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世界が認めるファーストジャパニーズ ジョン万次郎

  • 2021.4.26
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大黒柱である父を失った少年は、家族を支えるために漁師の元で働きます。

足摺岬の沖合で操業中にシケに遭い、仲間と共に何日も漂流した末、無人島に流れ着いて被災生活を続けました。 たまたま寄港したアメリカの捕鯨船に助けられた少年は、自らの意志でアメリカに渡ります。異国の地で多くの事を学び、クジラを求めて七つの海を渡る漁師へと成長した後、黒船来航直前の日本に帰国したジョン万次郎。

海外と向き合う日本のために、自分が覚えた英語の通訳・航海術・造船技術のすべてを、講師となって惜しみなく伝えてゆきます。大河ドラマとならないのが、おかしいくらいに数奇な運命と冒険の人生を持つジョン万次郎を、今回は取り上げました。

どのような星を持って生まれてきたのか、ホロスコープ&略歴をみてみましょう。

1827年1月27日(文政10年1月1日)

現在の高知県土佐清水市中浜

太陽星座 ♒ 6°28

月星座 ♒ 2°33

ハウスは太陽星座の♒を1室として、30度ずつ12分割のイコールハウス。東半球に星が集中し、対角に一つ星があることから、バケットタイプのホロスコープであり、自らの意志で人生を切り開く力の強い人であることを示しています。 第6室の♋♄と第11室の♐の♀が、運勢を支える柱であり、♀は第2室の♓♂と、第3室の♈♇とスクエアを形成。♂と♇は、♄とも90度を形成し、大きな困難と向き合うにふさわしい、彼の人生を示しているようです。

本人の核である☀は、♒の6度。誕生時間不明なので正午の☽。♒の2度なので、 朝方生まれなら♑。♅とのコンジャンクションもその分タイト。 いずれにしても新月生まれの人です。未来志向型であり、どこかエキセントリックになりがちな♒の新月ですが、第12室障害溶解の部屋にある♑の♅と合。♑には言語と技術を司る☿。芸術とインスピレーション・神秘性を司り、海に関わる♆。改革革新の♅が三連コンボならぬ、コンジャンクション。

第1室と第12室にある星々の塊が、数奇な運命を抱いた彼の人生を暗示するような気もします。 ☀は第3室の♇とセクスタイル。9室♎の♃とトリン。世代の星でもある♇は、時代を支える力を彼の☀に送り込み、同じく風属性の♃は、海外や長期旅行への後押し、また彼の寛大で道徳的な性格に+効果を発揮したのでしょう。このホロスコープが、彼の人生をどこまで彩っているのかは、年表と照らし合わせてみてください。

尚、本編は彼の事をジョン・万次郎、もしくは万次郎と表記致します。

ジョン万次郎 年表

(ウィキ、その他資料を参考に作成)

1827年1月27日 (文政10年1月1日) 土佐藩の中ノ浜村の半農半漁の悦介(えつすけ)と汐(しお)夫妻の次男として生まれる。(現在の高知県土佐清水市中浜)

1836年(天保7年)父死亡。母と兄が病弱なため、家計を助けるため9歳で働く。

1841年1月(天保12年) 足摺岬沖で鯵鯖漁に出航する漁船に乗り込むが、シケで遭難。伊豆諸島沖の鳥島に漂着し、143日後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウハンド号に救出される。

1842年 (天保13年) 船が寄港したホノルルで、他の乗組員は下船し、万次郎はアメリカに向かう事を決意。船名にちなんだ「ジョン・マン (John Mung)」の愛称が付く。

1843年5月7日(天保14年)マサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港。船長ウィリアム・ホイットフィールドの養子となり、アメリカでの教育を受け始める。

1844年(弘化元年)フェアヘーブンのバートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術を学び主席を取る。

