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週末はマンション屋上でパーティーざんまい 「ロンバケ」みたいな東京生活だった僕が十数年後につかんだ大事なもの【連載】記憶の路上を歩く(6)

  • 2021.7.19
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90年代テレビドラマの金字塔『ロングバケーション』。あのキラキラとした世界がまだ現実にも残っていた頃の記憶と、2021年という現在地について、編集者の影山裕樹さんが自身の体験を基に考えます。

今はなき目黒区の7階建てマンション

今から十数年前に、目黒区の碑文谷エリアに住んでいました。

東横線の学芸大学駅を降りて、線路沿いに碑文谷公園方面を歩いていくと、そのまま目黒通りに突き当たります。その目黒通り沿いに建っていた、今はなき7階建てマンションに住んでいました。

マンションの屋上から東京の街を眺め、友人たちと食事を楽しむ。まるでドラマ『ロングバケーション』のような生活を送っていた十数年前の記憶(画像:写真AC)

道路を渡った先には、こちらも今はなきダイエー碑文谷店がありました。東京都心部にあって、地上7階・地下1階という郊外のショッピングモールさながらの床面積と、昭和から飛び出してきたようなフードコートが魅力的なスーパーで、毎日お世話になっていました。

それもそのはず、現在はイオンに変わって10年たちますが、碑文谷店は1975(昭和50)年より約40年続いた老舗で、ダイエーの旗艦店としてかなりの売り上げを誇っていました。

毎週末は友人を誘って、このダイエーで食材を買い込み、自宅でパーティーを開催していたのですが、僕(影山裕樹。編集者、千十一編集室代表)がこのマンションに入った理由のひとつは、屋上が広かったこと。

今だから言えますが、最上階の7階に入居し、こっそりと料理を屋上に持っていって、テーブルと椅子を広げてみんなで憩うことができたのです。

屋上からは東横線の線路を走る電車や、目黒通りに通る車、そしてダイエー碑文谷店が臨める最高の環境です。しかも、このマンションには目黒通りに向けた大きな看板が設置してあった。

ドラマのエピソードをまねた納豆焼き

そう、ここでピンと来る人は多いかと思いますが、あのトレンディードラマの金字塔『ロングバケーション』(フジテレビ系、1996年)のような光景が広がっていたんです。ドラマに出てきたのをまねして納豆を焼いて食べたりなんかもやりました。

マンションの屋上は基本的に立ち入り禁止のところが多く、屋上で友人たちと食事をするという体験はなかなかできない(画像:写真AC)

中野区で生まれ育った僕は、東横線沿線はある種の憧れの場所でした。

社会人になり、憧れの東横線沿線に居を構え、ロンバケを地で行く暮らし。仕事帰りには、駅前のキャベツラーメンの名店「モンゴメリー」でご飯を食べ、古着屋や雑貨屋で買い物をし、部屋を思い通りに改装する暮らし……。

とはいえすでに10年以上離れているので、まちの移り変わりを感じます。

ダイエーからほど近いホテルクラスカは2020年に閉館。リノベーションによるデザインされたホテルの先駆けとして知られ、周辺住人にも親しまれるようなイベントも開催されていました。

また、クラスカから目黒駅方面、山手通りと交差するあたりまで家具ショップが立ち並び、家具屋通りとしても知られています。このエリアでは毎年恒例のお祭り「目黒サローネ」が開催され、高額なビンテージ家具が割引で買えるなどもあって、にぎわいを見せます。

目黒区はいわゆる「城南エリア」と呼ばれ、隣接する品川区や港区と並び、一般的にその他のエリアに比べて資産価値が多く、富裕層も多く暮らしています。また、代々木上原周辺と並んで、東横線祐天寺~学芸大学界わいにはデザイン事務所も多く、クリエーター層に人気のエリアと言っていいでしょう。

今、住んでいる豊島区とその周辺

東京にも地域ごとの特色や文化的集積性があります。例えば「城西エリア」= 中央線文化、「城東エリア」= 下町文化というイメージがあります。

現在、僕が暮らす豊島区は「城北エリア」と呼ばれ、最近は北区赤羽の人気が突出しますが、都電荒川線の終点、三ノ輪から北千住と、城東エリアと重なる下町らしさが色濃く残ります。

城北エリアの一角、荒川区南千住にある都電荒川線の三ノ輪橋(画像:写真AC)

都築響一さんの書籍『東京右半分』(筑摩書房)や『アド街ック天国』(テレビ東京系)などのテレビ番組によって、東京の右側(城東エリア)もある種のブランド化が進んできたきらいはありますが、僕としては今後、城北エリアをなんとか盛り上げていきたいと考えています。

都市社会学者の奥田道大さんが80~90年代の豊島区池袋のアジア系外国人コミュニティーを調査した『池袋のアジア系外国人』という本があります。この調査は、池袋のような大都市インナーエリアは、異質性を許容する文化があるのではないかと示唆します。

安価な木賃アパートがかつては地方出身者の受け皿として機能し、その後は外国人コミュニティーの来日の足掛かりとして機能してきた。奥田さんはこの本の中で、

「もともと都市的(urban)とは、何かの縁で集まり住んだ他人(ストレンジャー)どうしの人々が、相互に折り合いながらともに築く洗練された新しい共同生活の規範、様式を指す」

と述べています。

文化都市としての池袋の可能性

これをまた、ジェーン・ジェイコブスの有名な都市の多様性を産む4要件、

・地区には二つ以上の用途がある・街区は短く、角を曲がる機会が多いこと・古い建物と新しい建物が混ざり合っていること・住人が密集していること

に照らし合わせてみると、池袋はじゅうぶん多様性を包含した「都市的」という条件を満たしているように思います。

都市における多様性、異質性の許容度の高さは、新たな都市的文化が生まれるための重要なトリガーになりうると僕は考えています。そこで重要なのは多彩な住人たちが互いに閉ざされた住宅に閉じこもるのではなく、それぞれの特性を交流させながら新たな文化を生み出すことです。

僕はよく、目黒区で暮らしていた頃と今を比較して考えます。そして、城北エリアに足りないのはある種のクリエーティブ人材のコミュニティーだと感じています。デザイナーとか建築家とか編集者とか、狭義のクリエーティブ人材です。

僕は彼らと、週末の屋上パーティーで交流して、情報交換し、互いに知己となって仕事を交換するようになりました。こういう、近隣の人と交流する半分パブリックな場は、再開発の進展によって、東京のあらゆる場所から失われているように思います。

しかし、これまで見てきた通り、池袋を含む城北エリアにはまだまだそういう都市の隙間があります。ただ、クリエーターがいない。もちろん、個々に入るのですが、近隣地区に存在する多様なコミュニティーどうしの交流の中に、クリエーティブ人材が可視化されていないのです。

まちの住民どうしがつながり合うことの意味

例えば地域の商店や工場の主人がウェブサイトを作りたくても、周りにそういうことができる人がいない。いるのに知らないだけなんですけれどね。

だから、彼らが点として孤立して暮らすのではなく、近隣の人々と積極的に交流し新しい文化を生み出すトリガーになりうるなら、城北エリアも、城南エリアに負けない文化的なまちであることを、証明できるのではないかと思っています。

そういう機会をこれからも作っていきたいと思います。

影山裕樹(編集者、千十一編集室代表)

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