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ノックを打ち続けて50年…1200人育てた81歳"少年野球のおばちゃん"のすごい指導力

  • 2022.1.3
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夫とともに学童野球チームを立ち上げて50年、81歳にしてノックを欠かさず、グラウンド中を忙しく走り回っている。監督でもコーチでもない“ただのおばちゃん”が、チーム内で強烈な求心力を発揮する。その秘密とは。「Over80『50年働いてきました』」第5回は、山田西リトルウルフの棚原安子さん――。

監督でもなくコーチでもない“ただのおばちゃん”

寒風吹きすさぶ、吹田市立西山田小学校(大阪府)のグラウンド。赤いユニフォームを着た小学生たちを相手に、ノックをしている女性がいる。強い打球は正確に、グローブを構えた子どもの真正面に飛んでいく。選手の中には、ポニーテールの女子の姿もある。力強く返球をして颯爽と引き上げていく姿が、なんともまぶしい。

「○○君な、内野手が後ろに下がってどうすんの。前で取りなさい、前で」

山田西リトルウルフの“おばちゃん”棚原安子さん
山田西リトルウルフの“おばちゃん”棚原安子さん(撮影=水野真澄)

学童野球の指導者というと、子どもたちに向かって「オラオラ、ぼさっと突っ立ってんじゃねぇぞ」などと罵声を浴びせている姿がどうしても思い浮かんでしまう。そして、付き添いの保護者たちが指導者にお茶を出したり昼食を提供したり、過剰な気遣いをしている姿も……。

ところが、この山田西リトルウルフには、そうした学童野球の世界にありがちなことの一切が見当たらない。しかも、ノックをしている女性は、監督でもコーチでもなくただの「おばちゃん」なのである。

お茶入れ、ユニフォームの洗濯は小1から自分でやる

おばちゃんこと棚原安子さんは、1940年生まれの81歳。ノックを打つどころか介護を受けていても不思議ではない年齢だが、動作にも声にも覇気があふれている。

「うちは小学校1年生で入団してきたときから、自分でお湯を沸かしてお茶を入れて持ってきなさい、ユニフォームは自分で洗いなさいって指導しているんです。なのに、監督やコーチが保護者にお茶を入れさせてたらサマにならないでしょう。だからうちは、練習を見たかったら見にきて下さいって、それだけなんです。運動好きな保護者の中にはジャージを着てくる人もいるんで、私がノックしてあげるんです」

棚原さんはこう言って、呵々大笑するのである。

自立して生きる力を授ける

棚原さんが夫の長一さんと山田西リトルウルフを立ち上げたのは、1972年のことである。長一さんは野球、棚原さんはソフトボールを実業団でやっていたこともあり、尼崎から吹田に転居してきたことをきっかけに学童野球のチームを作ろうと思い立った。

子どもたちは古紙回収の“仕事”をしてチームの運営費にあてる。保護者の負担をできる限り減らす。
子どもたちは古紙回収の“仕事”をしてチームの運営費にあてる。保護者の負担をできる限り減らす。(写真提供=山田西リトルウルフ)

近所の子どもをリクルートしながら団員を増やしていき、いまや総勢140名。野球人口が減少を続けるなか全国でも屈指の規模を誇り、OB・OGは実に1200人を超える。指導者の人数も約30名と半端ではなく、そのほとんどがリトルウルフの卒業生とその保護者によって占められている。

棚原さんの目的は試合に勝つためでも、未来のプロ野球選手を育てることでもなく(実際にはいるのだが)、あくまでも子どもたち一人ひとりに自立して生きる力を授けることにあるという。目に見える業績を追い求めることなく、50年の長きにわたって組織を維持していくのは、至難の業だろう。

「なんで私が自分のことを『おばちゃん』って呼ばせているかといったら、権力を持ちたくないからなんです。権力を持った人って、子どもからしたらめっちゃ怖いんです。権力を持たないでチームをまとめていくことが大事なんですわ」

権力も肩書もないが、強烈な求心力がある

現在、リトルウルフの総監督を務めるのは、棚原さんの三男の徹さんである。棚原さんは元監督とは言うものの、いまは権力どころか肩書すらない。しかも、「おばちゃん」という呼称は、子どもだけでなくコーチ陣も使う。「おばちゃん、ネット破れたから買うてや」と、白髪交じりのコーチが言うのをたしかに耳にした。棚原さんには権力だけでなく、肩書という権威もないのだ。なのに、強烈な求心力を持っている。

「あんな癖つけたらあかんわ」と子どもフォームについてスタッフとも確認していく。
「あんな癖つけたらあかんわ」と子どもたちのフォームについてスタッフとも確認していく。

「難しいことは言わんと、おばちゃんおばちゃんって呼ばれたら、ハイハイなんですかーって動けばいいんです。私はこのグラウンドの中で最年長ですけど、立場は子どもと一緒やと思っています」

それで、組織のガバナンスを維持できるのだろうか。

「できます。子どもに物を言うとき、命令せんと、こちらの心を伝えるんです。何でこういうことを言うのかという心を、子どものハートに向かって伝える。自分が言われて嫌な言葉を使わないようにしていれば、自然と心が伝わるようになっていきます。もしも、上の人間が権力をかさに物を言うようになったら、下の者は言いたいことが言えなくなってしまうでしょう。そんな組織はお終いですよ」

恐怖で縮み上がらせて子どもを支配するのではなく、丁寧な言葉でこちらの思いを子どもに投げかけていく。それはとてつもなく胆力のいる接し方だと思うが、棚原さんにはその胆力があるのだ。