1846年(弘化3年)近代捕鯨の捕鯨船員として働く。

1849年(嘉永2年)ゴールドラッシュに沸くアメリカで、日本へ帰る資金を稼ぐ。

1850年 (嘉永3年)日本に戻るためホノルル戻る。

1851年(嘉永4年)琉球に上陸後、薩摩藩主島津斉彬から直々の取り調べを受ける。

1852年(嘉永5年)故郷の土佐藩に戻る。取り調べ後、11年10ヶ月ぶりに母親と再会。高知城下の教授館に出仕。後藤象二郎、岩崎弥太郎等を直接指導する。

1853年 (嘉永6年)幕府から直参旗本を命じられ中浜の姓を授かる。

1854年(安政元年)幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。

1860年 (万延元年)遣米使節として勝海舟・福沢諭吉と共に、アメリカに渡る。

1866年 (慶応2年)土佐藩主の命により、後藤象二郎と共に開成館を開校。教授となる。

1868年(明治元年)土佐藩から江戸深川砂村の屋敷を賜る(明治13年まで家族と住む)1869年 (明治2年)明治政府より開成高校(現東大)の英語教師に任命される。

1870年 (明治3年)普仏戦争視察団に同行。ニューヨークに寄港した際、フェアヘーブンに赴き、ウィリアム・ホイットフィールドと再会を果たす。

1871年(明治4年)ロンドンからの帰国後、軽い脳溢血で倒れる。程なく全快するが、その後は静かに暮らす。

1898年(明治31年)71歳で死去。

1928年(昭和3年)正五位を追贈される。

☿年齢域に動き出す流転の歯車1834年から1842年

略歴を追いかけるだけでも、波乱万丈な人生ですが、ジョン万次郎は、南国土佐の貧しい半農半漁の家に、次男として生を受けました。 ☽が司る幼年期(0~7歳)の詳しい経緯はわかりませんが、寺子屋に通う余裕すらない環境だったのです。☿年齢域に入った9歳の頃、父を失った万次郎は、病弱な母と兄を支えて働き、幼いながらも家計を助けていました。

好奇心が旺盛で明るい少年は、10歳で漁師の家に下働きに出ます。数年の歳月が過ぎ、14歳の誕生日を迎えた万次郎は、仲間と共に漁船に乗り込みました。 船頭の筆之丞(38歳)に、漁撈係の重助(筆之丞の弟・25歳)と、櫓係を務める五右衛門(筆之丞の弟・16歳)そして櫓係の寅右衛門(26歳)に、炊係の万次郎の計5人は、足摺岬で漁をするために出港したのです。

突然の強風に煽られ、航行不能となった船は、5日とも10日とも、資料によってずれがあるものの数日、海を漂流した末、伊豆諸島にある無人の鳥島(現在は天然記念物であるアホウドリの生息地)に流れ着きます。 わずかな溜め水と海藻。海鳥を食べながら、鳥島でのサバイバル生活は、漁に出港した1841年1月27日(万次郎14歳の誕生日の早朝)から、アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が、食料としての海亀を確保するため、鳥島へ立ち寄った1841年6月27日(同年5月9日)まで続きました。

この日、上陸した乗組員たちは5人の遭難者を発見したのです。 143日間のサバイバルの幕は閉じるものの、別の問題が5人に降りかかりました。 当時の日本は鎖国をしていた為、交易をする国。そして国内で対応する地域を限定していたのです。下手な戻り方をすれば5人は死罪になる可能性も高く、船長ウィリアム・ホイットフィールド率いる捕鯨船は、1841年11月20日。ハワイのホノルルに寄港しました。 船長と宣教師の計らいで、救助された5名のうち、4名は下船を選びましたが、残る一人万次郎は、別の道を選択します。

助けてもらった船の中で、初めて見る世界地図。知らない国の言葉、観たこともない船の装備。ありとあらゆるものが、好奇心旺盛な若者を魅了したのでしょう。 賢くて働き者の万次郎を、船長のウィリアムが気に入ったこともありますが、自らの意志で、ジョン・ハウランド号に乗り込み、働きながらアメリカを目指すことを望んだのでした。

