1. トップ
  2. 『エヴァンゲリオン』を実写パートから考える 旧劇場版と新劇場版の“虚構”と“現実”

『エヴァンゲリオン』を実写パートから考える 旧劇場版と新劇場版の“虚構”と“現実”

  • 2021.3.30
  • 3504 views
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(c)カラー

※本稿は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』と『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』の内容、いわゆるネタバレに触れております。ご了承ください。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開された今、改めて2006年に庵野秀明総監督が書いた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』所信表明を読むと、その志がぶれていないことに驚く。特に目を引くのが「「エヴァンゲリオン」という映像作品は、様々な願いで作られています。(中略)現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい、という願い。」の部分だ。

その前年に刊行された漫画『監督不行届』の解説で庵野は、著者であり自身の妻でもある安野モヨコの作風を「マンガを読んで現実に還る時に読者の中にエネルギーが残るようなマンガ(中略)『エヴァ』で自分が最後までできなかったこと」と評している。

作品という虚構から現実世界に還り、そこで生きていく強さ。

テレビシリーズおよびそれに連なる旧劇場版シリーズと『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズの大きな違いは、ここにあるのでないだろうか。

本稿では『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』と『シン・エヴァンゲリオン劇場版』、この2つの完結編における実写パートを軸に、旧エヴァと新エヴァでの虚構と現実の関係について考えていきたい。

レイ「虚構に逃げて真実をごまかしていたのね」
シンジ「僕ひとりの夢を見ちゃいけないのか」
レイ「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
シンジ 「じゃあ、僕の夢はどこ?」
レイ「それは現実の続き」
シンジ「じゃあ、僕の現実はどこ?」
レイ「それは夢の終わりよ」

『Air/まごころを君に』終盤で、人類補完計画が発動するなか、碇シンジが内的宇宙で綾波レイと交わす会話だ。

レイは、シンジがひとりで見ていた夢は虚構であり、その虚構は「現実の埋め合わせ」、現実では充足できないものの代用品に過ぎないと言い切っている。そして現実はその虚構が終えた先にあると。

会話の背景には第3東京市と思しき風景、街の雑踏、ミサトやアスカ、レイに扮した女性たちの映像が流れる。ここがいわゆる実写パートだ。

さらに「現実の埋め合わせ」の台詞の箇所では先の劇場版を観ていた観客を、「僕の現実はどこ?」の箇所では「エヴァンゲリオン」の感想が書かれたモニタ画面(「庵野、殺す」も含む)を矢継ぎ早に映し、現実と虚構がはっきりと分断された次元にあることを観客に提示した。

実写パートの後、シンジは他者の存在する世界=現実を選択するものの、彼が帰還するのは虚構のなかの現実であり、それも唯一の他者であるアスカに拒絶されるという、虚構と現実の双方を否定するともとれる終わり方だった。事実、前述の『監督不行届』の解説で庵野自身、当時はアニメ漫画ファンや業界内の閉塞感に嫌気が指す反面、自身もオタクであることへの嫌悪から自暴自棄になっていたと記している。

対する『シン・エヴァンゲリオン劇場版』には、『Air/まごころを君に』のような実写のみで構成されたパートはなく、より巧みに入れ込まれている。もっとも印象的な実写の使用パートは、ラストシーンだ。

父・碇ゲンドウの野望を阻止して、エヴァンゲリオンのない世界を創世したシンジは、エヴァの呪いが解かれて成長したレイとカオルにアスカ、そしてマリと駅のホームで再会する。その舞台となる宇部新川駅とその周辺が実写で映し出されるなか、手を取り合って、ホームから階段を駆け上がり、改札を抜けて駅から街へと飛び出すシンジとマリ。2人を俯瞰で撮りながら、カメラは引いていき宇部市の遠景へと変わっていく。

『Air/まごころを君に』で実写パートがアニメ本編に異質な存在として挿入されていたのに対して、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では絵のキャラクターと実写の背景がひとつの画面で共存しているのは象徴的だ。

端的に言ってしまえば『Air/まごころを君に』が提示しているのが虚構か現実の二者択一なのに対して、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では虚構と現実の共存、より踏み込んでいえば虚構と現実の相互作用を信じて、それを実践しているようにも見える。

それは目に映る実際の映像だけでなく、その制作手法からも感じる。

3月22日にNHK総合で放送された『「プロフェッショナル 仕事の流儀」庵野秀明スペシャル』を視聴した方はご存じだろうが、第3村を舞台にしたAパートは、アニメーション制作で通常脚本を基に描かれるはずの画コンテに先行し、セットでの実際の役者の演技をモーションキャプチャしたプリヴィズ(簡易3DCGによる動画コンテのようなもの)を作成した。その理由について庵野は、頭のなかで考える虚構、画コンテを超える画を得るための意を語っている。

また同パートでは、他にも田植えのシーンなどの作画の参照用に実際の動きを動画に収めたり、第3村のミニチュア模型を作成するなどの、現実をベースに虚構を作り上げる手法が導入されている。

こうした入念な制作手法を経たAパートでリアリティを得ているからこそ、その後の現実を超えた虚構ならではの外連味に満ちた映像が活きているといえるだろう。ちなみにシンジを乗せたヴンダーが南極に発進するCパート以降は、画コンテ作成後にプリヴィズ制作という形に戻ったそうだ。そしてそれ以降の旧エヴァ以上に顕著だった、マイナス宇宙やゴルゴダオブジェクトなど『ウルトラマンエース』をはじめとする数々の過去作へのオマージュは、虚構としてのフィクションを創作という現実に昇華させている証明にも見える。

シンジとマリが実景の市街へ駆け出していく『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストは、現実をベースに作り上げた虚構が、最後にまた現実へと帰っていくのと、かつて否定されて断絶された虚構と現実が、肯定され混然一体となっていく様を端的に表している。だからこそ、ただの作品からの卒業ではない、解放感と多幸感に満ちているのだと思う。

(倉田雅弘)

元記事で読む