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世界有数の大繁華街「新宿」 まち誕生の仕掛け人は「浅草の商人」たちだった!

  • 2021.6.17
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日本有数はもちろん、世界有数と呼ぶにもふさわしい巨大な繁華街、新宿。商業施設街、オフィス街、歓楽街、官庁街などさまざまな表情を併せ持つこの街は、果たしてどのようにして誕生し、どのような歴史をたどって今の姿になったのでしょうか。ライターの屋敷直子さんがその系譜をひも解きます。

デパート、オフィス、バスターミナル

「新宿」と聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。

歌舞伎町、新宿2丁目、新宿御苑など、個性的な区画が集まっている街というイメージがあるかもしれません。

新宿駅周辺だけを見ても、デパートや大型店舗が多い東口、東京都庁をはじめとした高層ビルが建ち並ぶ西口、高速バスのターミナル「バスタ新宿」ができた南口と、それぞれの風景は違っていて、流れる空気も異なります。いずれにしても、新宿 = 繁華街のイメージが強い。

新宿3丁目交差点から伊勢丹新宿店をのぞむ(画像:屋敷直子)

盛り場としていろいろな顔を持つ新宿ですが、さかのぼれば今からおよそ320年前、浅草の商人たちによって開発されたのが、はじまりです。なぜ彼らは、地理的に離れた“新宿”に目を付けたのか。その経緯をたどります。

※ ※ ※

その名のとおり、新宿は「新しい宿場」として誕生しました。江戸時代のことです。

宿場とは、街道筋にある「駅」のようなもので、茶屋や商店、旅籠(はたご)があり、荷物を運ぶための馬や人足も常備されていて、街道を行き来する人たちにとってはなくてはならないものでした。当時、日本橋を起点として五つの街道が各地に伸びていましたが、新宿は甲州街道のひとつめの宿場として開設されます。

「駅」とはいっても、宿場町は現在の「新宿駅」とはすこし離れていました。

江戸時代の甲州街道を継承したのが現代の国道20号ですが、四谷4丁目交差点(四谷大木戸、通行人らを取り締まる関所)から新宿3丁目交差点(青梅街道との追分)あたりまでの約1kmが、宿場町でした。

新宿3丁目交差点に見つけた宿場の痕跡

新宿3丁目交差点の歩道には、「新宿元標ここが追分」という丸い石のタイルが地面に埋め込まれています。江戸中期の地図と浮世絵が描かれていて、新宿が宿場町として誕生したことを、今に伝えています。

新宿3丁目交差点の歩道にある丸い石のタイル(画像:屋敷直子)

「追分」とは分岐のことで、ここで青梅街道と甲州街道に分かれていました。交差点の近くにある「追分だんご本舗」の店名からも、このことがうかがえます。

現在、交差点から西方向が繁華街ですが、江戸時代の宿場町はここから逆方向、四ッ谷方面に向かって伸びていました。江戸城(現・皇居)から見れば、四ッ谷までが江戸府内で、そこから先は原野だったのです。

正確には宿場は「内藤新宿」という名前で、信濃高遠藩内藤家の下屋敷が、この地にあり、宿場開設のために敷地を提供したことに由来します。ちょうど現在の新宿御苑一帯が、内藤家の下屋敷でした。

内藤新宿は、浅草の商人たちの嘆願によって開設されました。

甲州街道が開通した当時は、ひとつめの宿場は「高井戸」(現・杉並区)でしたが、起点である日本橋からは4里(約16km)と遠く、旅人には不便だったのです。そこで、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛ら浅草商人(一説には、遊郭の経営者)5人が5600両を上納して、新しい宿場の開設を幕府に願い出ます。

こうして1699(元禄12)年4月、江戸幕府ができて約100年後に、宿場町「内藤新宿」が開設されました。

浅草の名手たちの目論見とは

なぜ浅草の名主が、地理的には遠い新宿に、大金をつぎ込んでまで宿場を開設したのか。

5600両といえば、現代の通貨に1両10万と換算して5億6000万円。高井戸の手前に宿場を開設して旅人の便宜を図るというのは建前で、新たな盛り場をつくって、ひと儲けする目論見だったという説が有力です。