因みに寅右衛門はホノルルに移住。筆之丞(伝蔵と改名)と五右衛門は、のち万次郎と共に帰国を果たしますが、重助は故郷の土を踏むことなく、数年後に病死しています。

♀年齢域はアメリカでの生活と帰国 1842年から1852年

船員として働くことを選んだ少年は、船の名にちなんだ名前ジョン・マン (John Mung)を与えられ、アメリカ人たちに混ざって働き始めました。クジラを追いながら、ギルバート諸島やグアムの海域を巡り、鳥島から三陸沖。タヒチ・フィージィーからグアムを回ります。捕鯨航海を終えたジョン・ハウランド号は、航海の難所であるホーン岬を越えて、大西洋へ出ると南米沖を進み、北米大陸へと近づいていきます。

1843年5月7日。マサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港。初めてアメリカの土を踏んだ初めての日本人ジョン万次郎は、この時♀年齢域に入って約1年目の16歳。 船長は万次郎をホイットフィールド家の養子に迎え入れるだけでなく、勉強の機会を与えてくれました。最初は小学生の中に混ざって英語を学びますが、1844年(弘化元年)には、フェアヘーブンのバートレット・アカデミーに通いました。

寝る間を惜しんで勉強をした結果でもありますが、キラキラな金星年齢域万次郎は、学びの楽しさを覚えて、すごい勢いで知識を吸収したのでしょう。英語以外に数学と測量。航海術に造船技術を学び、アカデミーでは首席を取っています。勤勉で礼儀正しい万次郎ですが、手ひどい人種差別も経験しました。 ホイットフィールド家が長年通っていた教会は、有色人種である万次郎の立ち入りを拒絶したのです。このため家族は別の教会へと移ることになりました。

学校を卒業すると、初めは陸で働きますが、捕鯨船フランクリン号に船員の世話係として、乗船することを決めます。 航海中に船長交代の必要が生じてしまい、元々の船長はマニラで下船。船員達の投票によって、万次郎は副船長に選ばれました。こうして1846年((弘化3年)から数年の間、万次郎は捕鯨船員として、七つの海を渡る生活し、漁の間に立ち寄ったホノルルでは、別れた船友たちにも再会しています。 2度の目の大航海を終えて、ニューベッドフォードに戻った万次郎は、養父ウィリアム・ホイットフィールドと再会した後、サンフランシスコに向かいました。

第2室に♂があり、第6室に♄。♄は♀と対。 さらに第12室に♆☿♅を持つジョン万次郎。パッと働きパッと使う傾向や、立身出世を望むよりも、人の役に立つ仕事や、その仕事に面白味を感じで働く性質が潜んでいます。

この時の万次郎は、仲間と共に「日本に帰る」という明確な目標を持っていました。そのための資金が欲しい時に、全米を熱狂させたゴールドラッシュは、まさにグッとタイミングで、彼は金鉱で金を採掘する仕事を選んだのです。苦労もありましたが、$600の資金を作った万次郎は、ホノルルにいる仲間の元へ向かいました。 小舟「アドベンチャー号」を買い、伝蔵と五右衛門と共に、1850年(嘉永3年)12月17日上海行きの商船サラ・ボイド号に乗り込んだのです。

船出した三人は、1851年(嘉永4年)2月2日琉球へ上陸を果たしました。 漂流から10年の歳月が経っていますが、日本はまだ鎖国中なため、簡単に故郷へ帰ることは難しく、約半年ほど、琉球で取り調べを受けた後、薩摩本土に送られます。 三人の帰国者を迎えた薩摩藩は、彼らを罪人ではなく客賓として扱ったそうで、藩主島津斉彬自ら取り調べを行いました。

西洋技術や文化に理解があった斉彬公は、アメリカに渡った万次郎の経験を聞き、彼の英語・造船知識に注目します。

薩摩藩での取り調べの後、長崎に送られた万次郎たちは、長崎奉行所等でも、長期間尋問を受けました。踏み絵による宗教尋問に、9か月の投獄を受けた万次郎たちは、持ち物を没収された後、ようやく土佐藩の役人に引き取られます。 土佐の土を踏む1852年(嘉永5年)。この年は、万次郎の金星年齢域最後の年であり、太陽年齢域の始まりでもありました。

