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『まめ夫』の元夫たちは“妖精”? とわ子の命題を通して描かれた、矛盾を肯定する生き方

  • 2021.6.22
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『大豆田とわ子と三人の元夫』(c)カンテレ

急にできた空き時間や訪れた休日に、携帯に手を伸ばして誰かに連絡するか1人のまま自由に過ごすか考える時、ふと思い出す大豆田とわ子の言葉。「1人で生きていける、けど〇〇〇」。彼女をはじめ、その周りに存在する登場人物たちの言葉が日常のふとした瞬間に反芻する。先日最終回を迎えた『大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ・フジテレビ系)は放送を終了してもなお、未だに生活の中に溶け込んで私たちに思考させるようなドラマだった。

本作は40代、3回の結婚歴と離婚歴を持つ大豆田とわ子(松たか子)が4度目の結婚を意識する出会い、そして同時期に再会した3人の元夫との交流から始まる。その出会いの相手は結局、結婚詐欺師だったわけだが、それに伴い残された三人の元夫の誰かと復縁し、4度目の結婚に向かっていくものかと思われた。しかし、物語は始めからそういうものではなかった。もちろん、彼女が再婚を意識していたのは確かだが、その意識の根深い部分にある命題「1人で生きていける、けど〇〇」について考えるとわ子の一時の迷い、回り道の過程を描く物語だったのだ。最終回を観て、本ドラマが描いたものについて少し考えたい。

・とわ子の向き合ってきた命題と得た答え

とわ子の迷い、それは幼少期に母親・つき子から投げかけられた言葉「とわ子はどっちかな? ひとりでも大丈夫になりたい? 誰かに大事にされたい?」に起因するものだった。社長の身として日々忙しく、もういい歳だし何でもある程度ひとりでできる(“網戸を直す”こと以外は)、そんな彼女だったが、ドラマの中で何回も日常に潜む「めんどくさい」に辟易としている。自分でお湯を沸かしたり、電気をつけたり、そんなちょっとしたことがたまにしんどい。誰かに頼りたい、もう1人でいたくない……いや、誰にも頼らず1人でいれるけれど。そんな風に「矛盾」をはらんだ感情の堂々巡りに彼女が時より苦しんでいるように見えるのは、そもそも投げかけられた母の言葉が“どちらかを選ばせる”ものだったからではないだろうか。

それはまるで、1人でも生きていけることが“強さ”であり、誰かを求めることが“弱さ”であるかのような問いだ。異性と結婚して家庭に入ること、男性に頼って大事にされることが女性の幸せだという「固定観念」があった時代を生きたつき子だからこそのものだ。もしかしたら、彼女も自分の母親から同じ問いを受け取ったのかもしれない。それは女性の社会進出が進みつつある時代で強くあろうとしてきた娘とわ子に渡されたと同時に、多様性がすでに前提となっている世代の孫・唄(豊嶋花)にも託されていく。

母の恋文を見つけた2人が会いに行った母の恋人のマーが、國村真(風吹ジュン)という女性だったことが一種の“サプライズ”として描かれたこともあるが、何より彼女が「自分と一緒にならなくて正解」と言わされてしまったことが悲しい最終回のワンシーン。ここで改めてつき子の問いを考えると、「1人で大丈夫」だったのはマーで、「誰かに大事にされたい」を選んだのは彼女自身だったわけだ。でも本当は、なにかにすがりつかなくても、大体なんでもこなせる人だったというつき子も、前者のはず。彼女も娘とわ子と同じように葛藤があったのでは、と想像してしまう。

今の時代なら、どちらかではなく、どちらも選びとることができたかもしれないが、彼女たちの生きた時代の価値観は違う。そして私たちは、頭の中ではわかっていても、未だに二つを選び取ることが矛盾していて、どちらかが間違っているのではないか、という古びた価値観に縛られてしまうことだってある。だから、とわ子も自分が“どちら”なのか迷っていたのではないだろうか。何より興味深いのは、男尊女卑の考えが薄くなりジェンダーに対する考えも比較的フラットな世代の唄が、逆に16歳にして男性に全てを託すために「いい奥さんの練習」をしていること。「おばあちゃんの生きた人生は、私の未来かもしれない」という彼女はどちらも選び取れるのに、いや、むしろだからこそ、憎たらしい西園寺くんを“教育”すればいいのか、ママのように1人で生きていくのが幸せなのかわからない。皆、“現代における女性の生き方の正解”を探っている。