その胆力の源は、終戦直後の誰もが貧しかった時代にあるらしい。

小1で終戦を迎え、お金に苦労する日々

戦争が終わったとき、棚原さんは小学校1年生だった。満州から引き揚げてきた父親はいわゆる道楽者で、棚原さんが小さい頃は仕事をしていたが、高校生になった頃にはほとんど働いていなかった。世のため人のためにひと肌脱ぐ気概を持った人ではあったけれど、家計を支えたのは母親だった。

撮影=水野真澄

「夜中までマージャンをやっている父を、母に言われて連れ戻しに行ったこともありました。母が着物を縫ってお金を稼いでいましたけれど、まあ、お金には苦労しましたね。母が私に長靴を買ってくれたとき、お店の人に『月賦でお願いします』と言っているのを聞いてからは、母によう物をねだりませんでした。自分の洋服を買うことができたのは、就職をしてお給料をもらうようになってからです」

棚原さんは三人兄弟の末っ子だが、小さい頃から一家にとって重要な戦力だった。掃除も洗濯も、自分のことは自分でやるのが当たり前。朝起きると竈に火を入れて煮炊きをし、襖張り、障子張りから布団づくりまで、母親の仕事はすべて手伝った。

「塾に行きたい」と言い出した息子に激怒した深い理由

そんな棚原さんの目には、いまの子どもたちの姿があまりにも危うく映る。

「戦後の貧しい時代を乗り越えてきた人らは、みんな強いですよ。なにもないところからエネルギーを湧かして、知恵をしぼって生活を回してきたわけやから、太い根っこを張って生きていた。ところがいまの子らは、根っこの張りようがないほど贅沢に暮らしている。たくさんお金を出して何でも与えてやれば立派な人間になるかといったら、そうじゃないでしょう?」

棚原さんのノックは正確に子どもたちの真正面に飛んでいく。
棚原さんのノックは正確に子どもたちの真正面に飛んでいく。

たとえば塾。息子のひとりが塾に行きたいと言い出したとき、棚原さんは「めっちゃ怒った」という。普通の親なら、向学心があっていいと褒めるところだが……。

「指先にタコができるぐらい勉強して、それでも足りない、もっと勉強できるようになりたいから、おかん、たのむ、塾行かしてくれというならわかるけど、学校でロクに勉強をしていないヤツが金出してくれとはどういう料簡やねんって、怒ったんです」

息子さんは後年、「塾に行きたいと言ったら、おお勉強したくなったんか! とおかんが喜ぶと思ったのに、あれほど怒られるとは思わなかった」と述懐したそうだが、棚原さんは決してお金を出したくなかったわけではない。

「まずは自分で努力をしてみい。その上で、お金をかけたらもっと出来るようになると思うんやったら、その時点で親に訴えてこいやということです。親の敷いた線路を歩くんじゃなしに、自分で線路を作れよ。そんで足りない部分は親に言ってこいよ。そんなら相談に乗ってやろうやないかい! ってことですわ」

人生の線路を自分で引く力をつける球団

棚原節、炸裂である。リトルウルフが、小学校1年生で入団した時からあらゆることを自分でやるように教えるのは、自分の人生の線路を自分で引く力を養うためなのだ。

最高のロールモデルがいる。棚原さんの四男の勲さんである。勲さんは、幼稚園の頃から編み物が好きで、かぎ針と毛糸さえ与えておけば、みかん箱の中にこもって何時間でも編み続けるという面白い子だった。

「私はね、この子はいろうたら(いじったら)アカンって、小さい頃に見破ったんです。他の子と同じように野球をやらしたりしたら、この子の持ってるものを潰してしまうって」

棚原さんは、手先が異様に器用だった勲さんに建築学科のある高校への進学を勧めた。そこでトップの成績を取った勲さんは、推薦で近畿大学の建築科に入学する。卒業して建設会社に就職したものの、やがて「人が物を作るのを見てても面白くない。自分の手でものが作りたい」とこぼすようになった。

息子がカバンひとつ持って渡英、まったく不安がなかった

「そんなら自分のやりたいことをやったらどうや、母ちゃんが精一杯支援したるでって言ったら、なんとイギリスに行きたいと言うんです。そんでカバンひとつ持って、本当にイギリスに渡ってしまったんです」

英語がまったくできなかった勲さんは1年間語学学校に通い、3年間専門学校に通って最優秀の成績を収めると、手作り家具の本場英国で家具師になってしまった。

「うちの5人の子どもたちには、小さい時から炊事、掃除、洗濯、全部自分でやらせてきました。だから、勲がイギリスに行きたいと言い出したとき、この子はどこに行っても1人で生きていける子や、だから何の心配もいらんと思えたんです」

棚原さんのスマホには、イサオさんが作り上げた見事な家具の写真が何枚も保存されていた。(後編につづく)

棚原安子(たなはら・やすこ)
山田西リトルウルフ
1940年、大阪府生まれ。ソフトボール選手として実業団でプレーした後、72年に吹田市で夫と少年野球チーム「山田西リトルウルフ」を立ち上げる。以来、「おばちゃん」としてチームを率い、2016年には全国大会に出場。現在も自らノックバット片手にグラウンドを駆け回る。その独特の指導哲学とお金をかけない運営方針が評判を呼び、メンバーは最盛期で約200名、現在も約140名と大盛況。チームOBにT-岡田(オリックス)。電子レンジをフル活用した料理研究家としての顔も持つ。4男1女の母。

山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』 (朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。

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