1. トップ
  2. 恋愛
  3. 星座と星から物語る日本の紳士と淑女たち「変動運が誘う終焉の侍、坂本龍馬と新選組」

星座と星から物語る日本の紳士と淑女たち「変動運が誘う終焉の侍、坂本龍馬と新選組」

  • 2021.6.12
  • 1377 views

ガチガチの占星術ではなく、こうである!な堅い歴史学でもないです。激動の幕末史をはじめに歴史を飾る人たち。それぞれを照らす星座と星を見ながら語るコラムです。 ※誕生日は西暦表示・敬称略。

変動運が誘う終焉の侍

幕末明治維新を語る際、外せないのが坂本龍馬と新選組。かなりおおざっぱですが、時代小説から入る方、TV時代劇や芝居から入る方、現代では漫画から入る方…と、それぞれの導入があると思います。

私自身、新選組を知ったのは木原敏江先生の描かれた漫画。「天まであがれ!」がきっかけでした。沖田総司が主人公。芹沢暗殺や池田屋に近藤の負傷。井上の戦死から沖田の死・土方の戦死までと、事実に沿いつつも、幕末のテロ感満載の殺伐とした空気がほとんどなく、少女漫画エッセンスの恋愛も組み込まれていてどこかさわやか。今考えてもすごい作品になっています。

今回のホロスコープで語る人物は、略歴くらいそらんじているよ!と言えるくらい好きな方がたくさんいる近藤勇&土方歳三です。

「温厚な人物で、けっして無鉄砲に乱暴を働くような男ではなかった」

役人時代の渋沢栄一に言わせた局長の近藤勇。1834年11月09日(天保5年10月9日)武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市)生まれ。農民・宮川久次郎の三男であり、幼名は勝五郎。宮川家は現在三鷹市にある龍源寺の檀家で、中流クラスの上層の家庭環境だったようです。

「水滸伝」や「三国志」といった武勇伝を好み、穏やかな環境で育った勝五郎少年は、14歳で入門する天然理心流剣術道場・試衛館の近藤周斎から、一年後に養子に臨まれ、そこから道場を任される立場へと成長してゆきます。徳川幕府に対する愛着や、武家に対しての憧れは人一倍強かったと伝えられる近藤勇のホロスコープですが、12時設定ですので精密度はさがります。

第1室 本人の部屋 水瓶座 天王星(水瓶座22°) 月(水瓶座26°)

第2室 金銭所有の部屋 魚座 冥王星(牡羊座12°)

第3室 幼年期の部屋 牡羊座

第4室 家庭の部屋 牡牛座 木星(双子座9°)

第5室 喜びの部屋 双子座 node(双子座18°)

第6室 健康勤務の部屋 蟹座 火星(蟹座20°)

第7室 契約の部屋 獅子座

第8室 生と死の部屋 乙女座 土星(天秤座17°)

第9室 精神の部屋 天秤座 太陽(蠍座16°)

第10室 社会の部屋 蠍座 水星(射手座8°)

第11室 友人希望の部屋 射手座 金星(射手座28°)

第12室 障害溶解の部屋 山羊座 海王星(山羊座28°)

蠍座の太陽なので保守的。だけどどこかロマンチスト。

水瓶座の天王星と月(魚座の可能性もあり)。この水瓶座の天王星は、双子座のnode天秤座の土星と、風の調和をもたらすので、どこか個性的で平凡な生き方では収まらないだけでなく、自分の意志や気持ちとは別に事態が進みやすい面もありそうです。

2ハウスの冥王星、4ハウスの木星は彼の育つ環境の安定さを見せ、水星と金星が開放的な射手座なので、習い事や学問好きで人から好かれる面を。

6ハウスの火星は、実直に目指したことを進めてゆくけれど、山羊座の海王星と差し向うので、状況によって本人の努力が現実とかみ合いにくいことを暗示しているような感じもあります。

実際、子ども時代の近藤は、武家ではなく農家だけど生活には大きく困らず、父親に可愛がられ、弟子入り先の道場(試衛館)では、養子にほしいと望まれるほどで、どちらかと言えば環境は穏やか。

諸事情で状況が変わりやすい運勢は、徳川家に役立つ&一旗揚げたい野心もあって、14代将軍・徳川家茂の上洛警護をするための浪士組織「浪士組」に参加してから始まったのかもしれません。ざっとした年表ですが、