歴史の転機に迎える太陽年齢域 1852年から1862年

故郷の藩に帰れたものの、すぐに家に帰れることはありません。15代藩主・山内豊信(容堂)と、土佐藩の頭脳吉田東洋による取り調べが続きます。薩摩藩主同様、思考が柔軟な山之内容堂は、彼らを丁重に扱い、万次郎は思想家であり日本画家の河田小龍の家で世話になりました。河田は万次郎と寝食を共にしながら過ごす中で、日本語を教えてゆきますが、万次郎からは英語を教えてもらう間柄になります。

アメリカの話をはじめ、異国の発展ぶりに驚く河田。選挙で国のトップである大統領が国民から選ばれる方法が、あまりに衝撃的で、当初は万次郎の話を疑いさえしたそうです。 それでも聞いたことを、そのままにしておくことがあまりに惜しいと感じた河田は、自分の先入観を入れず、万次郎の話を忠実に再現し、挿絵を加えた「漂巽紀」畧五巻を藩主に献上しました。 取り調べから約2か月後、万次郎たちにようやく帰郷が許されます。

水星年齢域の終わりに漂流し、金星年齢域の終わりに、生まれた家に帰ることができた11年は、神様の計らいでしょうか。 それでも帰国して約1年半。琉球・薩摩に続き、長崎奉行所では取り調べだけでなく、アメリカから持ちかえった物を取り上げられ、投獄という扱いを受けました。 ようやく戻った土佐藩でも、さらに取り調べが続いた末、ようやく家族と再会ができたのです。鎖国政策の重さが、この経緯からも垣間見られますね。

万次郎たちが家に帰れたのが夏頃というので、この年の夏至のホロスコープと、万次郎のホロスコープを重ねると、T☀とN♄はコンジャンクション。N♄とN♀は、オポジションなので、T☀とN♀もオポジションとなり、T♀はN☽もオポジション。 これまでの事柄に終止符が打たれ、再興や再光が当たるとも取れるし、人とのつながりを左右する万次郎の☊(カルマではなく対人運でのみ観ます)は、♏を航行するT♃とコンジャンクションし、T☊は、万次郎のT♄と合。 知識吸収力とアウトプットを支えている♅・☿とT☽といい、人との出会い、再会を観るには、とても興味深い配置になっています。

実際、万次郎の持つ知識と技術を重視した殿様は、土佐藩の最下級の士分、定小者(さだこもの)」に取り立て、藩校「教授館」に出仕を命じました。 ここで英語や造船、航海術等を教えるのですが、後藤象二郎、岩崎弥太郎が生徒として名を連ねています。 同時進行でこの時期、河田小龍の「漂巽紀」畧五巻が幕府から配られた各藩の殿様たちは、むさぼるように読みました。交易をしていたオランダから、近々、開国を求めて、外国船がやってくる事を聞いていた幕府にとっては、万次郎の体験記は、タイムリーな情報だったのです。余談ですが、河田と親しい坂本龍馬も、この本に魅了された一人でした。

1853年(嘉永6年)7月8日ペリー艦隊が浦賀沖に現れます。十二代将軍徳川家重の病気を理由に、アメリカ側に一旦お引き取りを願った幕府は、将軍が死去した後、大名・幕臣に広く意見を求めました。これは時の老中、阿部正弘が企画したもので、呼応して提出されたのが、勝麟太郎の「海防意見書」です。 さらに米国からの書簡を、役人や諸藩にも見せ、積極的に意見を集めつつ、幕臣江川英龍の元、品川沖台場の砲台が建設されました。

大船建造の禁も廃止されますが、既に薩摩藩は、万次郎のアドバイスの元、洋式帆走軍艦昇平丸の造船が始めていたのです。

十三代将軍徳川家定が就任し、暮も押し迫った師走。日本で唯一英語が話せる人材として、万次郎は江戸に呼ばれました。 直参旗本の身分を与えられ、生まれ故郷の地名から「中濱」の苗字と帯刀を許された万次郎は、幕臣江川英龍の元で、英語通訳の役を担うことになったのです。 実際に七つの海を捕鯨船で航海した万次郎は、造船技術と航海技術を積極的に伝授し、人材育成にも努めました。上司の江川は、長崎奉行所に没収された万次郎の持ち物を取り返し、幕府の剣道指南役団野源之進の娘・鉄との婚姻を進め、何かと親身になってくれました。

