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東京駅の八重洲地下街、実は50年前に水没しかけたことがあった!

  • 2021.9.13
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1970年代、八重洲地下街が水没の危機にあったのをご存じでしょうか。知られざるその歴史について、フリーライターの真砂町金助さんが解説します。

都内最大の地下街

東京駅前の八重洲地下街(中央区八重洲)は「東京の顔」のひとつに数えられます。地下街としては都内最大の面積、かつ全国でも大阪市のクリスタ長堀に次いで2番目の規模となっています。

八重洲地下街。2019年撮影(画像:(C)Google)

また、東京駅周辺のビジネス街の下に位置していることもあってか、観光客向けの店舗が多い東京駅一番街に比べると、ふだんの東京を感じられるスポットです。

八重洲地下街は、1965(昭和40)年6月に開業しました。以来、長い間親しまれていますが、東京の街が開発されていく過程で、今では笑い話のような珍事が起こったことがあります。それは水没危機に陥った事件です。

事件が起こったのは、開業から5年後の1970年11月27日のこと。当時、地下街のそばでは首都高4号線の八重洲トンネルの工事が行われていました。

このトンネルは、北は呉服橋交差点付近から地下に入り、外堀通りの下を通って、鍛治屋橋交差点付近から地上に出ます。その途中、トンネル内には幾つかの出入り口が設けられており、そのひとつに「八重洲出入口」がありました。

ここは地下街の下に位置する八重洲駐車場に直結しています。東京駅で誰かを送迎する際、駅に最も近い駐車場のため、利用したことがある人も少なくないでしょう。

さて、前述の八重洲トンネルが開通したのは1973年2月です。事件が起きた1970年当時は、開通に向けて掘削工事が行われていた真っ最中でした。

そんな工事の真っ最中である11月27日未明、トンネル工事現場に突然大量の水がなだれ込んできました。八重洲トンネルは都市の合間を縫って計画されたため、トンネルの側壁の向こうが日本橋川になっている部分がありました。その側壁にできた割れ目から日本橋川の水が漏れてきたのです。

トンネル内が300mにわたって水没

水が出始めた午前2時頃はそれほどの水量ではありませんでしたが、応急処置を行っていたところ、9時30分になって水量が増し、ついにはトンネル内が300mにわたって水深15mまで水につかりました。このため、作業は中断し全員退去することになります。

この時点で水没したところの水面と日本橋川の水面はほぼ同じ高さになっていました。そのため水没は止まるかと思いきや、閉鎖されたトンネル内のため、なだれ込む水によって水かさはさらに増していきます。

八重洲地下街の場所(画像:八重洲地下街)

13時になると、ついに地下街の真下あたりまで水かさが増します。日本橋川は潮の干満の影響で水面の高さが変化します。この日は15時17分が満潮となっていたため、警戒していた警察当局は13時40分に避難命令を出します。

こうして、地下街には「お客さまは直ちに地下街から出てください」とアナウンスが流れ、駆けつけた機動隊員は警備にあたり、不測の事態に備えました。このまま、水かさが増せば地下街も水没してしまうという危険が迫っていました。

そうして迎えた満潮の時刻。現場には水が流れ込んでくる悲壮感すらあったようですが、なんとか最悪の事態は避けられ、16時45分になり、避難命令は解除されたのでした。大水害の危機を救ったのは、万が一の時の備えでした。

トンネル工事では、日本橋川に隣接していることから警戒心があったのか、地下街方面には先に建設されていた駐車場付近に高さ60cmの仮の壁が設置されていました。この60cmの壁があったことで、あわやのところで水没の危機を免れたのです。

危機回避の陰にあった大林組の力

万が一の出水に備えて仮壁をつくったのは、現場の建設会社による判断でした。

「この壁、当初は同公団(注:首都高速道路公団)の設計にははいっておらず、八重洲校区担当の大林組が「万一、下水道などの出水があれば、駐車場まであふれる危険がある」と同公団に申し入れてトンネル工事と並行しながら特別につくったもの。「当然ことにはちがいないが、これがなかったら、避難する間もなく地下街は水びたしになっていたはず」と同組関係者は胸を張っていた」(『朝日新聞』1970年11月28日付朝刊)

港区港南にある大林組の本社(画像:(C)Google)

「備えあれば憂いなし」ということわざがありますが、この騒動はまさにそれを体現したものといえます。

当時、全通していなかった首都高4号線は工事が急がれていました。しかしその最中であっても、現場は万が一のときを考えて作業を行っていたのです。

この出来事は、東京の現代史としてだけではなく、日本の技術者が誇るべき歴史として記録されてよいはずですが、残念ながら、もう忘れ去られているようです。今回、筆者もほかの資料を探しているなかで、新聞記事を偶然見つけるまで知りませんでした。

利用する人がとても多い八重洲地下街に、こんな歴史があったとは! 筆者はこれからもこの英断を長く語り伝えていきます。

真砂町金助(フリーライター)

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