1. トップ
  2. 恋愛
  3. 大宮エリー「なかなか子離れできない母とどう上手に折り合いをつけたか」

大宮エリー「なかなか子離れできない母とどう上手に折り合いをつけたか」

  • 2022.1.1
  • 594 views
おかんが幸せならいい

母は大阪・阿倍野の生まれの大阪人。私には“お母さん”より“おかん”がしっくりきます。1番の味方で大切な人ですが、この世で1番イラつく相手でもあります。愛情いっぱいでアイディアマンなのはいいけれど、周囲のことを考えずに突っ走る思い込みの激しいところがあり、この傾向は年齢を重ねるごとに悪化しているような気がするんです(笑)。

エリーさんのエッセイにもたびたび登場する“おかん”。似顔絵はいつもおかっぱ頭のニッコリ顔。思わず笑ってしまうエピソードは正真正銘の実話だそう。「おかんが好きなものは日曜大工。私が苦手で放ってある組み立て家具を組み立ててくれたりします。それと天気予報。いらんって言うのに毎日天気を知らせてくるんです(笑)」
エリーさんのエッセイにもたびたび登場する“おかん”。似顔絵はいつもおかっぱ頭のニッコリ顔。

うちのおかんは、子離れできてないのか関わりたがるのです。「何か手伝うことないかぁ?」と。何もないと言うのも可哀想なので、仕事が忙しいときにおかんに洗濯を頼み、帰宅したら、あちこちのドアノブにパンツがかかっていました。絶句です。急いで電話したら「このほうが早く乾くから」って……乾燥機があるのに。自分が思ったことを実践してしまうんですね。おかんの話はエッセイにも書いているのでノブにかかっていた取り忘れたパンツを発見した友人は笑ってくれましたが、私は死ぬほど恥ずかしい。

ほかにも冬、暖房代がもったいないと、おかんは部屋で私のスキーウエアを勝手に着て暮らしていたことがありました。しかも袖を切って自分流にアレンジまでして……もう使えない。生活費も光熱費も渡してあるのに、どうして暖房もつけないのか、もはやナゾ。怒りすら覚えました(笑)。悩んだ末「おかんが幸せならいい」と割り切り、こうしたほうがいいのに、とヤキモキするのをやめました。

やりたいことを諦め、青春もなくさびしさを抱えていたおかん

おかんとは適度に物理的な距離をとり、私がイヤじゃないところで妥協して、なるべくストレスにならないようにしています。近所に住んでもらい、別居に納得してもらえたのはよかったのですが、今度は私の都合にお構いなく、家に来るようになりました。娘にもプライバシーがあることが理解できないようです。「娘とはいえ、あなたの所有物ではないのでいきなり入ってこないでね。チャイムを鳴らすとか、前もって連絡してから来てね」と根気よく何度も説明し、ようやくわかってもらいました。愛すべき人ですがイライラの原因でもあるんです。たとえ間違っていても偏っていても、母親ですから受け入れてうまくやっていくしかないんですよね。

こたつの上に立つエリーさん。1歳くらいの頃。
こたつの上に立つエリーさん。1歳くらいの頃。

おかんは早くに父親を亡くして苦労したようです。自分の子ども時代のことはあまり話したがらないのですが、家では何事も3つ上の兄が優先で、最初から自分のやりたいことなどは諦めてしまった人生だったようです。若い頃から働いていて、英文タイプの仕事をしていたのですが、青春がなかった感じがするんですよね。母親は仕事で忙しいし、子どもの頃から甘える相手がいなかったのでしょう。

結婚して家庭を持ち、生まれた私を初めて抱いたときに「この子は孤独じゃなくていいなぁ、うらやましいなぁ」と思ったそうです。ずっとさびしさを抱えて生きてきたんでしょうね。そんな言葉を聞いてしまったら、この人を幸せにするのは私しかいないのかと……。おかんの幸せを願ってはいますが、それが重荷でもあるんです。

亡くなった私の父は亭主関白で、晩ご飯のおかずの決定権も、テレビのチャンネル権も握っていました。家でも仕事をしていたし、出張も多くて、割と家にいない人でした。いわゆる男尊女卑で「女は専門学校でも行って嫁に行け」という主義だったので、私の大学受験にも大反対で学費を出してくれませんでした。それでもおかんだけは応援してくれて、アルバイトをかけ持ちしたり、ヘソクリをくずしたりして私の学費を工面し、浪人時代と学生時代を支えてくれました。

おかんの香り=湿布のニオイ。子どもの頃は、そのニオイを嗅ぐと、なぜか安心していましたね
おかんの香り=湿布のニオイ。子どもの頃は、そのニオイを嗅ぐと、なぜか安心していましたね

