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『俺の家の話』が残した謎を考える 長瀬智也が演じた寿一とは何者だったのか?

  • 2021.3.30
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『俺の家の話』(c)TBS

まさか本当に『俺の家の話』(TBS系)最終回で主人公の観山寿一(長瀬智也)が死んでしまうとは。第9話の伏線を回収するなら寿一の死エンドとかしか思えず、しかし、そんな悲しい終わり方があるだろうかと、信じたくない気持ちもあった。ドキドキしながら正座待機で迎えた最終回、その予想をさらに超え、寿一はエンディングで死ぬのではなく、いきなり死んでいた。ファーストカットで寿一の大きな体を焼く黒い煙が火葬場の煙突から立ち上っていた。

脚本の宮藤官九郎は、現在のようにドラマで転生ものや入れ替わりものが流行する前から、それに近い現実離れしたストーリーを描いてきた。しかし、題材が異色でも構成はセオリーどおりにする作家なので、ミスリードを誘い作劇が破綻するようなことはしない。だから、寿一はこの物語で最初から死に向かっていたし、死ぬべくして死んだのだ。第1話冒頭、寿一のプロレスの試合を観る息子の秀生(羽村仁成)が書いた漢字は「死ぬ」だった。そして、父親の寿三郎(西田敏行)が言ったように、25年間、家族と絶縁していた寿一は、父が余命宣告されたタイミングで家に戻り、介護をしながら妹と弟、腹違いの弟たちの間を引っ掻き回して父に対する複雑な思いを吐き出させ、家族のわだかまりをなくすと、その父より先にあっさりと死んでしまった。

宮藤官九郎が書くドラマにおいて、主人公や主要人物が死ぬ展開は珍しくはない。『木更津キャッツアイ』(TBS系)のぶっさん(岡田准一)は余命宣告された身で、さんざん死ぬ死ぬ詐欺をやった挙げ句、もうこのまま生き延びるのでは?と思わせたタイミングで力尽きたし、『11人もいる!』(テレビ朝日系)では一家の7人の子の実母メグミ(広末涼子)が死んで幽霊になっているところから始まっていた(死者が家族のひとりにだけ見えるという設定は本作と似ている)。映画だが『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』では、長瀬も寿限無役の桐谷健太も死後の世界に住んでいる。

長瀬智也演じる寿一とは、いったい何者だったのか。英語ではお父さんっ子のことをfather’s sonなどと言うが、寿一はまさしく“父の息子”だった。能楽師の父親が自分を褒めてくれず愛情を示してくれないことに反発して家を出たが、結局、父親が好きだったプロレスの道へ進む。そして、父親の寿命が見えてくると家に戻り、40歳過ぎで能楽師になって跡を継ごうとする。だが、それは何よりも修業の積み重ねが物をいう伝統芸能の世界においては無理な話だった(近いパターンとして46歳で歌舞伎役者になった香川照之の例もあるが)。門弟たちは寿一が跡を継ぐことに反対し、異母弟の寿限無(桐谷健太)も寿一が彼に追いつけるのは「来世」とはっきり告げる。そこで能楽一本に絞ったならともかく、寿一はプロレスをやめられず兼業していたので、立派な能楽師になりましたというハッピーエンドはなりえなかった。

能楽の面白さも知っていただろうが、寿一の心は明らかにプロレスにあった。それでも能の稽古に励んだのは、人間国宝である父の子であるというアイデンティティの再確認と父に褒められたいという願望ゆえだったのではないだろうか。しかし、寿一は褒めてもらえないまま、プロレスの試合で受けたダメージによって“リングに死す”ことになってしまう。死後にやっと父親から「人間家宝だ」と褒めてもらえたが、寿一はそれで本望だったのだろうか。幸せな人生を送れたのだろうか。

そもそもテレビドラマはスター俳優ありきの産物である。そして、スターには劇団の座付き作家のように良い物語を作って演じさせてくれるシナリオライターが必要だ。綾瀬はるかに森下佳子がいるように、新垣結衣に野木亜紀子がいるように、香取慎吾に三谷幸喜がいるように、長瀬智也には宮藤官九郎がいる。作家はもともと人間観察に優れた人たちであるから、ドラマには何度も組んできたスターの強みだけでなく弱みも描き出され、それがおなじみのタッグの作品を観る楽しみにもなる。