1849年(嘉永2年) 天然理心流剣術道場・試衛館に入門。

1856年から(安政3年) 嶋崎勇と名乗る。

1860年(安政7年) 清水徳川家家臣・松井八十五郎の長女・松井つねと結婚。

1861年(万延2年) 近藤勇と名乗る。

1863年(文久3年) 将軍警護のための浪士組に参加。都へ向かう。

清川八郎が反旗を翻したため、京都に残留を決意。

芹沢鴨・近藤勇・土方歳三たちの22名。壬生浪士組を結成。

八月十八の政変。御所の警備に出動。

芹沢一派を暗殺。近藤勇主導の新体制が構築される。

1864年(元治元年)池田屋事件。京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士のテロ計画を知り、新選組が襲撃。ここで知名度を上げる。 禁門の変。反乱を起こした長州藩士の鎮圧に出動。

1865年(慶応元年) 隊士募集のため、江戸へ向かう。伊東甲子太郎たちが合流。近藤は会津藩を通じて訊問使への同行を願い出て許可され、広島から山口方面に出張している。

1866年(慶応2年)幕府は長州藩に対する処分を決定。近藤は伊東を介して岩国藩士・塩谷鼎助との会談を求めるが拒否された。後に近藤の妾宅に伊東甲子太郎と篠原泰之進が訪れ、時局を論じたが平行線。

1867年(慶応3年) 伊東らは新選組から分離し御陵衛士(高台寺党)となる。新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となる。近藤は征長論を主張。永井尚志の紹介で土佐藩の参政である後藤象二郎を紹介され、岡山藩家老の日置帯刀とも会い、長州征伐について会談。油小路の変で高台寺党を粛清後、墨染で残党に狙撃され重傷。

1868年(慶応4年) 鳥羽・伏見の戦いでは、隊を率いることができずに大坂城で療養。甲陽鎮撫隊を結成するが甲州勝沼で敗走、千葉県流山へ逃れるが 新政府軍に包囲され投降する。土方とここで別れる。

5月17日(慶応4年04月25日) 中山道板橋宿近くの板橋刑場で斬首。享年35(満33歳没)。

04月08日 京都の三条河原で梟首(さらしくび)にされ、その後の首の行方は不明なまま。 以上が略歴です。

道場試衛館を畳む決意をした近藤は、生まれて間もない子どもと妻を江戸に残し、土方歳三・井上源三郎・沖田総司(天然理心流)・山南敬助(仙台藩北辰一刀流)・藤堂平助(北辰一刀流)・永倉新八(神道無念流剣術&心形刀流剣術)原田左之助(種田流槍術)と共に京都に旅立ちます。(斎藤一に関しては、試衛館に出入りしていた説と京都で合流説とあるので、試衛館メンバーからは外しました)しかし、京都に着くと、それまで浪士組をまとめていた清川八郎の裏切りに合います。

芹沢鴨とその一派という水戸藩のグループに悩みつつ、近藤と試衛館の面々は彼らと手を組むことで京都に残る道を選びました。

当時京都守護職の任に着いていた会津藩をスポンサーとして、浪士組を結成してゆきます。これが新選組の黎明で、八月十八一の変以降、池田屋事変や禁門の変など、勤皇側の志士たちの粛清をしてゆくことで、新選組は京都で名をはせ、佐幕派の勢力巻き返しを助成します。186年(文久3年)発足して廃止が1869年(明治2年)。

当時24名でスタート。最大時が230名という記録がありますが、時代の勢いと、芹沢一派の暗殺から始まったこともあるのか、黎明期から慶応3年までの間に、試衛館時代からの仲間であった山南啓助や藤堂平助(北辰一刀流)をはじめ、内部テロもかなり起こしてゆくことになります。

近藤を取り巻く人々

近藤は大の刀マニアで長曽祢虎徹が有名ですが、これには諸説あることも含め、最上大業物と呼ぶのは、陸奥大掾三善長道と思います。何故ならそれは池田屋事変の恩賞として、京都守護職会津藩主・松平容保から、褒美として譲られた刀だからです。

近藤をはじめ、土方。永倉新八、斎藤一にとっては、影響力のある存在が松平容保。

明治時代に入り、陸軍総裁から日光東照宮の宮司となった容保ですが、京都守護職時代は病身を押して公務に携わっていました。孝明天皇をはじめ徳川家茂の信任が厚く、容保の回復を孝明天皇は心から願っていたようです。

