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直木賞作家・白石一文がいち早く描いた、コロナが変えた生活と未来

  • 2021.7.20
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白石一文は、新作が待ち遠しい作家の一人である。本書『我が産声を聞きに』(講談社)が出たと聞いて、入手した。帯に「コロナ禍の家族を描く」とある。読んでみたら、コロナがテーマではないが、コロナによって変容した生活や家族のあり方が書かれていた。

英語の非常勤講師をしている名香子が、新型コロナウイルス流行で授業をオンラインに切り替えたという話から始まる。夫の良治は大手電機メーカーの研究職。緊急事態宣言のあいだは東京郊外の家で在宅勤務し、宣言解除後は週に一日か二日は在宅ワークにしている。一人娘の真理恵は大学に入ってから家を出たので、穏やかな夫婦二人の暮らしが続いていた。そんなある日、「来週の木曜日は空けておいてくれ」と良治に言われる。二人で一緒に出掛ける用事があるというのだ。

良治は54歳、名香子とは7つの差があった。喧嘩らしい喧嘩もなく、互いの時間と距離を大切にし、波風立てずに過ごしてきた。当日出かけたのは、都立がんセンターだった。社内の健康診断で、肺に影が見つかり、精密検査を受けた、と告白された。

結果は早期の肺がんだった。手術をすれば完治するという。それだけでもショックなのに、昼食に立ち寄った中華レストランで、良治は大事な話がある、と切り出す。肺がんの告知を受けたばかりだというのに、一体何があるというのか?

がんの告知と同時に夫が家出

白石作品には突然の「破局」がしばしば登場する。今度は何だろう? と身構えると、「実は好きな人がいるんだ」という告白だった。1年ちょっと前に出会って、ずっと付き合っていたという。しかも、肺がんだとわかったから、今日から家を出て、彼女の家に行くという。家も家の中のモノも車も名香子に渡す、離婚してほしいが、その時期は任せるという驚くべき申し出だった。呆然とする名香子。

連絡先その他を書いてあると言って、封筒を残して良治は立ち去った。中の便箋には、足立区千住にある喫茶店の名前と女性の電話番号が書いてあり、女性とは高校の同級生だという。「これまで長いあいだお世話になりました。誠にありがとうございました」と最後に短く書いてあった。

「これはきっと悪い冗談なのだ」と思った名香子は、車のオドメーターを見て、現実に引き戻された。まだ1年の新車なのに、1万400キロになっていた。自宅から会社の研究所まで往復距離はせいぜい20キロ未満。在宅勤務が増え、車に乗る回数は減っていたのに、なぜ? 自宅や職場と千住までは往復100キロだから、夫は会社に行くと言って、女性との逢引きを続けていたのに違いない。「今回、僕はやり直す方を選んだんだよ。最後のチャンスを摑み取って、今後の人生を、彼女と一緒に生きていく人生に変えようと決めたんだ」という良治のことばは、噓偽りのない決意だと気がついた。

電話をしても、良治は彼女に一度会ってほしい、と言うばかりで帰る気はないようだ。1週間過ぎても帰ってこない。過去の苦い思い出が「今度は時間を置いてみたら?」と名香子にささやいている、という説明から、過去へと話が遡る。

関西での悲恋

名香子一家は中学1年のときに兵庫県明石市に転居し、高校は神戸市内の私立に通い、大学は大阪、就職も神戸市内の中学校の教職と、彼女の生活圏が関西だったことが明らかになる。そして、彼女の悲恋が語られる。その時の行動が、今回彼女にブレーキをかけているというのだ。

今も明石に一人住む母に会いに行き、ついでに友人たちや昔の恋人に再会する名香子。神戸や大阪の描写が生き生きとしている。白石作品のもう一つの特徴は、こうした「土地」への愛着である。じっさい、多くの転居を繰り返している白石氏。福岡出身で、東京の出版社勤務が長かったが、作家になってから、全国あちこちに住んでいるようだ。ちょっとした記述に、生活感がにじみ出ている。

さて、名香子と良治はどうなるのか? 良治と再会した女性との間にも、信じられないような過去のいきさつがあったことがわかる。男性の読者としては、彼の「生まれ変わりたい」という決意を応援したくなるだろう。一方の名香子は恬淡としたものだ。こんな記述がある。

「真理恵が呆れ顔になるほど、自分が今回の良治の家出に対して淡々としているのは、現在の新型コロナウイルスの蔓延と決して無縁ではないのではないか?」

「薄っすらとではあっても日々、生命の危機にさらされる日常を生きていれば、夫が愛人をこしらえようが、家を飛び出そうが、たとえ夫婦別れになってしまおうが別にどうということもない......」

愛人をつくった夫が家出をしたら、妻はどうするのか? よくあるケースだが、ありがちなストーリー展開を本作がたどらないのが、新型コロナウイルスのせいだとしたら、これは「コロナと文学」というテーマで、将来語られるべきことではないだろうか?

このほかにも、コロナ禍の生活描写があれこれ出てくる。風俗小説の形を借りながら、いち早くコロナに向き合った作品だと言えよう。

コロナが我々の生活を変え、将来を変えるかもしれない。文学者からの一つの回答が本書である。

BOOKウォッチでは、白石氏の『君がいないと小説は書けない』(新潮社)、『一億円のさようなら』(徳間書店)を紹介済みだ。

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