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これからの時代を生きる上で必要なスキル、リスクを取りに行く人になろう!

  • 2022.3.17
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すごく楽しみにしていた、初デート。ときめく相手と素敵なレストランで美味しい食事を共にして、”いい感じ”としか説明しようのない雰囲気の中でじわじわ縮まる心の距離。そんなの瞬間、キラーンと光る相手の笑顔に見逃せないほど大きなレタスの葉っぱが前歯に挟まっていたら……あなたならどうしますか?

一見馬鹿げたこんな質問を、ある日、私が主宰するオンラインスタジオVeda Tokyoの『グローバルマインド』というプログラムで参加者のみなさんに持ちかけてみたのには、私なりに深い意味がありました。

「言いづらいけどやっぱり歯に挟まっているよ、と言うと思う」という方から、「恥ずかしすぎて言えないからそのまま過ごす」という方。他にも「私からは言えないけど、気づいてもらいたいから自分がお手洗いに行くと言いながら、密かに彼にもお手洗いに行ってほしいと願う」などといった、はっきり言えないのに他の手段で仕掛けようとする中間的な意見まで、賑わったライブクラスでした。みなさん一度は似たようなことを体験したことがあるであろうシチュエーションだからこそ、笑いながら様々な心境を聞き出すことができました。

次に、

「では、あなたがその時二十歳だったら、どうしましたか? それでも相手に伝えることができましたか?」と、みなさんに重ねて質問しました。

すると、最初の質問では歯に挟まっていることを言う! と答えた方も「二十歳だったら言えなかったと思う」と話すのです。

たかが「歯にレタスが挟まっているよ」と告げるだけのことですが、「告げるか告げないか」や、どのタイミングで言うかを検討する中で、いかに私たちが恥ずかしさと併せて“リスクを感じているか”ということだと思うのです。

要するに、初めてのデートでそんなことを言ってしまったら、せっかくのいい雰囲気を台無しにしてしまわないかとか、自分が嫌われてしまうのではないかなど、言葉にならない次元で心のうちで感じるリスクが、大なり小なりあるのではないでしょうか。

それが不思議なことに、年とともに経験を重ねてくると、そんなリスクは大したものではないと感じるようになったり、どうでもよくなったり。リスクよりもこれは相手に伝えた方がいい、私だったら伝えてほしい、などといった、より広い視野を持った判断ができるようになるのです。むしろ、今の私だったら、自分の歯に挟まったレタスを教えてくれないような相手とは、セカンドデートさえ難しいかもしれません(笑)

英語には「Risk-taker(リスクテイカー)」と言う言葉があります。それは、国際基準の教育スタンダードを作っている国際バカロレア機構(IB)が提案する、グローバルな人材を育てるための10の項目(ラーナープロファイル)のうちの一つにも掲げられています。

国際バカロレアにおける「リスクテイカー」の意味は、“不確実な事柄を前にしても決断力を持って向き合う能力”がポイントに挙げられています。日本語では「挑戦する人」と訳されていますが、この話をすると多くの日本人は、日本の教育では「自分からリスクを“取りに行く”という発想について教わったことがない」と話します。それには、社会的な調和を重んじる日本らしい文化背景が関わっていると思われますが、グローバルな現代社会においては「リスクを取ることとは時に必要なことであり、生きる上で必要なスキルでもある」という認識があります。また、グローバルな人材の育成を目標とする国際バカロレアのスタンダードにおいては、コミュニケーションを上手く取ることや協調性を大切しながらも、どちらかと言うと「みんなと足並みを揃える」以上に「リスクを負ってでもイニシアティブを取る」タイプの人間の育成を目指している、と私なりに理解しています。

Women's Health

冒頭に挙げた「歯にレタスが挟まっていることを告げる」という例はいたって小さなことですが、外国人の友人との交流も多い私の経験では、たかが「歯にレタス」でも、やはり外国人の方が恥ずかしがらず、速やかに相手に伝えるように思います。もちろん、人の性格にもよりますし、時と場合にもよることでしょう。しかし、グローバルな観点で見てみると、日本人ほど恥を重たく感じたり、対人関係における空気感の調和を重んじる文化は珍しく、特殊だとも感じるのです。

