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【戦国武将に学ぶ】尼子経久~守護代解任後に下克上、11カ国の太守へ~

  • 2021.6.27
尼子経久像(島根県安来市)
尼子経久像(島根県安来市)

東の戦国大名第1号・北条早雲(伊勢宗瑞)に対し、尼子(あまご)経久は西の戦国大名第1号といわれています。出雲(島根県東部)の守護は京極政経で、経久はその家臣筆頭として守護代の地位についていました。

ところが、1484(文明16)年、経久は主君・京極政経によって守護代職を解任され、居城だった月山富田(がっさんとだ)城も奪われるという出来事が起こります。並の武将ならば、そのまま終わってしまうところですが、経久はその2年後、月山富田城を奪い返し、さらに京極政経を出雲から追い出しているのです。典型的な守護代による下克上で、この後、経久が山陰を代表する戦国大名として君臨していくことになります。その戦国大名化の過程を追ってみましょう。

経済力背景に勢力拡大

経久は守護を追い出した後、1488(長享2)年、出雲の有力国人だった三沢(みざわ)氏を下しています。その動きに恐れをなした三刀屋(みとや)氏、赤穴(あかな)氏といった他の有力国人も経久に靡(なび)いてきました。こうして、瞬く間に出雲一国を掌握することに成功しています。それは守護が普段、京都に在住し、現地の状況に疎く、むしろ、守護代がそれをしっかりつかんでいたからでした。

出雲を制圧した経久はその勢いで、西の隣国、石見(いわみ)に攻め込みます。石見には石見大森銀山がありました。経久の時代はまだ、精錬技術はあまり進んでいませんでしたが、それでも、銀山からの収入は莫大(ばくだい)でした。しかも、出雲は良質の鉄の産地としても知られていましたので、経久はこうした鉱山収入によって、力をつけていくことになります。そればかりではありません。領内の美保関(みほのせき)は山陰地方屈指の良港で、出入りする船にかける船役徴収は大きな財源でした。

経久はこうした経済力をバックに強大な尼子軍を率い、領土を広げていきました。最終的に、経久の晩年には、出雲、石見のほか、隠岐、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)、安芸、備後、備中、備前、美作、播磨の11カ国を版図としています。安芸の毛利元就(もとなり)も経久の傘下に入っていたくらいです。

領国支配の体制整わず

ただ、経久による支配は後の戦国大名のように強固なものではありませんでした。本国、および、本国に近い出雲、石見、伯耆を別とすれば、その他の国の支配は緩く、経久が自分の家臣をそれらの国に送り込むのではなく、靡いてきた国人を家臣として組み込み、そのまま、その地の領主とする形がほとんどでした。つまり、国人が抵抗を諦め、好(よしみ)を通じ、それを経久が認めるという形だったのです。

そのため、周防の大内氏が力をつけてくると、毛利元就のように大内氏へくら替えする家臣が続出することになります。つまり、戦国大名として領国支配を貫徹する体制にはなっていなかったのです。これが経久の弱点であり、限界でした。

そして、もう一つマイナスとなったのが身内との関係です。経久には政久、国久、興久の3人の息子がいたのですが、長男・政久は1518(永正15)年9月、出雲阿用城の桜井氏を攻撃中に戦死しました。本来なら、その弟の国久、興久を大事にしなければならないところですが、経久は三男の興久を討ってしまっています。路線の対立があったということですが、一族の結束を維持することができなかったわけです。

結局、長男政久の子で孫にあたる晴久の成長を待ち、1537(天文6)年、晴久が24歳になったときに家督を譲り、その4年後の1541(天文10)年、84歳で亡くなりました。経久の死から25年後の1566(永禄9)年、勢力を拡大した毛利元就によって、尼子氏は月山富田城を追われ、滅亡への道をたどることとなります。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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