当時、内藤新宿とともに江戸四宿とされた東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿はどこも、遊興の地として栄えていました。

遊興の地といえば、遊里(遊郭)。江戸時代の旅籠には、飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる女性がいて、本来は宿泊する旅人の食事の世話をする役割でしたが、ほとんどが性的サービスも兼ねていました。この時代、幕府は吉原以外での売春行為を禁じていましたが、アンダーグラウンドかつイレギュラーな売春は、宿場をはじめ、各地で行われていたのです。

今でこそ東京随一の繁華街である新宿ですが、江戸四宿のなかでは後発であり、遊里としても吉原にはるか及ばない格下の田舎町でした。

歌川広重(初代)「名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿」(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)

四谷新宿 馬糞の中で あやめ咲くとは しおらしい

という歌が残っています。あやめとは飯盛女のことで、荷をひく馬のフンとの対比が目に浮かびます。

このように新興の宿場ではありましたが、本来の「駅」の役割に加えて、グレーゾーンの遊興の地としても人が集まるようになります。

内藤新宿が廃止された思わぬ理由

ですが、1718(享保3)年、宿場廃止の憂き目に遭います。八代将軍徳川吉宗による「享保の改革」の一環で、質素倹約や風俗取締りが厳しくなったためとされていますが、その陰で「大八事件」という旗本の放蕩(ほうとう)話も伝わっています。

――四谷大番町に住む旗本内藤新五左衛門の弟、大八は、よく新宿まで遊女を買いに行っていた。ある日、旅籠の信濃屋で、なじみの遊女が他の客の相手をしていて自分のところに来ない。腹を立てた大八は目当ての遊女を強引に引き連れようとして、店の下男に殴打される。そのまま帰ってきた弟を見て、兄の新五左衛門は「家の恥」と怒り、大八を打ち首にして、その首を持って大目付のところに行く。曰く「自分の所領を返上するから、どうか内藤新宿をお取り潰しにしてください」。内藤新宿では知らぬ者はいない事件となってしまい、大目付としても無視することはできなかった。――

権力者がその体面をたもつために、ほとんど逆恨みといっていい言いがかりをつける。どこか現代にもつながるお話です。

四谷4丁目交差点にある、甲州街道の大木戸跡(画像:屋敷直子)

内藤新宿は廃止され商売をしていた者も散り散りになりますが、再開の請願を粘り強く出し続け、54年後の1772(明和9)年に復活します。

江戸時代も中期になり人口も増えてきたこともあって、宿場が再開すると、あくまで「黙認」という形ではありますが、旅籠には150人の飯盛女が置かれました。最盛期には、およそ1kmの間に茶屋50軒、旅籠38軒が軒を連ねたといわれています。

ほかにも、宿場であつかう馬のための馬具、大工や左官、豆腐や米や魚などの食料、髪結や仕立てなど、生活を営むための店が並び、新しい街の形がつくられていったのです。

「新しい宿」ゆえの自由闊達さ

こうしてみていくと、茅が生い茂る原野にできた「新しい宿」だからこそ、江戸で新たに商売をはじめようとした人、地方から出てきた職人などが集まり、過去にも格式にもとらわれない自由闊達(かったつ)な空気が生まれたのではないでしょうか。

甲州道と青梅道の分かれ道「追分」の名を今に残す、新宿3丁目交差点近くの「追分だんご」(画像:屋敷直子)

こののち時代を経るにしたがって街の中心はすこしずつ西へと移っていきますが、破壊と再生を繰り返す力強さとたくましさは、脈々と引き継がれていくのです。

参考文献:『新宿裏街三代記』野村敏雄・著/青蛙房『新宿ゴールデン街』渡辺英綱・著/晶文社『新宿の迷宮を歩く 300年の歴史探検』橋口敏男・著/平凡社新書『新宿「性なる街」の歴史地理』三橋順子・著/朝日新聞出版

屋敷直子(ライター)

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