恋文の登場により、とわ子がわからなくなってしまったことは、もう一つある。自分が、本当に母に愛されたのかということだ。これまで信じてきたものが突然崩れてしまう。それは、一種のアイデンティティの揺らぎに繋がる。だからこそ、マーがかけた「あなたのお母さんは娘を、家族を愛している人だった」という言葉に涙が溢れたのだ。

「どうしてだろうね。家族を愛していたのも事実、自由になれたらと思っていたのも事実。矛盾している。でも誰だって、心に穴を生まれ持ってきてそれ埋めるためにジタバタして生きているんだもん。愛を守りたい。恋に溺れたい。1人の中にいくつもあって、嘘じゃない。どれも、つき子」

この言葉のおかげでようやく、どちらかを選ぶことの呪縛から解放されたとわ子は、笑顔になる。実はすでに、選んだり分けたりすることから自分を解き放っていた彼女ではあるが、それでも不安だったはずだ。矛盾を抱えて生きていくことは、不安だ。だから、抱えて生きていくにはそれを肯定する必要がある。自らそれを肯定することも大事だし、何より他者から肯定されることの方が時にはずっと力強い。実はつき子は、マー以外にもう“三人”の肯定者をすでに、とわ子の元に送り込んでいた。

・三人の元夫の使命

覚えているだろうか。この三人の元夫との再会のきっかけは、母・つき子の葬式なのだ。まるで彼女が再びとわ子に引き合わせたような彼らは、その後それぞれがとわ子と過ごした時間を彼女に思い出させる。それは、とわ子が“愛された記憶”であり“愛した記憶”。つまり、過去の彼女の、彼らと結婚したという選択や彼女自身の肯定でもある。

主人公の母の死という出来事から始まったドラマは、ちょうど真ん中で親友かごめ(市川実日子)の死を描く。この時、とわ子の前に現れたのは彼女の「過去」である元夫たちとは対照的な存在、小鳥遊大史(オダギリジョー)という「未来」だった。とわ子自身、この時自分が前に進むためには、「未来」を選ぶ方が幸せになるのではないかと考え、それに伴って「仕事をする自分」と「恋をする自分」という矛盾を分けようとした。しかし、ここで先述の「矛盾」を取り巻く問題に戻っていく。

これまでのドラマの中で、しばしとわ子が「社長にならなきゃよかった」と愚痴ったり、建築に関する書籍を楽しげに読んだり、図面を生き生きと描き直すシーンが描かれてきた。それでも、やはり自分が社長という仕事をする意義も感じながら業務を全うしていく。ここにも「矛盾」が描かれている。しかし、中村慎森(岡田将生)が「働く君と恋をする君は別の人じゃない、分けちゃだめなんだ」と伝えた通り、その矛盾こそ「大豆田とわ子」なのだ。結果、自分自身でいることを選ぶにあたって「未来」ではなくその慎森の言葉や、かごめという“自分の愛した記憶”を分かち合える八作(松田龍平)の元へ訪れるなど「過去」を選び取った。そう、実はもうすでにとわ子の迷いの旅の答えは最終回の前話で彼女自身が得ており、最終回はその彼女を肯定し、背中を押すエピローグ的な役割を果たしている。

そして、その肯定を担う元夫たちは突然家に押しかけてきたかと思えば、ずっと彼女に「僕たちは君が好きだってこと。大豆田とわ子は最高だよってこと」と言う。彼女が寂しくないように、楽しかった思い出を、愛に囲まれて生きてきた証拠を散りばめながら。彼らはとわ子が母を亡くした時から、彼女をずっと見守ってきた。幻想的なキャンドルシーンも相まって、いよいよ彼らが『眠れる森の美女』に出てきたような、3人のフェアリーゴッドマザーのように思えてしまう。安心して眠る彼女を見つめながら、「こういうこともずっと続かないだろうけどね」と言いつつ、とわ子が起きると示し合わせたようにクスクス笑いながら、また彼女を肯定する。彼らはもしかしたら、とわ子がとわ子でいられるために、彼女自身のひとつの答えが出せるための道を案内してきた“妖精”だったのかもしれない。一方、第9話で慎森が「人の孤独を埋められるのは愛されることじゃない、愛することだよ」と言っていたこと、佐藤鹿太郎(角田晃広)が「いくつになっても寂しい」と言っていたことを思い出すと、妖精たちもまた、とわ子を愛し続けることで孤独という穴を埋めていたのかと思うと切ない。