京都市内にいる勤皇浪士の捕縛・粛清だけでなく、近藤には長州視察なども命じたり、容保が近藤を信頼していたことはうかがえます。そして容保との接点から、近藤は幕末期の様々な人物にも会う機会がありました。山之内容堂が信頼する土佐藩参政の後藤象二郎。岡山藩家老の日置帯刀などと、もっと親密になれていれば、非業の死はなかったかもしれません。

江戸に妻子を残した近藤ですが、奥さんは837年10月9日(天保8年9月10日)生まれのつね。三卿・清水徳川家の家臣松井八十五郎の長女と見合いで結ばれています。

「美人は貞淑を欠くのが世の常である。しかし、醜女は自分が人並みでないことを知っているから、真心を持って夫に仕え、常に控えめで居るものだ。自分が殊更に醜女を選んだのは、この婦徳ある女性を得たいと願ったからだ」であると、事実ならひどい話が、彼の結婚の理由になっていますが…。つねの写真を見る限り、普通の範囲の女性で、いうほどひどい醜女ではありません。(ここ、個人差もあるので何ともですが)当時のことですから、もしかして彼女は身長が高めで行き遅れたのもあり? 武家に憧れていた近藤です。彼女が三卿・清水徳川家の血筋であり、才女だったから、選んだという方が自然に見えてきます。

そして新選組が軌道に乗り始めたころ、彼は深雪太夫という一人の遊女を請出して、別宅を構えます。太夫とは遊女の中でも教養や芸事にも通じるハイトップ。

単身赴任先で別の女性と別宅を持っても、この時代は違法ではないので、恋愛模様も結婚観も今の時代とだいぶ違いますからいいのですが、約一年後、深雪太夫は病死。

代わりに妹の御幸太夫を身請けているのが不思議(姉妹揃ってめちゃ美人だったと思います)。彼女は病身となった沖田総司の世話をしたり、近藤の娘を産んだりしています。

他にも長州の志士たちが根城にしていた花街の芸妓が、近藤と恋仲になったという逸話もあり、人に好かれやすい、惚れっぽいというのも金星効果かもしれません。

一時期は廓街で浮名も流した近藤ですが、慶応3年の後半、分派した高台寺党の伊東甲子太郎たちを惨殺した後、生き延びた残党に撃たれて深手を負ってしまいます。

これによって近藤勇は 鳥羽伏見の戦いには直接参戦できず、郷里の多摩時代から一緒だった井上源三郎の戦死をはじめ、新選組は数多くの犠牲を出しました。

大政奉還の声を聴きながら新政府軍から追われる身となった新選組は、船で江戸へ戻り甲陽鎮撫隊と名を変え、甲州山梨での戦に向かいます。

この時の近藤は大久保大和と名乗りますが、甲州勝沼では新政府軍の新型兵器の前に敗走。千葉県流山(かなりの広範囲の移動ですよね)まで逃れますが、ここで新政府軍に包囲されて近藤自身は投降し、土方は旧幕軍に加わり、五稜郭戦に至る道がはじまります。

政府軍側に捕縛された近藤ですが、大久保大和=近藤勇と知る者がいたため、薩摩藩と土佐藩との間でその処遇を巡り対立が起きました。近藤自身は降伏しているので穏便にという意向をもつ薩摩藩を、坂本龍馬の暗殺が新選組の仕業と思い込んでいた土佐藩の谷干城が押し切りる形で、斬首が決まります。

刑が決まる際、近藤は命乞いと切腹を願い出たとされていますが、一緒に捕縛された相馬主計(そうまともの)と野村利三郎(のむらりさぶろう)の命乞いをしたのが真相で、この二人は助かっています。そして出生が武士ではないという事から、本人の願う切腹は認められず、罪人としてとても残念な処刑で落命します。享年35歳。

首は京都の三条河原で3日間ほどさらされていたそうですが、その行方は分からなくなったままです。新選組に恨みを抱く者の仕業とも、近藤勇を慕うものが密かに持ち出し、手厚く葬ったとも言われていますが、自分の意志は関係なく、大きく変動した時代の波と本人が持つ変動運と、彼の首の行方不明に関しては、12ハウスの海王星も影響あるのかもしれません。どちらにせよ、時代の代わりに起きた悲劇の一つです。

バラガキから鬼副長。そして名軍師となった。そして難を逃れた土方ですが、新選組どうのというよりも彼個人の人気はすごいもので龍馬と双璧をなす幕末史のスーパーヒーローと言っていいと思います。