私には「やりたいことをやれ」と言っていたけれど、おかんは趣味もなくひたすら働いていた印象です。小さい頃、おかんが仕事をしている足元で遊んでいた記憶もあるし、仕事先の近所の喫茶店に1人で置いていかれ何時間も待っていたこともあります。保育園では自分だけお迎えが来なくて不安でした。今でいう「ワンオペ」で子育てと仕事、家事をこなし、苦労したと思います。あの頃のおかんはよく腱鞘炎けんしょうえんになって湿布をしていました。いつも湿布薬のニオイがしていて、嗅ぐとなぜか安心した記憶があります。

私が7年勤めた会社を辞めると言ったとき「これからどうやって生きていくん?」と泣いてました(笑)。でも、最後は「エリーちゃんのやりたいようにやり、生きたいように生き!」と応援してくれた。わが子を信じる強いところがある人なんです。小学校でいじめられていたときも、家に泣いて帰ると「いじめっ子はいじめる対象は誰でもいいんや。エリーちゃんがたまたま選ばれただけ、自分が悪いと思わんとき」と元気づけてくれて。

「可哀想に」とともに落ち込まずに、どう言われたか聞き、こう言い返せなど、知恵を授けてくれました。また1人っ子でケンカ慣れしていない私を鍛えようといきなり私をたたき「悔しかったらたたき返しぃ」と言いながら逃げるというおかん流のトレーニングをふっかけてきたことも(笑)。「お母さんは学校に行けへんから」と応援弁当をつくってくれたこともありました。巨大な保温ジャーに入っていたりして、かえっていじめのネタになって……一生懸命にやってくれるんですが的外れなことも多く(笑)。それでも、いつもおかんが味方でいてくれて、何があっても自分は1人じゃないと思えたことで追い詰められなかったのだと思います。

「私、いじめられっ子だったんです。でもおかんはいじめられて『可哀想に』と言うのではなく、ケンカの練習や、相手に言い返す言葉のアイディアをくれるんです」
「私、いじめられっ子だったんです。でもおかんはいじめられて『可哀想に』と言うのではなく、ケンカの練習や、相手に言い返す言葉のアイディアをくれるんです」
クリエイティブマッスルを鍛え、ゲーム感覚で乗り切る親子関係

「エリーちゃんと過ごすことだけが幸せや」と言い切るおかんですが、私の幸せを願うなら自立してほしいのが本音。そこで私に頼りすぎずほどよい距離を保つために、傷つけずに言うべきことを言う工夫をしています。

1人っ子だったので1人で過ごすことが多かった幼少期、読書と空想が大好きだった。バイオリンなどの習い事も多数。なんでも一生懸命取り組む性格は母譲り。
1人っ子だったので1人で過ごすことが多かった幼少期、読書と空想が大好きだった。バイオリンなどの習い事も多数。なんでも一生懸命取り組む性格は母譲り。

難しい人間関係にはクリエイティブな発想の転換が役に立ちますね。たとえば、おかんがさびしくないように話を聞くことは大事。ただし、こちらのストレスにならないようにすることが重要です。忙しい仕事の合間だったら「キヌサヤの筋を取る間だけあなたの話を聞きます」と制限時間を設けて相手をする。頼んでもいないのにコンビニのお弁当を大量に買ってこられて困ったときも「買ってこないで!」と言うと「エリーちゃんは私のことが嫌いなんや! 全部捨てる!」と激高してしまうので、「頼む! 納豆を買ってほしい!」と別の物を先回りしてお願いしました。

お願いを聞き入れてくれたら大喜びしてみせる。“弁当は×、納豆は○”というように、思い込みの消去と書き換えをします。やりとりのコツは子どもと遊ぶようにわかりやすくゲーム感覚で軽く構えること。親子でもよい関係を続けるにはトレーニングが必要だし、日頃からクリエイティブマッスルを鍛えておいて、ユーモアとアイディアで対応できればお互いイライラせずにやっていけると思います。

お互いに思い合う想像力をもって

ものは考えようということ。そう思えるようになったのは、社会に出て世界が広くなり、普通だと思っていた自分の家庭の堅苦しさに気づいたこともあると思います。同世代でも世の中には「父親が威張らない」「何でも柔軟に話し合えるフラットな家庭」もある。無理して学費を払ってくれたことには感謝していますが、おかんが1人で抱え込まなくても、時間をかけて父と話し合うとか、資金を調達する方法はほかにもあったはず。そう思うと「ひょっとしておかんは苦労を好んで背負い込む癖がある?」と案じることも。

夫婦でも親子でも誰かの犠牲の上に成り立つ関係はよくない。お互いに思い合う想像力をもって向き合い、問題があっても自由な発想でクリエイティブに解決するのが理想だと思います。

構成=モトカワマリコ 撮影=国府田利光

元記事で読む
の記事をもっとみる