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人口わずか166人! 絶海の孤島「青ヶ島」に理想を求めた教育者がいた

  • 2021.6.20
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伊豆諸島に属し、日本屈指の上陸難易度を誇る青ヶ島。そんな同島の歴史について、離島ライターの大島とおるさんが解説します。

行くだけで尊敬されるスポット

足を踏み入れただけで周囲から尊敬される東京都のスポット――そのひとつが伊豆諸島最南端の青ヶ島。2021年4月1日時点の人口は166人(114世帯)です。

青ヶ島の様子(画像:海上保安庁)

コロナ禍前は「外国人観光客が増えている」という声もあった青ヶ島。しかし増えているとはいえ、島の宿泊施設は民宿が6軒とキャンプ場だけ。民宿の収容人員は合計106人、キャンプ場は20人と観光地と呼ぶにはかなり控えめな数字です。

さらに交通手段も限られているため、この「レア感」が国内の離島ファンだけでなく海外にも知られるようになったのでしょうか。

観光客は12年間で2.8倍に

青ヶ島は八丈島経由で上陸します。八丈島には海路に加え、羽田空港からジェット機も就航しています。かつては「鳥も通わぬ八丈島」といわれていましたが、そんな時代に比べると都心とのつながりは深くなっています。

しかし、肝心の青ヶ島に到達するにはそう簡単ではありません。

海路のあおがしま丸は

・定員:50人・就航:週4~5日・所要時間:3時間

となっていますが、実際の就航率は40%台です。なぜなら、青ヶ島の港が黒潮に洗われる場所にあるために、少しでも海が荒れると接岸できなくなるためです。

あおがしま丸(画像:写真AC)

そこで1993(平成5)年から、定期ヘリコプター・東京愛らんどシャトルが就航しており、こちらは毎日運行、所要時間は20分です。ただ定員は9人のため、チケットを確保するのが大変です。

それでも青ヶ島を訪れた観光客は1379人で前年度比121.5%となっています(2019年東京都産業労働局統計)。2007年は485人でだったため、12年間で2.8倍まで増えています。

一方、観光客の平均宿泊数は2007年は2.0日、2019年は2.2日とさほど伸びていません。これからわかるのは、観光客は増えているものの「訪れるだけで満足」という人の割合が多いということです。

本土並みのインターネット接続が可能に

そんな秘境感あふれる青ヶ島ですが、動きはあります。2021年3月、ついに本土並みのインターネット接続が可能になったのです。

青ヶ島をはじめ伊豆諸島の多くの島ではインターネット回線は非対称デジタル加入者線(ADSL)が最速という状況が続いていました。

そこで東京都は、2016年から海底光ファイバーケーブルの整備を実施。このたび利島とともに回線速度30Mbps以上で高速インターネット接続ができるようになったのです。

青ヶ島の風景(画像:写真AC)

島との物理的な距離は縮まったわけではありませんが、心理的な距離はグッと縮まった印象を受けます。これを機に、青ヶ島村の公式サイトからのさらなる情報発信が期待されます。

「絶海の孤島」に降り立ったひとりの教師

青ヶ島はつい数十年前まで、まさに「絶海の孤島」でした。

そんな孤島に1950(昭和25)年、あるひとりの教師が赴任しました。高津勉さんです。高津さんは島で10年間過ごし『黒潮のはてに子らありて―青が島教師十年の記録』(鏡浦書房、1961年)など、いくつかの記録を残しています。

『黒潮のはてに子らありて―青が島教師十年の記録』(画像:鏡浦書房)

ここに記された青ヶ島は、現代からは想像もできません姿でした。当時の人口は350人あまりで、その人口を支える主な食糧はサツマイモ。水源はなく、飲み水は雨水をためることしかできません。

なにより交通の便は今以上に不便で、高津さんが『文藝春秋』1955年6月号に寄稿した「青ヶ島の桃太郎たち」には、こう記されています。

「船は月に一度の割で、八丈島から不定期に連絡があるだけだ。島で厄介な病気にでもかかろうものなら、医者がいないから、人は精神力で病気と闘わなければならない」

そんな島ですから、教師として赴任するのも並大抵の精神力ではできません。

「多くの人は一年もたたぬうちに、尻尾を巻いて帰ってしまった。教員の平均勤務年数は、統計によるとわずか9ヶ月である。中には着任すると、次の船で逃げ出した人もいる」

高津さんはへき地教育の必要性を感じ、自ら志願して島への赴任を決めましたが「正気の沙汰ではない」と親に泣かれ、友人には引き留められたといいます。島の住民にとっては失礼この上ないですが、この頃の都会人の認識はその程度のもので、偏見を持つ人も大勢いたのです。

腹を据え、家族を連れて島に移住

青ヶ島の小学校は1874(明治7)年に開設されていましたが、識字率は2割程度。島の住民は純朴でしたが、都会から来たというだけで高津さんは奇異の目で見られます。

「生徒達が縁なし眼鏡を珍しがったり怖がったりしているのを思い出し、以後はひとりで本を読む時以外は掛けないことにした。ネクタイも赤いのは止めた」

島での暮らしは都内と大きく異なります。飯ごうで米の飯を炊いて、あとはアシタバと呼ばれる野草をゆで、浜でとれた魚を焼いて食べるのみ。

青ヶ島の風景(画像:写真AC)

強い意志と覚悟がなければすぐにでも逃げ出したくなる生活ですが、高津さんは小中合わせて9年は滞在しなければならないと決心。

しかし決心するだけでは島の人に信じてもらえないと考え、帰郷したおりに「前から知り合いだった許嫁を大急ぎでかきくどき」家族を連れて島に戻りました。このことで島の人は感激し、全島民が集まり結婚式が開かれたそうです。

実は、筆者も最近になって高津さんの本に出会ったのですが、調べたところ書籍のほか多くの雑誌に寄稿して青ヶ島の魅力を語っています。はるか南の島に、こんな理想を持った教育者がいたという歴史――このことはさらに調査し、文章を記していくつもりです。

大島とおる(離島ライター)

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