これを書いている間に「燃えよ剣」のリメーク情報にビックリ。俳優さんはもちろん、演出も脚本も今時だと思うので、かつてのテレビ時代劇「燃えよ剣」を越せるかどうかはわかりませんが、ファンにはうれしいお知らせですね。

1835年(天保6年)05月31日。武蔵国多摩郡石田村(現:東京都日野市石田)に農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に10人兄弟の末っ子として生まれます。「石田散薬」という家伝薬を副業とする旧家で、地域ではかなり裕福な家でした。

6人兄弟ともされる説がありますが、亡くなっている兄弟も含むと、歳三は末っ子なので10人目になります。父親は出生前に亡くなり、母親も彼がまだ幼い頃に亡くなり、次男夫婦が親代わりに育てたようですが、ものすごく活発で「バラガキ」(触ると痛いイバラのような乱暴な少年)とあだ名がつくほど、気性が強く武道も好きで頭も切れる子供だったようです。

元が薬売りの家でもあるので、計算やモノを図ることなども身に着けたのでしょう。そんな彼のホロスコープです。

1835年5月31日(天保6年5月5日)

1ハウス 本人の部屋 乙女座

2ハウス 金銭所有の部屋 天秤座 土星(天秤座16°)

3ハウス 幼年期の部屋 蠍座

4ハウス 家庭の部屋 射手座

5ハウス 嗜好の部屋 山羊座 海王星(水瓶座3°) 6ハウス 健康勤務の部屋 水瓶座 天王星(魚座0°)

7ハウス 契約の部屋 魚座

8ハウス 生と死の部屋 牡羊座 冥王星(牡羊座14°)金星(牡牛座5°)

9ハウス 精神の部屋 牡牛座 太陽・node(双子座8°)

10ハウス 社会の部屋 双子座 木星(双子座20°)水星(双子座24°)

11ハウス 友人希望の部屋 蟹座 月(蟹座18°)火星(獅子座14°)

12ハウス 障害・溶解の部屋 獅子座

見事に星が上の方に固まっていますが、ふたご座の太陽・nodeに、天秤座の土星とみずがめ座の海王星を観ていると、人気出るのも無理ないし、結構オシャレさん。

実際彼は松屋に奉公に出たり(対人トラブルですぐやめてますが)、実家の薬売りを手伝って行商したし、双子座には木星水星の成功コンビもあるので、秘密の恋もうまい。

近藤をはじめ多くの隊士が新選組全盛期、女性を囲った話がありますが、土方に関しては表立ったことが見つからずのまま。

5ハウスにミステリアスな海王星。8ハウスに冥王星と金星というのもどこか意味深です。

好相性は星でも言えちゃう

結婚するカップルはそれなりの星を持つし、仲間になるのも意味があるとばかりに、1ハウスの近藤の月。天王星と土方の天王星コンジャンクション。2ハウスの冥王星。4ハウスの近藤の木星と、土方の太陽。近藤のnodeと土方の木星と水星。6ハウス蟹座18°にある土方の月(蟹座の月であることは確定)と、火星20°。8ハウスの土星同士。12ハウスの海王星同士と、割とコンジャンクション多いんです。

しかもホロスコープの下半分に、集中しているので、幼馴染どうして同じ学問や仕事をしてゆくのがなんとなく伝わるし、近藤の派手さはないけれど、手堅い運勢を土方の器用さで補うような面もうかがえます。

実際、新選組が活動する中で、トップである近藤は日向に。土方は自分から汚れ役を引き受ける形で、内部をまとめています。実際、新選組は対外的な粛清よりも、組織内の規律違反者の処刑の方が多かったというはなしもあるくらい、内部規律が厳格でした。

よく総長となった山南との不仲がドラマ化されたりしますが、よくよく資料や土方の俳句(彼の趣味は俳句です!)から、実はそうではなかったことも考えられています。

ドラマと現実が違っている。はままあることなので、できればこの二人が仲の良い新選組を描いてほしいですね。

写真を見るとかなりのイケメンです、それだけでもファンは着くけれど、なにより土方の良さは、トップの近藤に責任をかぶせることなく、新選組内部のドロドロした内情は、「鬼副長」の自分にかぶせていた所や、近藤を離れてから五稜郭戦で戦死するまでの実行力だと思います。そんな土方の略歴ですが、