面白いのは、同じ日本人でも二十歳の時はより重度なものとして感じていた、同じ恥の重たさを、経験を重ねることでそうでもないと感じる“人の変化”が起こること。これもある種の意識の成長ではないかと思います。グローバルな社会が広がり、世界中の人々が簡単につながることができるこれからの時代は、日本人の「恥」の感覚も少しずつ変わりつつあるのではないかと思います。

ちなみに、私自身は日本国籍のアメリカ系クォーターで、幼い頃から日英バイリンガルの東京育ちですが、二十歳の自分だったら、なかなか相手の歯にレタスが挟まっていることを告げられないタイプだったと思います。なぜなら、自分の生まれ育った環境で、そのような行動の手本となる存在や出来事に触れたことがなかったから。けれど、大人になって世界中の人々と関わり、様々な文化や暮らしに入ってみると、このようなちょっとした出来事を身をもって体験します。「恥ずかしくならないように、思いやりのある方法」で相手にとって必要なことを伝えるられる人にも出会うようになりました。

見て学ぶ、生きて学ぶ。これが経験ではないでしょうか。このようなことは、なかなか学校で教わることはできないかもしれないけど、国際バカロレアのように、その根底にある考え方や心の姿勢について認知を広めることはできると思います。

私自身、「恥ずかしすぎて相手にどのように伝えたらいいのかわからない、伝えていいのかどうかもわからない」といった恐れを抱えていた時、それは相手のことを不確かに思っていたからではなく、自分で自分自身に確信を持てなかったからだということは明らかです。

自分が目の前の人と関わり、自分らしく自己表現し、言いたいことを言うために、「周りの人にどう受け止められるか」という点において、“安全ではないかもしれない”と、心理的にリスクを感じてしまっていたのです。冷静に振り返ってみると、歯にレタスが挟まってしまっているのは自分ではなく相手なのに、人の心理とは本当におかしなものです。

三十代中頃になり、経験を重ねてやっと知ったことがあります。それは、言いたいことを自由に発言しあえるような“安全性の高い関係性”とは、“他の人に作ってもらうものではなく、自分自身で作っていくものなのだ”ということ。それこそ私自身がイニシアティブを取って、自分のためのみならず、相手のためにも、リスクを取っても馬鹿にされない、恥をかかせない、安心感とリスペクトを感じられるコミュニケーションの基盤を作ること。相互通行にするには相手の協力が必要だけど、私から先に心を差し出すことはできる。そして、私から先に差し出すと、高い確率で相手も同じようにしてくれる。そんな人と人の間の接し方を、私なりに大切に考えるようになりました。

時には痛い思いをするようなミスコミュニケーションもあります。けれど、そんな時こそ恐れて萎縮するのではなく、相手のレスポンスがどうであろうと、自分自身がどうありたいのかを見直す。そして、私が相手のことをどのような目線で見て、どう扱うのか。それにフォーカスすることの重要性を感じています。

私は、家の中でも外でも、なるべく相手との関係性を「対人関係」として捉えるのではなく、可能な限り全ての人と、広い意味では「同じチームだ」と考えるのが好きです。そうすると、それがビジネスの場であろうと、デートのようなプライベートなことであっても、恥による暗黙の溝を作らず、思いやりのある形で、自分の家族に伝えるように、優しく言えると思います。「あ、ちょっとなんか挟まっちゃっているみたい。鏡で見てきたら?」と。

世界各国、広くつながればつながるほど多様な世の中だけど、まずは目の前の人から。あなたと私がチームメイトであるように、お互いのことを高め合う。そんな姿を見せることで、次の世代がより安心感のある社会を作り始めることができたなら。きっと次の世代のチームメイトたちは、新しい試みに挑戦するリスクテイカーの私たちのバトンを受け取り、更なるつながりのある世界を築き上げてくれるのではないかと思うのです。

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