1. トップ
  2. 『カムカムエヴリバディ』に凝縮された人生の葛藤と輝き 藤本有紀脚本の巧みな人物配置

『カムカムエヴリバディ』に凝縮された人生の葛藤と輝き 藤本有紀脚本の巧みな人物配置

  • 2022.1.1
  • 2129 views
『カムカムエヴリバディ』写真提供=NHK

ひたむきに真っ直ぐ生きていたとしても、愛する人の心に根深い大きな傷を残してしまうことがある。上白石萌音がヒロインを演じた安子編が終わり、第8週中盤で、深津絵里演じる2代目ヒロイン、安子の娘るいの物語として再スタートを切った朝ドラ『カムカムエヴリバディ』(NHK総合)のことである。予告ではジャズ喫茶の賑やかな様子を垣間見ることができ、年明けには、るいの人生が本格的に花開きそうである。だからその前に、るいにとっては辛い過去である母・安子と、彼女を愛した人々の物語を振り返ろう。

本作の極めて興味深いところは、3人ヒロインで100年の歴史を描くという異例の試みの朝ドラであるために、限られた時間の中でいかに怒涛の展開を描くかの工夫が為されていることだ。そのため、各回に凝縮された熱量が尋常でない。特に、父・金太(甲本雅裕)の死の回や、安子が内心の葛藤を英語でロバート(村雨辰剛)にぶつけた第29回、それに続く定一(世良公則)の歌の回など、その人の生き様、葛藤が全て凝縮され、輝き昇華されるようなシークェンスの数々は、俳優たちの名演も相まって、視聴者の心にいつまでも残り続ける名場面となった。

また、特に安子がるい(中野翠咲/古川凛)を連れて雉真家に戻る第6週以降において印象的だったのは、愛憎模様をより簡潔に、構図で訴えかける手法だった。例えば、勇(村上虹郎)・安子・るいの3人を見つめる雪衣(岡田結実)の構図や、ロバート・安子・るいの3人と、勇の構図、さらには安子にとっての稔(松村北斗)の立ち位置を次第に侵食していくロバートという構図である。第6週以降、「るいが安子を憎む」という結末に至るまで、それぞれの「好き」が交差し、大きなすれ違いが生じ、それぞれの関係性が変化していく様を、「悪人は誰で、正しい人は誰」と定義づけることができればどんなに分かりやすいか。でもそれができないのが、本作、並びに藤本有紀脚本の良さにほかならない。

例えば、悲劇の発端の1つである、「たちばな」再建のための資金を持ち逃げした兄・算太(濱田岳)である。算太がどうにも憎めないのは、彼が見る夢があまりに切ないからだ。

彼はよく、自分がチャップリンになる夢を見る。「おはぎを踊らせる」第2回から始まり、大阪のダンスホールでの日々を物語る第7回、そして、第31回の、南の島で「おはぎを追いかけていたらチャップリンと出会い、戦争の終わりを知った」夢の話。でもそれは、彼が苦しい状況の中で「そうであったらいい」と願って生みだした夢に過ぎなかった。だから、美都里(YOU)に抱きしめられることによって、その夢は、母・小しず(西田尚美)との、暖かくも悲しい、本当に見た夢に塗り替えられる。そのため、チャップリンの真似事をしながらの雪衣へのアタックも、本当は叶わぬことがわかっている脆い夢に過ぎなかっただろう。それでも彼はそれに縋るしかない人だった。だから「勇の部屋から出てくる雪衣」という生々しい現実を突きつけられて、彼は簡単に壊れてしまう。

雪衣もまた、千吉(段田安則)の葬儀の日の場面のみで見れば、「首尾よく雉真家の妻のポジションに納まった女」と言えるかもしれない。実際、雪衣の一言が、るいが安子に疑念を抱く一因となったことも確かだ。でも、第29回において、「クリスマスイヴは自分のことよりもまず人が喜ぶ幸福を心掛ける日」であることを告げるラジオの語りと共に、どこからか差し込む光が、一人暗い台所で料理する雪衣の姿を照らしていた。その姿を見るにつけ、彼女の中にある、勇や算太と同じく、愛する人に決して振り向いてもらえない孤独を、哀しみを、想像せずにはいられない。

安子は一貫して「ただ当たり前の暮らしがしたいだけ」の「ごく普通の女の子」だった。稔と家族3人で暮らす「当たり前の日常」という夢が叶わなかったために、稔の夢を継いで英語の勉強を続け、橘家の家族の思いを継いでおはぎを作り続けた。全てはるいと共に、日なたの道を見つけて歩いていくために。その道を歩いていたら、道の先でロバートと出会った。安子は、安子を「守る」と言う勇ではなく、彼女を敬い「感服」し、「素晴らしい女性」だと言うロバートを選んだ。そしてそれは、「安子さんと共に生きたい」と言った稔を愛した安子だからこその選択だったのではないか。ロバートのその言葉に対して、安子が初めて「さん付け」をやめたことも印象的だった。

また、第35回において、雉真家の台所で、橘家伝来のおまじないを英訳してあずきに語り掛ける安子の姿が示しだされたことに、違和感を禁じ得なかったことも確かである。それは、安子が完全に日本の「家」に納まりきれない存在になってしまったことを示していた。

彼女は彼女らしく、自分の意志を曲げず、ひたむきに生きた。だからこそ当時の、まだ窮屈で「おなごの子だから」「家の面子があるから」できないことが多い日本を出るしかなかった。それが安子という、激動の時代を生きた、大正生まれの女性の半生だった。

ではるいがこれから生きる1960年代以降はどうなるのか。るい編において、安子並びに雉真家は忌むべき存在でしかない。それでも、岡山を出て大阪に来た日、ミュージカル仕立ての華やかな場面において、日なたの道を踊る彼女の姿、そして、「演奏する人々」と出会うこれからの展開には、「どこの国の音楽でも自由に聞ける。自由に演奏できる。僕らの子供にはそんな世界を生きてほしい。日なたの道を歩いてほしい」という両親の夢がしっかりと根付いているように思う。(藤原奈緒)

元記事で読む
の記事をもっとみる