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千葉雅也が選ぶ「宮台真司の3冊」 強く生きる弱者ーー宮台社会学について

  • 2021.6.2
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千葉雅也(c)新潮社

社会学者・宮台真司がリアルサウンド映画部にて連載中の『宮台真司の月刊映画時評』などに掲載した映画評に大幅な加筆・再構成を行い、書籍化した映画批評集『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』が、リアルサウンド運営元のblueprintより刊行中だ。同書では、『寝ても覚めても』、『万引き家族』、『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』、Netflixオリジナルシリーズ『呪怨・呪いの家』など、2011年から2020年に公開・配信された作品を中心に取り上げながら、コロナ禍における「社会の自明性の崩壊」を見通す評論集となっている。

今回、リアルサウンドでは同書の刊行を記念し、識者・著名人が宮台の批評との出会いを語るシリーズを企画。自身に大きな影響を与えた3冊を挙げてもらった。第2回は、哲学者・小説家の千葉雅也による、「弱者の強者性」を説く宮台社会学から学んだことについて。

●千葉雅也が選ぶ「宮台真司の3冊」
・『終わりなき日常を生きろーーオウム完全克服マニュアル』(1995年 筑摩書房)
・『制服少女たちの選択』(1994年 講談社)
・『サブカルチャー神話解体』(1993年 PARCO出版)

宮台真司的なもの、遠くなりにけり、か。と最近よく思う。

というのは逆に、あの頃の宮台社会学を今、思い出す必要があるということだ。宮台社会学とは、一種のニーチェ主義だった。宮台社会学は、社会の有り様を記述するだけでなく、生き方の規範性を含むものだった。それは、強く生きることを肯定し、弱者のルサンチマンを批判する。この強/弱のレトリックが今ではもううまく理解されないと思うのだが、ニーチェ的な意味において強く生きることを肯定するというのは、「勝ち組」の側に立って平然としていることではない。重要なのは、「弱者の強者性」を言うことなのだ。弱者が強者である? 矛盾に聞こえるだろうか?

立場が弱い者の生き方は、必ずしも受動的に「やむをえず」その生き方に追いやられているだけではない。弱者の側には、特有の自治の空間がある。そこには特有の喜怒哀楽があり、ドラマがあり、生きがいがあり、そこにはやむをえずの面もあるが、やむをえずだけではない自律性があるのだ。この「やむをえずだけではない」という微妙なニュアンスをどこまでも大事にすることが、マイノリティ・ポリティクスの核心であると僕は考えており、宮台社会学にはそのまなざしがある。

弱者は、強者との非対称な関係において望ましくない生き方を強いられているのだというかたちで弱者の困難に「思いやり」を向けることは、弱者の味方をしているというより、弱者をいっそう「弱者化」して支配しようとする形式ではないのか?

宮台社会学における「強く生きる弱者」の最初の姿、それはブルセラショップを利用し援助交際をする女子高生だった。『制服少女たちの選択』は一九九四年の本で、僕はリアルタイムでは読んでいない。当時僕は高校一年だった。宇都宮という地方都市で生まれ育ち、高校は男子校だったのもあって、援交女子高生なるものにリアリティはなかった。渋谷あたりのその空気を実際に感じるのは九七年に上京してからである。

ただの取引としての、愛なき性関係。というのは、女性の場合どう体験されうるものなのか僕には想像が及ばないが、それに似たことが男同士の関係にある。男性同性愛では、ほとんどスポーツのようなものとしての遊戯的な性関係が普通で、それは代価なしに行われる。互いに快楽を贈与し合う遊戯的な性である。その現場は、異性愛者が形成している街の表面からは見えないところにある。飲み屋街の雑居ビルや、何の変哲もないマンションの一隅にその異空間が潜んでおり、そしてまさに制服少女たちが街に繰り出していた90年代半ばには、インターネットの掲示板やチャットがそうした贈与関係にうってつけの場として利用され始めていたのだった。

1995年、高校二年のときに、自室のMacintosh Powerbookがインターネットに接続され、ゲイサイトというものの存在を知ることになる。深夜にアクセスするインターネットは、僕にとってはヴァーチャルな東京だった。ゲイサイトのチャットでは性的な会話も交わされていた。それはヴァーチャルな言葉遊びでしかないが、田舎の「制服少年」だった僕はその深夜のやりとりにおいて、テレクラで待機する制服少女のようなものになっていた、のかもしれない。宮台用語に「第四空間」というものがある。17歳の僕にとってネットはまさに第四空間だった。

「まったり革命」、「終わりなき日常」というフレーズは一世を風靡した。それは「内在」を生きることを言うものだった。弛緩した生き方なのではない。今日の思想を持ち出すなら、終わりなき日常をまったり生きるというのは、カンタン・メイヤスーが論じるところの世界の根本的な偶然性、根本的な「理由なし」に耐えることに当たるとも言える。この世界はたまたま、偶然的にこのように存在しているだけなのであり、究極の理由はない。いわゆる「大きな物語」の追求を、あるいは「超越」の追求を諦めるわけだが、逆説的に、内在にこそさらに高度な意味での超越があるのだ。それは、根本的な偶然性への透徹した感性を持ち、それを受動的なニヒリズムにせずに強く喜ばしく生き抜くことであり、いわば「内在的超越」である。

僕は、男性同性愛の隠された遊戯的性を制服少女の冒険にいくらか重ねつつ、一貫して「弱者の強者性」を言い続けるというスタンスをとっている。90年代の宮台イズムを僕は一度も手放していない。

だが時代は変わった。今や、ニーチェ主義に対する反論が四方八方から押し寄せてくる時代である。90年代に危うい生の様態を試していた者たちも次々に「反省」を言い始めた。「やむをえず」の生き方に弱者を追いやる社会構造の批判が優先され、「実は苦しかった、つらかった」という言説が増えていく。確かに、抑圧されていた苦悩を語ることは必要だ。しかし、かといって、すべてをネガティヴに塗りつぶしてしまう必要はないのではないか。そもそも、純粋100%の悲しみも喜びもない。原理的に言えば、あらゆる知覚は「刺激」なのであって、すべての経験は苦痛だとも言えるし、それがマゾヒズム的にねじれて快楽となるのである(これは精神分析的な考え方だ)。

許容できる経験とできない経験を分かつ線はケースバイケースであり、同じ人においても一定ではないし、一定にすべきなのでもない。人生とは、否定と肯定、苦痛と快楽が混じり合い、その混じり合い方が変化していく複雑な物語であり、そのような複雑さを生きることが「強さ」だと言われるべきである。個々人で異なる複雑さを生きる。だが今日では、個の物語を担うのではなく、何か普遍的と見える基準に頼って善悪を単純に分割し、「個という複雑さ」から目を逸らすような傾向が強まっているのではないか。

個として生きる。それは否定と肯定のあるバランスを孤独に引き受ける勇気を持つことだ。宮台社会学はその勇気を励ましてくれるのである。(千葉雅也)

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