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「誰も傷付けないようにする作品ばかりでもったいない」黒沢清が明かす、第2回大島渚賞「該当者なし」の真相は?

  • 2021.3.20
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数多くの映画人を輩出してきた映画界の登竜門「ぴあフィルムフェスティバル」を運営する一般社団法人PFFが、映画の未来を拓き世界へと羽ばたこうとする新たな才能を顕彰する目的で創設した「大島渚賞」。その第2回の記念イベントが20日、東京・丸ビルホールにて開催。審査員を務めた映画監督の黒沢清と、PFFディレクターの荒木啓子、そして大島渚監督の子息であるドキュメンタリー監督の大島新がトークショーに登壇した。

【写真を見る】黒沢清が若い自主映画作家の姿勢を憂慮「ずば抜けた作品は見当たらなかった」

『戦場のメリークリスマス』(83)をはじめとした名作を世に送りだし、80年代には「ぴあフィルムフェスティバル」で審査員を務めたこともある大島渚監督の名を冠した「大島渚賞」。対象となるのは劇場公開作品が3本程度しかない新人で、日本で活躍する映画監督。国内外の映画祭ディレクターやジャーナリストらの推薦によって選出され、そのなかから審査委員長の坂本龍一と、黒沢、荒木の3名が受賞者を決定するというプロセスとなっている。昨年の第1回では、『セノーテ』(19)の小田香監督が受賞。第2回となる今年は長時間の討議の末、「該当者なし」という結論が導かれた。

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その審査の過程について黒沢は「新人監督を選ぶ映画賞でいつも議題になるのは、完成度が高い映画を選ぶのか、それとも出来はいまいちだけど強烈な個性がある作品を選ぶのか。でも本当は、そのどちらも吹っ飛ばすようなずば抜けた作品が出てくることが良い。今回もそれを期待していたのですが、そこまでのものは見当たりませんでした」と明かす。

その上で「皆さん、思い付かないようなおもしろいテーマを見つけてくる能力はすごくある。これは坂本さんが仰っていたことですが、以前どこかの学生から『自分の作品が誰かを傷つけるのが不安です』と言われた時に『そんなことなら作るな。必ず誰かを傷つけてしまうのが作品というものなんだ』と反論したと。今回も、せっかく興味深い取っ掛かりを作りながら、最終的には誰にも傷つけないように、誰も傷付かず終わっていく作品ばかり見受けられました。商業映画の基準ではそれでいいのかもしれませんが、もったいないと感じましたね」と残念そうな表情。

さらに黒沢は、「坂本さんとは不思議と趣味が合うのです。でも今回は『強いて言えばこれかな…』と思える作品が坂本さんに1本、僕に1本あったのですが、残念ながらそれが食い違ってしまった。1人ずつ1本あげたから“坂本賞”と“黒沢賞”をあげておこうかという流れにもなりましたが、ぴあ側の英断でそれはなしにしましょうと」と審査の裏話を披露。

すると荒木は「大島渚賞はスタートしたばかり。こういう賞なのだと明確に示して道を作らなきゃいけない時に、優しさを反映してしまうと開拓している道がおかしくなっていくのじゃないかと懸念しながらお二人が話しているのを見て、それを汲ませていました」と語った。

約1時間にわたり、審査の過程や大島渚映画の魅力について語り合った
約1時間にわたり、審査の過程や大島渚映画の魅力について語り合った

トークイベントの後半には、第94回キネマ旬報ベスト・テンで文化映画第1位に選ばれた『なぜ君は総理大臣になれないのか』(20)を手掛けた大島新監督が登場。この日トークイベント後に上映される、大島の初期の傑作『日本春歌考』(67)の撮影が公開直前ギリギリに行われていたというエピソードや、母である小山明子に同作の思い出を聞いたところ「『自分の言ってるセリフの内容が難しくてよくわからなかった。内容についてもやっぱりよくわからなかった』と皆さんに伝えてほしいとのことでした」と笑いを誘う。

ドキュメンタリー作品も手掛けていた大島渚監督から影響を受けてドキュメンタリー作家になったのかと黒沢から訊かれた大島は「劇映画の世界に行くと父との比較は避けられない。『愛のコリーダ』の裁判が始まって突如エロ監督の息子となって映画と距離を置いていた時期もありましたが、高校生ぐらいからノンフィクションの映像や本が好きだったので、映像業界に行くならドキュメンタリーだと思っていました」と振り返る。

そして「25年ほど前に、私がこの業界に入ってドキュメンタリーをやりたいと言った時には、しっかりやりなさいという言葉をかけてもらいました。父は子煩悩な人でしたが、人を緊張させるような人で子どもとしても緊張しちゃう時があった。でも外では世間と対峙するようなところがありましたが、家では子供に常識的なことを望んでいたり保守的なところがありましたね」と、後世の映画人に多大な影響を与えた名匠の素顔を明かした。

取材・文/久保田 和馬

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