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「トラベルミステリー」西村京太郎さん初めはブルートレインに興味なし

  • 2022.3.7
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ブルートレイン「はやぶさ」

「十津川警部」の生みの親で多数のトラベルミステリーで人気だった作家の西村京太郎さんが2022年3月3日、肝臓がんのため亡くなった。91歳だった。著書は500作以上。観光地や列車を舞台にしたエンターテインメント性の強い作品で知られたが、もともとは社会派作家。長い下積み時代があり、さらにルーツをたどると、陸軍幼年学校に行きつく。

社会派作家としてデビュー

西村さんは1965年、『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞を受賞し、推理小説作家として本格デビューした。報知新聞によると、この作品は当時、社会問題となっていたサリドマイド児の問題をテーマとしていた。

さらに、海洋開発問題が事件の鍵となる『伊豆七島殺人事件』や人種差別問題を扱った『ある朝 海に』など硬派の作品を発表したが、初版部数は落ちていったという。

そんな西村さんの「起死回生」の作品となったのが78年の『寝台特急殺人事件』。ただ、当時はブルートレインには全く興味がなかったという。きっかけになったのは、ネタ探しで東京駅に行った際に子供たちがブルートレインの写真を撮りに来ているのを見たこと。ここから40年以上にわたるトラベルミステリーの歴史が始まった、と同紙は解説する。

81年、『終着駅(ターミナル)殺人事件』で日本推理作家協会賞を受賞すると、人気に拍車がかかる。高額納税者番付では、7年連続で作家部門のトップとなったこともある。

当初は社会問題を扱う社会派作家を志したが、ちょっとした偶然からトラベルミステリーに転身し、大成功を収めることになったのが西村さんだ。

「東條のバカヤロー」

では、なぜ社会派を志していたのか。その謎ときは、2017年に出版した自伝『十五歳の戦争――陸軍幼年学校「最後の生徒」』が手掛かりになる。

西村さんは戦争末期の1945(昭和20)年4月1日、東八王子にあった東京陸軍幼年学校に入学した。満年齢で14歳。同期生は360人。短期間だったが、徹底的な軍人教育を受けた。「陸幼」は、陸軍士官学校(陸士)、陸軍大学校(陸大)へと進む陸軍の超エリートコースの入り口。大本営参謀や大将の道が開ける。

しかし、戦争は長くは続かなかった。本土空襲が激しくなり、8月2日にはB29編隊が陸幼を襲って焼夷弾をばらまいた。陸幼校舎は炎上、生徒7人、教師3人が亡くなった。翌日、校庭に材木を集めてやぐらを組み、遺体を焼いた。昨日までは戦争に負けると思わず、本土決戦、早く来いと勇んでいたが、さすがに元気が出なかった。

ほどなく広島、長崎に原爆が落ち、8月15日を迎える。何か叫びたくなって、「東條のバカヤロー」「あいつのせいで、負けたんだ!」と叫んだ、と書いている。東條は陸幼の輝かしい大先輩だった。

「特攻」「玉砕」作戦を批判

西村さんは同書で、なぜ日本が道をあやまったか、についても考察している。さすが謎解きが専門のミステリー作家だ。

西村さんが手厳しく批判するのは「特攻」「玉砕」作戦だ。命を粗末にしているというだけではない。戦争とは、生き残った人数が多い方が勝ちになる「生き残りゲーム」。いたずらに死者を増やすことは、その当たり前の理屈から逸脱している。そこには東條英機の「戦時訓」が影響しているとみる。「生きて虜囚の辱めを受けず」。民間人までサイパンや沖縄で自決を強いられた。西村さんは、明治時代にすでに作られていた「陸軍刑法」を引き合いに出して批判する。

「驚いたことに、矢折れ刀つきて、戦うことが不可能になった場合は、降伏することが許されると、書かれているのである。しかも、その刑は、六か月の禁固と軽いのだ」
「私は、改めて『戦時訓』をつくった東條英機に、腹が立った。東條(当時、陸軍大臣)は、『生きて虜囚の辱めを受けず』と書いたとき、陸軍刑法の存在を知っていたのだろうか?」

「陸軍刑法」には占領地の住民に対する殺人、強姦などについての罰則も明記されているそうだ。「もし、兵士や軍属の中に、殺人や、占領地の女性に対する強姦などの行為があった時、すぐ、裁判にかけ、陸軍刑法によって裁いていたら、南京事件は、起きなかったかもしれない」と残念がっている。

「備蓄品」は闇市で売られた

ちなみに陸幼では、8月15日の玉音放送の後、生徒監や下士官がトラックで倉庫から食料や衣類をどこかに運び去った。「これはアメリカ兵に渡さない。我々が再び立ち上がる時のために隠しておく」とのことだったが、この品物を使って生徒監の一人は戦後の闇市で成功したそうだ。このあたりの記述にも、「社会派」と「ミステリー作家」の一面がうかがえる。

西村さんは、子どものころから推理小説を愛読していた。戦後、いったん人事院に就職したが、29歳で退職。松本清張の『点と線』を読んで、このくらいなら自分でも書けると思ったのが作家を志したきっかけだ。

ところが、「読むと書くのは大違い」、あらゆる懸賞小説に応募したが落選が続いたと回想している。長い下積み時代は、パン工場の運転手、競馬場の警備員や生命保険の勧誘員、私立探偵などをしていたという。こうした経験も、のちのベストセラーに大いに役立ったに違いない。

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