しかし、いつの世も人の嫉妬はあるものです。オランダ語を介しての通訳の座が、英語が使える者の登場によって、失われると恐れた老中の一人が、万次郎のスパイ疑惑を持ち出しました。 これによってペリー艦隊が再来した時の通訳から、万次郎は降ろされましたが、日米和親条約の平和的締結に向けたアドバイザーとして、舞台裏では助言や進言をしています。

対話だけでなく、アメリカ航海学書の翻訳も命じられ、1857年(安政4年)30歳を迎えた万次郎は、軍艦教授所教授に任命されました。 ここで勝海舟と出会います。世相的には、安政の大獄が起こり、騒乱の次代でもありましたが、万次郎は幕臣として、造船の指揮、測量術、航海術の指導を行う傍ら、英会話書の執筆や、『ボーディッチ航海術書』の翻訳。さらに講演、通訳、英語の教授等、多岐にわたる動きをしています。 大鳥圭介、箕作麟祥などが、万次郎から英語を学びました。

1860年(万延元年)エイブラハム・リンカーンがアメリカ大統領となるこの年、日米修好通商条約批准書を交換するため、「ポーハタン号」の随行艦として、日本側から「咸臨丸」がアメリカへ向かいます。万次郎は通訳と技術指導員として、この海外使節団に加わりました。 船長は勝海舟ですが、航海中船酔いがひどく、彼の代わりにアメリカ海軍指揮官のジョン・ブルックと共に、艦内秩序を保つことに努めたそうです。サンフランシスコに着くと、通訳として働きました。知己となった福沢諭吉とは、日本へ持ち帰るウェブスターの英語辞書を購入しています。

帰路ではハワイに立ち寄り、船長ホイットフィールド同様、恩人である宣教師デーマンと再会しました。日本とアメリカのために働く万次郎の成長を喜んだ宣教師は、ホイットフィールドにあてた手紙に、その様子を書き送っています。 帰国後は、外国奉行水野忠徳に同行して小笠原諸島などの開拓調査を行いました。これは万次郎が、小笠原付近の海域を知っていて、小笠原に住んでいたアメリカ人やイギリス人とも面識があり、通訳も可能なことが選考理由です。

咸臨丸を含む四隻の艦隊で調査は行われ、アメリカ人開拓者ナサニエル・セイヴァリーと再会しています。その後に小笠原諸島近海でアメリカ式捕鯨を実験的に行いました。

必要とされるところに行く。太陽年齢域~火星年齢域 1862~1872

1862年 (文久2年)は、太陽年齢域最後の年であり、火星年齢域の始まりですが、それだけに波乱もあって、妻の鉄が病死してしまい、私生活に影が差します。 豪商がスポンサーとなり、出資した外国船「壹番丸」で、捕鯨を行う許可を幕府に提出した万次郎は、出船許可が降りると、翌年には父島在住の外国人6名を雇い入れて、小笠原諸島近海で捕鯨を行いました。

2頭のマッコウクジラの捕獲に成功します。しかし雇われ外国人のうち2名が強盗未遂を起こし、逮捕する事件が起こってしまいました。良いことも有るけど、波乱もアリ。それも他者から持ち込まれたりする辺りが、闘争の星である火星年齢域らしいともいえます。 江戸に帰航した後、次の捕鯨航海を企図しますが、政情不安の色濃くなってきた時期で、幕府からの許可は降りません。 1864年(元治元年)薩摩藩に赴任となり、開成所の教授の傍ら、翌年に長崎で薩摩藩が船舶5隻購入するための交渉を行いました。