1840年(天保11年)母・恵津が結核で病死(歳三 6歳)以降、姉に面倒を見てもらう。

1845年(弘化2年) 江戸上野の「いとう松坂屋呉服店」(現:松坂屋上野店)に奉公に行く。

1859年(安政6年) 天然理心流に正式入門。この道場で近藤勇と出会ったとされる。

1863年(文久3年) 浪士組、京都残留派と江戸帰還派に分裂後、消滅。新選組時代は近藤と被るので割愛。

1868年(慶応4年)近藤と別れた後、土方歳三、旧幕府陸軍に加わる。勝海舟に近藤の助命嘆願を進めつつ、残った新選組を山口二郎(斎藤一)に託し会津へ向かわせる。自らは数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流。近藤勇、板橋刑場で処刑される。

1868年(明治元年)10月26日旧幕府軍、箱館・五稜郭へ入城する。

1869年6月20日(明治2年5月11日) 一本木関門(現・函館市若松町)付近で土方歳三戦死。一週間後、旧幕府軍降伏、戊辰戦争終結。

鬼副長から慈愛の戦士へ

新選組が下総流山で壊滅状態になり、近藤とたもとを分かった土方は部下を率いつつ転戦して北上。嘆願もむなしく、近藤の処刑、沖田総司の病死。上野彰義隊に参戦した原田左之助の戦士など、仲間の非業も続きました。

総崩れのようになる幕軍を支えるように、土方は指揮官としての才能を遺憾なく発揮しました。鳥羽伏見の戦いの段階で、刀の時代の終わりを感じた土方は、洋式の戦術や戦闘にも関心を持ち、学んでいた感じもあります。新情報を速攻ゲット。それを自分の喪にするのが得意なのは、双子座の性質ですね。そして土星と冥王星の対もあるので、地道に強いものは持っています。

この時期はかつての鬼副長ではなく仲間思いの面も見せていたし、元々頭の回転が速い人なので軍師としても力量を発揮。近藤という表を支える必要がないので、彼本来ののびのびとした風性質が発揮されています。古参の新選組隊士だけでなく、周囲の人望も集めましたが、激戦の中で足を負傷してしまいます。

容保の勧めで傷を治すため会津へと入った土方は、出陣前の白虎隊にも会い、三ヶ月の療養中に近藤勇の墓を天寧寺に建てたといわれていますが、会津藩が降伏間近になる頃、斎藤一と別れて残った幕臣たちと北へ移動してゆきます。会津藩に恩義を感じる斎藤は、この地に残ることを決意したのでした。

こうして試衛館時代の仲間と完全に別れた土方は、榎本武揚・大鳥圭介たちと共に仙台に向かい宮古湾から船で当時の蝦夷地。現在の函館を目指します。

そして函館五稜郭に入って以降は、松前城を陸から攻めて陥落させた後、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立。土方はここで陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねています。

1869年(明治2年)宮古湾で果敢なアボルダージュ=接舷攻撃(接近戦)を行う彼は、軍師としても才能を発揮。敵も認める戦い方で押した土方ですが、全体的には形成不利になり敗戦しています。

そして1869年(明治2年)新政府軍による箱館総攻撃が開始。その背後では、黒田清隆の勧めにより降伏する話も進んでいたとされています。その話に首を縦に振ることなく、敵軍に包囲されて孤立した仲間のため、僅かな兵を率いて救出に向かった土方は、一本木関門を守備し、馬上で指揮を執る乱戦の中、銃弾が腹部に命中し落馬。

部下が急いで駆けつけた時には既に絶命していたというのが、今日語られている土方の最後です。敵軍の発砲説。新政府軍への投降に、土方が首を縦に振らないために、内部による暗殺という説もあります。そして遺体は他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたのか、違う場所に安置されたのか、はっきりせず未だに場所の特定されてはいませんが、1869年6月20日(明治2年5月11日)享年35歳。

亡くなった年齢が近藤勇と同じ。遺体の行方不明も同じというのも妙ですが、これも運勢のなせる業なのでしょうか。

近藤と土方の違いがあるとすれば、土方の方がより対外的で新しいことをどんどん取り入れ、状況に合わせ自分を変化させられるところ。まさに柔軟宮という感じがしますが、新政府に認められて軍人になっていったらものすごい戦績を残していたと思われます。そう思うと本当にもったいない。

いずれにしてもここ一番の変わり目で、近藤も土方も時代に飲まれてゆく方向にかじを切る星周りでもあったと思います。

お話/緑川連理先生

元記事で読む