが効いた物語運びの巧みさはもちろん、俳優たちの緩急自在な演技があってこそ。息を殺して見つめずにいられない。加藤作品『誰にも知られず死ぬ朝』でも共演した平原テツと安達祐実のコンビは、兄・康二と障害を抱える弟・健司の両親に扮し、息子と意思疎通ができないことへの戸惑いと歯がゆさ、そして喪失した後の苦しみを訴えている。当事者である雅夫と郁代が他者の無理解にさらされた末に発する怒りと悲しみの叫びは、淡々と続く会話を目にする多くの観客にとって、不意に刃物を突きつけられるようなものなのではないかと思う。劇中では当事者と非当事者の会話が展開するが、物語を客席で享受している私たちは、このどちらでもない。しかし二人の切実な訴えが、観客をこの関係性の中に取り込むのだ。

一方、これまでにも加藤拓也とタッグを重ねてきた橋本淳と、加藤作品初参加となった黒木華が演じるのは、子どもを授かる夫婦だ。麻衣は何よりも子どもを欲しがっていることがその言動から分かるが、康二は子どもの話になるとどこか上の空。自己主張の強い麻衣と違い、彼が口にする言葉は意志が感じられずぼんやりとしている。幼少期に目の前で弟を失った経験が潜在意識下でトラウマになっていることが、彼らの会話を追ううちにやがて見えてくる。橋本も黒木もどちらも膨大な量のセリフを口にするが、淀みは一切なく、一つのセンテンスの中にも緩急があってスリリング。いずれも“話芸”と呼べるほどのもので、麻衣と康二のタイプの異なる話法が溶け合うさまに魅せられる。本作では「子ども」に関してそれぞれの思惑がすれ違うわけだが、演じる役の感情を読み解く難しさは観客が思う以上に複雑なのだろう。過剰な言葉の応酬から、「生(なま)」の感情が生まれているのが分かる。それは稽古の反復で作り上げたシーンの再現ではなく、まさにその瞬間に生起しているものだ。コーヒーやお茶は、同じものであっても淹れるたびに微妙に味が異なる。これらの消え物を湯気を立たせながら実際に舞台上で使用して(作り出して)いる点が示唆的だ。

夫婦の物語が軸となっているため出演シーンが限られてはいるが、健司の保育園の先生役の藤谷理子、麻衣の妹役の天野はな、派遣型メンズエステ嬢役の上田遥の存在が本作の強烈なアクセントになっている。彼女たちは二組の夫婦にそれぞれ異なる立場から関与するキャラクター。物語に起伏を与え、その存在自体が作品の“緩”にも“急”にもなるのだ。この三者の存在によって安達や平原から引き出されている「生」の感情は大きい。

さて、本作は「子ども」にまつわるさまざまな問題を描いた作品だが、そこから浮かび上がってくるのがディスコミュニケーション(=対話の欠如)。誰にもそれまで生きてきた軌跡があり、それぞれの過去を持つ。ポジティブなものがあればネガティブなものもあり、これが一人の人間を形成する“背景”となっているのは観客も同じ。目の前に立っているのがその人間のすべてではなく、この“背景”まで想像し、相手の心の奥底まで知ろうとしなければ真の「対話」は成立しないだろう。意見の相違が生まれるのは、当然ながらこの“背景”が違うからだ。もちろんすべてを知ることは叶わないが、そう努めるべきである。

本作の読後感として「言葉を失う」と先に記したが、私たち観客の多くはこれを自覚し、自覚するからこそ、自分なりの言葉を探そうとするだろう。言葉を探すことから、コミュニケーションは始まるのだ。自分の言葉を探し出し、劇場の外で、それぞれの日常に戻って、その言葉を口にしてみてはどうだろうか。本作は商業ベースの作品ながらも実験製の高い作品であり、こういった作品が上演されていることに「演劇」というものへの希望を感じる。

(折田侑駿)

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