1866年(慶応2年)になると、土佐藩の開成館の新設立にあたり、山之内容堂の要請で帰国。英語、航海術、測量術などを教えます。さらに藩命で、後藤象二郎と共に長崎から上海へ赴き、土佐帆船「夕顔丸」を購入しています。その後は薩摩藩の招きで、航海術や英語を教えますが、1867年(慶応3年)の12月江戸に戻りました。 ♒のもつ博愛精神なのか、特定の藩のためとか、自分の出世のためよりも、日本のために働く意志で、万次郎は動き続けたのです。

1868年(明治元年)土佐藩から江戸深川にある屋敷を賜った翌年、明治政府から開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命されます。ここでじっくりと教授生活を過ごすのかと思いきや、翌年の1870年(明治3年)。普仏戦争視察団として、大山巌(西郷隆盛の従兄弟であり、大山捨松の夫)らと共に、欧州へ派遣されることが決まりました。 8月28日横浜を出港した米外輪船グレート・リパブリック号は、アメリカ経由で欧州を目指します。9月23日にサンフランシスコへ到着すると、鉄道に乗りニューヨークへ。 懐かしいフェアヘーブンに寄り、恩人であり父であるホイットフィールドと再会を果たしました。

鉄火の火星年齢域から、穏やかな♃年齢域。そして終焉へ

11月にようやく英国ロンドンに着きますが、ここで発病したことから英蒸気船ダグラス号でスエズ運河を通って、東回りで帰国します。 帰国後に軽い脳溢血を起こして療養。数か月後には日常生活に不自由しないほど回復するものの、かつてのような活動はせず、万次郎は静かに暮らしました。

この頃、火星年齢域が終わり、♃年齢域に入る年代です。ある意味、人生充実期で、勝海舟や福沢諭吉。その他、時の政治家たちや学者とも親交を深めていた万次郎は、政治家になるよう、多くの人から誘われましたが、万次郎は教育者としての道を選びます。

♃年齢域を越して、♄年齢域の1884年(明治17年)。万次郎との再会を楽しみに来日したデーマン宣教師は、功績を積み上げた彼に、祖国の日本からリスペクトがなく、世間が万次郎の事を忘れていたことを観て、強いショックを受けたようです。 1888年(明治21年)には、小笠原諸島近海で、航海を行なった記録もありますが、♅年齢域に入った1898年(明治31年)。71歳で死去するまで、万次郎は歴史の表舞台から消えました。 日本人初アメリカ上陸だけでなく、ネクタイを初めてつけた日本人であり、蒸気船や汽車に乗った日本人。正式にアメリカの学校に通った初めての日本人。

今も歌い継がれている「ABCの歌」を、日本に紹介したのもジョン万次郎と思うと、確かにもったいない気もしますが、これは生きる喜びの♀と動きを止める♄のオポジションや、♆と☊のセクスタイルも関わっているような気がします。 政界に行かずに良き家庭人として過ごしたからこそ、万次郎の長男は医師となり、その娘中濱絲子(万次郎の孫)は、明治時代の女流歌人として名を馳せたのかもしれません。

寡黙なカルでお馴染みの、第30代大統領カルビン・クーリッジ(1872年7月4日 - 1933年1月5日)は、「万次郎の帰国はアメリカが最初に大使を日本に送ったに等しい」と語りました。日本で万次郎の功績が讃えられたのは1928年(昭和3年)。正五位という位階、神階の一つを授かります。 中浜万次郎の子孫と、アメリカのホイットフィールド船長の子孫は、代々交流を続けていますし、彼の出身地の土佐清水市と、アメリカのニューベッドフォード、フェアヘーブンの両市は、姉妹都市盟約を締結しています。 近代ではアメリカ建国200年を迎えた時、スミソニアン研究所による『海外からの米国訪問者展』の29人の中の一人として、ジョン万次郎は選ばれました。

日本では幾多の小説、幕末史を扱ったドラマ等にも重要人物の一人として登場しています。数奇な星と人生を持つジョン万次郎を、主人公にした作品がさらに生まれ、もっと多くの日本人が作品に触れることで、これまでとは違う視点での幕末・維新を観る事ができると、いいなと思います。

お話/緑川連理先生

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