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ポリコレは「お笑い」を殺したのか|そもそもなぜ人は笑うのか。何を笑うのか

  • 2022.1.9
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治外法権だったお笑いの世界

通常、差別発言は厳しく批判される。権力者の差別発言は追求され、場合によっては、謝罪や辞任を求められることもある。

「差別はいけない」というのは、平和な社会を築くための共通認識となっている。

しかし、差別はダメだという不文律から逃れてきた業界もある。お笑いの世界だ。お笑いの世界ではこれまで、差別や侮蔑が「冗談なんだから」「笑いとはそういうもの」と治外法権扱いされてきた。お笑いの世界はそもそもアウトローな世界なのだから、正しくいる必要なんてないし、破天荒な方がむしろ芸人っぽくてかっこいいと考える人もいるようだ。

「誰も傷つけない笑い」がなんだかちょっとダサいと認識している人々は、「正しさなんかは無視して、笑いを追求する姿」こそが芸人だと捉えているのだろう。

お笑い芸人のなかに「誰も傷つけない笑い」という表現に違和感や嫌悪感を示す人が多いのは、笑いはそもそも人を傷つける可能性のあるものだと認識しているから、というのも一因だろう。私自身も、誰も傷つけない笑いという表現には違和感がある。笑いを含むあらゆる表現活動には、本人の意図と関係なく、人を傷つける可能性があるからだ。今現在、「誰も傷つけない笑い」だと評されているお笑いも、誰かを傷つけ、不快にしていることだろう。

ただし、笑いに本質的に人を傷つける要素があることと、差別や弱者叩きを助長する表現が許容されうるべきかという問題は分けて考える必要がある。

そもそもなぜ人は笑うのか。何を笑うのか

今現在、世の中の流れは、「差別発言は笑いの文脈のなかでもNG」という方に傾いている。

ポリコレの意識が浸透し始めたからだ。ポリコレとは、ポリティカル・コレクトネスの略で、「人種や宗教、性別、容姿などの違いに対する偏見を助長したり、差別的な扱いをしたりするのはやめよう」「差別的描写ではなく、公平な描写を心がけよう」という概念だ。

では、ポリコレ意識が浸透することでお笑いはやりにくくなるのだろうか? この疑問に応えるためには、「なぜ人は笑うのか。笑いとはなにか」を検討する必要がある。

プラトンやアリストテレスなど古代ギリシアの哲学者たちは、人は他人の弱さ、不幸、欠点、引さを見ると喜ぶと考えた。トマス・ホッブスは、人は他人と比べて自分が優れていると思うとき、プライドが高まって気分がよくなって笑うのだ、と分析した。このような「誰かを侮蔑するユーモアが面白いのは、その対象よりも自分が優れているという優越感を感じられるからだ」という観点を、優越理論という。優越理論によれば、自分の立ち位置によって、同じユーモアでもおもしろいときとそうでないときがあるという。自分の優越性が感じられる際には面白いけれど、逆に自分がけなされたと感じれば面白くなくなる。人は自分が同一視できる集団に優越感を持たせる冗談、つまり自分と同一視したくない集団をこき下ろす冗談を楽しむのだ。決して自分と同一視したくない、できない集団に対する侮蔑は、みずからの属する集団の優越性を確認できる楽しい経験となる。(※1)

優越理論とは少し違った角度からで笑いにアプローチした哲学者もいる。ベルクソンだ。ベルクソンは、笑いとは常識から外れた人やものを「外れているよ」と示すサインであり、人間が社会的生き物だからこそ生じた表現だと述べた。つまり笑いは、自分たちの属する属性こそが主流だと主張し、それ以外を端っこに追いやる装置にもなるのだ。(※2)

ポリコレは笑いを制限したのではない。笑える対象を変えただけ

そう考えると、お笑いはそもそも差別や侮蔑、見下しと結びつきやすい表現だということは確かだろう。問題は、誰を見下し、周縁化するのか、という点だ。

コメディアンで俳優のボー・バーナムは、Netflixのコメディ番組『ボー・バーナムのみんなハッピー』にて、「異性愛者で白人男性である自分が持っている特権に無自覚な男」を演じ、笑いに変えた。

これは、政治的、社会的に正しい発言(ポリコレ)が求められる時代にあっても、誰かを見下したり周縁化したりすることは許容されうることを示したわかりやすい例だ。その誰かとは、すでに特権を持っており、社会の主流にいる人々だ。主流にいて、特権的だからこそ、現実社会では彼らを標的にすることが難しい。ボー・バーナムは、現実には難しいからこそ、お笑いの文脈で自分を含む特権集団をこき下ろし、観客の溜飲を下げることに成功している。

ポリコレは、すでに差別されているものを虐める笑いにNOを突きつけるが、権力者の欺瞞や特権をあざ笑うことは許容しているのだ。

ポリコレによって制限されるのは「すでに差別されている人を侮蔑する」「弱者を叩く」笑いだけだ。それにも関わらず、「ポリコレのせいで、笑いを作るのが難しくなった」という人は、「自分は特権を持つ側をディスりたくない」「これまでどおり、弱者を笑い者にしたい」と告白しているようなものだと言えるだろう。

もしくは単に、自分たちが既に特権側にいるため「自分たちが笑われるようなお笑いは不快だ」と無意識に感じているのかもしれない。

または、自分自身は弱者だけれど、強者と自分を同一視していないと不安なため、「ポリコレなんてくそくらえ」と、「弱者をたたくことを恐れない」姿勢を示し、自分は弱者ではないと再確認したいだけなのかもしれない。

いずれにしても、彼らが「やりにくくなった」とぼやいているうちに、新しい笑いの表現は次々と発見されていくだろう。ポリコレが浸透しても、笑いは死なない。何が笑えるのかという暗黙の合意が変わっていくだけだ。

※1…『差別はたいてい悪意のない人がする』キム・ジヘ著 尹怡景訳訳(大月書店)

※2…『笑い』アンリ・ベルクソン著 林達夫訳(岩波書店)

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。

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