1. トップ
  2. ライフスタイル
  3. 「完璧主義」からの解放のための7つのステップ

「完璧主義」からの解放のための7つのステップ

  • 2021.9.20
  • 2183 views

ガバッ、ピタッ。

ベッドの足元の方にあるクローゼットの扉に、わずか2センチでも隙間があることに気がついたら、私は眠れなかった。わざわざ起きて、その2センチの溝にケジメをつけてからでないと、気が済まない人でした。扉を閉ざした後に布団に帰る私の心には、スッキリ感だけではない、少々の「勝ち誇った感」さえあったかもしれません。

私は、完璧主義者でした。

小学校一年生の頃からずっと、成績はオール5しか狙ったことがありませんでした。自覚はあったけど、それでも「完璧主義者」とは、自分からは名乗りたくありませんでした。そんなレッテルさえ、どこかで汚点がつけられるかのように感じていたのかもしれません。

きっと世の中には、私と共感できる完璧主義の要素を持った人と、逆に「そういう人っているよねぇ〜」と、他人事に感じるタイプの人がいることでしょう。

私が「世の中は自分と同じような人ばかりではない」と、本当に気づいたのは大学一年生の頃でした。当時私は、学業とモデル業を両立することで学費を稼ごうとしていましたが、母が脳神経系の難病にかかったことからストレスは限度を超えていました。そんなある日、障害者になった母の金銭管理に頭を悩ませていた時。校舎のラウンジでクラスの合間に、眉間にシワを寄せながら母の通帳とにらめっこをしていた私。忘れもしない、ラウンジのローテーブルを挟んで向こう側に座っていた友人のKが目に入ったのです。

ミニスカにブーツ。お尻がプリッと可愛く見えるファッションが定番だったK。感性が通じるところがあり、大学一年の頃から仲良くしていた彼女は、いつも安定のオール3の通信簿の持ち主でした。

あの日、あの時、あの場所で。

運命の瞬間を歌うラブソングが昔流行ったことがありましたが、私にとってはあの瞬間が、ある意味まさにそれだったように感じました。

何の理由もないけれど、その瞬間に私の目に映った友人Kは「何か私には持っていない、私には知らない知恵を持っているのかも」と思えたのです。

万策が尽きて困っていた私は、思い立ってKに聞いてみることにしました。

「あのさぁ、Kだったらこういう時、どうする?」

私の質問は、漠然としていたけど、ストレートでした。

Kは私の母の病気のことも知っていたし、私の性格も分かっていたと思います。けど、尋ねられたら何の躊躇もなく、セミロングの毛先を利き手の指先でクルクルまわし遊び続けるペースを一切乱さず、彼女はこう答えました。

「んー、ミィ(me)? テキトー」

端的なカタカナのアンサーは、オール5の私のブレインには無い発想を届けました。

一種の悟りとでも呼べるのではないでしょうか? 私にとってはあまりにも衝撃的なメッセージで、私はその瞬間から何カ月も、何年も、「テキトー」も一つの手段なのだと、特殊な武術を覚えるかのように、その方法論を身に付けることに努めたのです。

そんな私は、今や自称「元完璧主義者」。

過去形で言える自分を誇りに思えるほどです。

「アハ!体験」のように、急で革命的な気づきもあれば、人生にはじわじわくる気づきもある。Kの一言は私にとってスタート地点でしたが、実際には自分の完璧主義を卒業するには、プロセスが必要でした。それは過酷な道のりでもあり、何百万回も通り慣れ親しんだ“完璧を求める”国道を後に、未開拓のジャングルに新たな脳回路を切り開くように、最初は非常に不慣れなことでした。妙に逆説的なのですが、私にとって、完璧であろうとすることを手放すことの方が、当初は努力が必要だったのです。

ある時私はやっと、心底「完璧主義」は、まったくもって自分のためになっていない、ということに気がつきました。

それは、最初は認めづらい真実でした。なぜなら、それまでの私は完璧主義であることに頼り、どこかで安楽さえ覚えていたからです。私の完璧主義は、趣味の完璧主義なんかではなく、心理的な役割を果たしたように思います。15歳の頃から親元を離れて暮らしていた私にとって、完璧主義は、この壮大で厳しくもある世の中で、自分の身を守る盾となっていました。自分で自分の未来を切り開くための最高の手段だと思っていたし、そうして自分の価値を証明しないと「世の中はそんなに甘くない」とも思っていました。私は、それだけ失敗を恐れていたことでしょう。自分の価値を証明しないと生きていられないと思い込むほど、どこかで自分をちっぽけで、無価値に感じていたのかもしれません。そして、オール5を獲得して初めて「ベストを尽くした」と頷くような心の内のモンスターが生まれ、私の中に何年もの間住み着いていました。