『俺の家の話』では、寿一の欠点が元妻のユカ(平岩紙)と恋人のさくら(戸田恵梨香)によって語られた。寿一は「能のお面のように自分がない」と指摘される。「与えてはくれるけど、こっちが返しても受け取ってくれへん」と言うユカ。一般的にも、離婚した妻というものはとにかく徹底的に元夫のことを分析しているから、その指摘は正しいはず。寿一はさくらに対しても、さくらが幸せになるべきだから交際しようと言い、セックスに関しても「手を出さないなんて失礼ですよね」という理由でしようとする。そこには、たしかに自分の欲望というものがまったくない。

さくらは「(寿一は)妖精みたいですね」と言って笑っていたが、寿一が恋人や夫としては不適格だということに気づく。そして、寿一はセックスもしないままに死んでしまい、ラスト、お墓参りに来たさくらの前に覆面レスラーの姿で現れた。そこで幽霊となっても「親父が死ぬまで、そばにいてやってください」と頼む寿一に、さくらは呆れて「本当にないんですね、自分」と言うが、寿一はそれを否定せず「俺は俺の家が大丈夫なら、大丈夫なんで」と答えて笑う。ここはもちろん、寿一というキャラクターが言っていることなのだが、演じる長瀬の妖精のような優しさと、その優しさが時に残酷さにもなるということも表現している気がした。

他にもクドカンドラマらしく様々な要素が満載で、全話レビューを書きながらも、きちんと考察できていないことがあった。それは「コロナとマスクと面」である。このドラマではコロナ禍の現実に即して登場人物がマスクをしていた。マスクをした顔は口元が隠れ、表情が読み取りにくい。それが能の面(おもて)にリンクするという狙いはあったようだ。能面のように相手が喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見えるオンマスクの時代、親子間でも意思疎通がしにくくなった観山家に寿一が戻ってきて、「親父、メシはうまいか」「秀生、楽しいか?」といちいち確認をする。寿一はそれをうざいと言われながらも、「だって、(相手が)言わなきゃわかんないもん」と答えを要求する。人間らしい感情がなくなったかのようなコロナの時代には一家にひとり、寿一のような人が必要なのかもしれない。このドラマが2021年1月から放送されたのは必然だった。

そして、プロレスのマスク。顔半分だけの普通のマスクと違い、プロレスのマスクは完全な覆面である。被ってしまえば中の人が誰かは分からない。寿一はそのメリットを活かし家族に黙ったまま大好きなプロレスを続け、プロレス好きの父親を励ました。さくらは覆面を被った寿一こそが彼自身のありたい姿だと見抜いたからこそ、最後の別れでも「(覆面を)外さなくていい」と言ったのかもしれない。

回収されなかった伏線は、寿限無のセクシュアリティについて。寿限無は40歳だがこれまで女性と付き合った形跡がなく、寿一の後輩・プリティ原(井之脇海)を「かわいい原くん」とかわいがり、おいしい菓子を食べたときには「お口が女の子になっちゃう」と笑っていた。踊介の「彼女とかいんの? 聞かないよね、(寿限無の)浮いた話」というセリフも。また、寿限無が能の公演で舞った役柄は、道成寺の姫や隅田川の母親など、全て女性だ。しかし、そこの答えを求めるのは余計なことなのだろう。ただ、何かしら人に言えない秘めたものはありそうで、観山家で実の父や弟妹から使用人のように扱われていた不遇のシンデレラ寿限無が、宗家を継ぐことになったのは救いがあった。

また、長州力(本人役)の「切れてないですよ」「形を変えるぞ」という決めゼリフも毎回のように繰り返し出てきたので、なんらかの意味が込められているはずだが、筆者には分からない。寿一は死んで特大の骨壺に収まり「形が変わって」しまったが、家族の絆は「切れてない」ということなのだろうか。「これは俺のいない俺の家の話だ」という寿一のモノローグで家族の場面は終わり、その後はプロレスでの寿一の追悼試合に。寿一はそこにも幽霊となって現れた。プロレスの仲間たちと過ごしたリングも寿一のもうひとつの家だったことは間違いがないだろう。そして、「ぜあっ」という寿一の最後の掛け声は、もともと世阿弥(ぜあみ)から来ているが、thereの意味もあって、マスクだけを残して消えた寿一は永遠に「そこにいるよ」ということなのかもしれない。

ここまで考察を続けても、家父長制の功罪など、まだまだ考えさせられることがある。クオリティの高いドラマで全10話、たっぷりと楽しませてくれたことを作り手とキャストの皆さんに感謝したい。(小田慶子)

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