そうして導き出され、彼女が出した答えは、「私の好きは、その人が笑っててくれること。笑ってくれたら、あとは何でもいい! そういう感じ」。

・とわ子と網戸の行方

ドラマの第1話からそこにあり続けた“網戸”の問題も、最終回で解決された。「網戸が外れるたびにもう一回恋しよう」と思う、とわ子。しかしそれを直してくれる相手は三人の元夫でも、小鳥遊さんでもなかった(直せたが、すぐに外れるというのがとわ子と彼の関係のメタファーになっている)。では誰が、網戸を完璧に直せたのか。それは、とわ子の父親・旺介(岩松了)だった。

彼女と父の関係性についてはこれまで深く語られてこなかったものの、娘を「あなた」呼びしたり、とわ子が元参議院議員の父と無関係でいたいような素振りを見せたり、少し距離のある父子だったことが窺える。そして、マーの元へ訪ねた日の夜、家にやってきた父がリビングに置いてあった『羊たちの沈黙』の半券を見つけた。「1人で観に行ったなあ」の一言で、あの手紙とともにあった映画の半券たちは母が入れたものではなく、父が入れたものだったことがわかる。あの手紙のことも、つき子のことも、全て彼は知っていたのだ。そこでようやく親子が向き合って本音を話し始めたことで、とわ子がなぜ“1人で大丈夫”になったのか、その背景が明かされた。ドラマにたびたび出てくる書き初めで達観した言葉をしたためていた幼いとわ子が、「お父さん、お母さんどこに行くの」と言っていたことについて考えさせられる。

「お父さんとお母さんが、あなたを転んでも1人で起きれる子にしてしまった」、そう自分の不在を詫びながら網戸を直す父。そもそも、何度も外れる“網戸”は何を意味していたのか。それは、とわ子の存在そのものなのかもしれない。彼女のルーツにある、外れる原因がわかっていなかったから、とわ子自身も含め皆きちんと直すことができなかった。それを母亡き今、唯一知る父親だったからこそ、直せたのだ。そして彼が直せたことによって、とわ子は直し方を知り、恋した誰かに直してもらうのではなく、自分で“網戸”を直せるようになったのである。

・固定観念を覆す 矛盾を肯定して生きていくこと

ところで、最終回にはたくさんの「固定観念を覆す」モチーフが登場した。母の想い人が男性だと勝手に決めつけていたが、実は女性だったこと。女性の人生の幸せにまつわる固定観念と、それを打ち砕いた主人公。大人になってからだって、学んでもいい自転車の乗り方。夜中に食べる、朝ごはん。そもそも、大前提に元夫たちが仲良くしていること自体、固定観念が覆されている。

それは全て、誰かに決められたことではなく、自分自身が決めた自分らしく生きる道を選び取ることに繋がっていく。唄が医者を再び目指すこともそうだが、ラストシーンで登場したこれまで元夫たちと一悶着あった女性たちのその後もそう。三ツ矢早良(石橋静河)が啖呵を切っていたので、あの時はこのドラマのラストではそれぞれ別の男性といるシーンが描かれるのかもと思いきや、代わりに彼女たちが選び取った、彼女たちの道が描かれていた点も意味深い。その点でも、『大豆田とわ子と三人の元夫』は単純な“恋愛ドラマ”ではなかった。

自分を生きることは、「矛盾」との共存だ。選び取る必要はない。1人の中にいくつもあって、嘘じゃない今の自分も、過去の自分を肯定して歩んでいくこと。生まれ持った穴を埋めるために生きることを肯定することを描いた本作は、その中に詰め込まれた様々な登場人物たちの視野や台詞は、視聴者である我々の頭で反芻し、先の見えない物語の中でいかに曖昧で、純粋で、自分で決めた自分の幸せの姿でいるかについて考えさせてくれる。

(文=アナイス/ANAIS)

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