Women's Health

けど、「ベストを尽くす」って、本当はどういう意味なのでしょうか? 完璧を目指しては、やり過ぎてダウンする。アップダウンの激しい二十代を通して、私はその意味を問い直すようになりました。

もしそれが本当にベストなら、なぜ私はこんなにストレスや過度な疲れ、不眠そして他者にも厳しくなるような目線を抱えてしまっているの? 完璧主義は、本当に私のためになっているの? それとも、実は私に害を与えているもの? こうして私の中の完璧主義は、根こそぎ見直されました。

“完璧”とは何も悪いことではありません。たまにある完璧な食事、パーフェクトなデート。かつてオリンピックの体操選手ナディア・コマネチ氏がスコアしたような「パーフェクト10」だって、稀だけど時にはあることです。

しかし、完璧が訪れた時にそれを楽しむことと、「完璧主義であること」には雲泥の差があるように私は思います。ちょっとキツイ言い方ですが、私は、自分の中の完璧主義を一種の疾患のように考えるようになりました。それは、パーフェクトなワインを一杯嗜むことと、ワインがないと許せないようなアルコール中毒に溺れることの間にある、大きな違いです。前者は安全な贅沢だけど、後者は時に致命傷となります。

私は、自分の中の完璧主義が「私のLove of Life(生きることって最高、大好き!)を高めるより、生きることを苦しくしていることの方が多い」と痛感した時、自分にとってこれは致命傷なのかも、と思いました。このままいったら、私は、自分自身の人生から「楽しみ」を奪ってしまう、と見極めたのです。

もし皆さんの中に、完璧主義がまだ手放せていないという方がいたら、きっとみなさんもその窮屈さを間違いなく感じていると思うのです。

私は、Kほどずば抜けた才能の持ち主ではないけれど、元完璧主義者の立場から、完璧主義からの解放についてシェアできることがあります。

完璧主義からの解放のための7つのステップ

① “完璧”とは概念であり、セオリーである。永続的に実在するものではないことを知る。

② それは、私たち人間が常に進化を続けている証拠。一つの “完璧”を達成したら、また次が生まれるのが進化の道のりです。

③ すなわち、“完璧”を追い続けることは、常に満たされることのない約束を追いかけていること。進化論にストップが無い限り“完璧”というピリオドは打てません。

④ このようなパターンをリピートしないためには、(1)〜(3)をしっかりと理解し、心に留める必要があります。

⑤ 過去の私のように、完璧主義であることが心理的な癖になっている方にとっては、別の新しい脳回路を構築することが鍵となります。

⑥ 完璧でなければ、何を目標にすればいいのでしょうか? 結果へのフォーカスを、プロセスへのフォーカス、つまり「ただ今日という1日を最高に楽しむこと」に変えてみるとどうでしょう?

⑦ 注:完璧主義者にとって「ただ楽しむこと」は最初のうちは特に不十分に、物足りなく感じることでしょう。刺激の強いジャンクフードを食べ慣れた人が、急にクリーンな菜食になると舌が(一時的に)刺激を求め続けてしまうように、脱・完璧主義の道のりにおいてはアップダウンの少ない心の平静に「スパイスが足りない」と感じてしまうかもしれません。そんな時はひとまずそのことをしっかりと自覚し、この禁断症状を乗り越えましょう。あなたの中の「過去の自分」が過去のパターンを欲することは当たり前なことで、そこからの切り替えが必要となります。

決めること。

祈ること。

意志を固くすること。

何度でも。

もう、気づいたから。完璧主義によって自分が満たされることはないことを。

気づいたから、変えることを選択する。険しいジャングルの開拓は、いずれ穏やかな散歩道を作ります。その道のりは、あなただけのもの。他の誰にも歩むことができない、あなたが、あなた自身を解放するための神聖な道のりなのです。

元記事で読む
の記事をもっとみる