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東京と南極を結んだ建築家「浅田孝」 生誕100年で振り返る偉大な功績とは

  • 2021.6.19
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長らく人類が暮らすことは困難の地とされてきた南極大陸。そんな場所で使われる昭和基地をデザインしたのが「浅田孝」です。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

厳寒地・南極

6月も半ばを過ぎ、日本列島は日に日に暑さを増しています。近年、埼玉県熊谷市や群馬県館林市、岐阜県多治見市などが日本一暑い都市を競うなど、本来ならネガティブなイメージの“暑い”ことを逆手に取ったPRも珍しくなくなりました。

暑くなる北半球に対して、南半球はこれからが冬で、寒さもピークを迎えます。特に、厳寒地とし知られてきた南極大陸は長らく人類が暮らすことは困難の地とされてきました。

そんな南極にも人類は果敢に挑戦し、不自由ながらも生活を送れるようになってきています。

南極大陸の面積は、日本の約37倍にもあたる約1388万平方キロメートルもあります。「広大な大地を有効活用できないか?」と考えるのは人間の性かもしれません。

日本初の南極観測隊は1956年

南極大陸の有効活用を求めて、世界各国は競って南極に基地を開設。調査・研究を続けています。日本は1955(昭和30)年に南極地域観測に参加することを閣議決定。翌年に第1次南極観測隊が出発しました。

南極大陸の昭和基地管理棟前で撮影された360度パノラマ画像(画像:ミサワホーム)

南極観測隊の任務は多岐にわたりますが、南極という未開の地で起きる問題を克服・解決することが最大の目的です。中でも1年間を南極大陸で暮らす隊員は、厳しい冬を乗り換えるために越冬隊と呼ばれます。つまり、南極が冬を迎える6月~8月が観測隊の正念場なのです。

2020年12月に日本を出発したのは第62次観測隊です。つまり、日本は62回もチームを南極に派遣しているわけですが、2020年から世界中でまん延している新型コロナウイルスは南極観測隊にも影響を及ぼしています。

南極では新型コロナウイルスの感染者は確認されていませんが、万が一にも感染者を出すことはできません。リスク低減のため、第62次観測隊は人数を大幅に減らして派遣されました。

62回も観測隊を送っていることもあり、厳しい南極生活を快適に暮らせるような工夫や知見も少しずつ蓄積されています。しかし、当初の観測隊はすべてを手探りでした。

困難だった住居建設

中でも、もっとも苦労をしたのが住居です。

常に氷点下の南極では、すべてのものが凍ってしまいます。建築資材も耐寒性が強いものでなければなりませんが、そうした建材を用意できても現地では長時間にわたって建設作業ができません。また、観測隊のメンバーには大工職人もいましたが、多くの隊員は建築・建設に詳しくありません。

少人数かつ専門外の観測隊が短時間で施工できることが、南極における住居建設の最大ミッションでした。

南極観測船「しらせ」(画像:写真AC)

観測隊を派遣する前、有識者で組織された南極建築委員会が北海道網走市の濤沸(とうふつ)湖畔で南極用の住居について実験を繰り返しました。その結果、円筒型の建屋をサークル状に配置した基地案に決定します。

しかし、観測隊として派遣される予定だった隊員から「円筒形の住居は生活がしづらい。従来の住居のような四角い建物が望ましい」という難色が示されました。その意見から、基地の設計は白紙に戻ります。

「つくらない建築家」がつくった基地

基地の設計が暗礁に乗り上げた頃、南極建築委員会は早稲田大学で講師を務めていた浅田孝に相談します。

浅田は、「世界のタンゲ」こと丹下健三の下で働いていたこともある優秀な建築家です。後に浅田は「つくらない建築家」と評されるのですが、それは浅田がプランナーとして傑出していた知識を有していたからです。

南極大陸(画像:(C)Google)

基地の建設に関して、浅田は当時としては未発達だったプレハブ技術を用いることを提案。現地で組み立てるだけのプレハブなら建設作業は短時間で済みます。

さらに浅田は建築・建設の専門外の人たちでも組み立てられるようにくぎを不使用にし、特殊なコネクターで建物を結合するように工夫しました。これなら、専門家でなくても組み立てが容易です。問題は、プレハブでつくった基地が厳寒に耐えられるか?ということでした。

浅田は基地を設計するにあたり、

1:マイナス60度2:風速は毎秒80m3:最大積雪は屋根面から2m4:湿度40パーセント5:室内温度はプラス20度

という基準を設け、それに適合するように建材を選んでいます。

例えば、基地に使用する枠材の両面に断熱材を充填(じゅうてん)。それだけではなく、寒暖差による収縮を最小限に抑えるべく建材にヒノキを選定。しかも、年輪の詰まった部分だけを使用するなど工夫を凝らしました。

浅田が設計した基地案が採用され、観測隊に先駆けて建材を乗せた船が1956(昭和31)年11月8日、東京・晴海埠頭(ふとう)を出航。

翌年の1月29日に南極大陸のオングル島に到着して、2月5日に無線棟がまず完成。2月11日に居住棟と発電棟が、2月14日に主屋棟が完成しました。これらの建物群は昭和基地と名付けられ、第1次観測隊11人が越冬しています。

東京都知事のブレーンとして活躍した浅田

その後も観測隊によって昭和基地は少しずつ増改築していきますが、最初に建てられた居住棟は1981(昭和56)年に第21次観測隊が持ち帰っています。

南極建築という一大プロジェクトを成功に導いた浅田は、1967年に東京都知事に就任した美濃部亮吉のブレーンとしても活躍。

当時、大気汚染や水質悪化が社会問題化していたこともあり、美濃部が打ち出した「広場と青空の東京構想」は広く支持を集めました。この広場と青空の東京構想は、浅田が主導して立案された政策です。

中央区晴海にある晴海ふ頭の風景(画像:写真AC)

2021年は浅田の生誕100周年という節目にあたります。

浅田の力がなければ、南極に挑む日本のプロジェクトはスタートラインに立つことさえかないませんでした。南極大陸での生活は、人類が不可能を可能にする挑戦です。

一見すると、南極における技術の向上は私たちの生活と無関係のようにも映ります。しかし、南極で得た知見は巡り巡って自然エネルギーの活用や農業・建築技術など私たちの暮らしのなかにも役立てられているのです。

小川裕夫(フリーランスライター)

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