1. トップ
  2. シャルロット・ゲンズブール、父との思い出を語る。

シャルロット・ゲンズブール、父との思い出を語る。

  • 2021.3.16
  • 2369 views

49歳の女優シャルロット・ゲンズブールは、パリのヴェルヌイユ通りにある家族が所有する邸宅内にゲンズブール・ミュージアムを開設する準備を進めている。2月24日発売の「テレラマ」誌に、父セルジュ・ゲンズブールの「陰鬱な面」や、母ジェーン・バーキンとセルジュとの確執について明かした。

シャルロット・ゲンズブールはインタビューで、彼女が若い頃に見た父セルジュ・ゲンズブールと母ジェーン・バーキンとの「派手な」喧嘩について回想した。(パリ、1973年11月30日) photo : Abaca

「悲劇」、「情愛」、「アルコール」...これらが混ぜ合わさった時、セルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの緊迫した関係は爆発した。

彼らの娘であるシャルロット・ゲンズブールは、パリのヴェルヌイユ通り(7区)の伝説的な父の自宅内にゲンズブール・ミュージアムを開設予定で、2月24日発売の「テレラマ」誌に、この型破りな両親についての話を披露している。

シャルロットは、当時父は憂愁に「ひたっていた」とその立場を擁護する。「父との悲しい思い出はないけれど、父が私に伝えてくれたものの中に陰鬱な面があったの。父は悲劇を好む傾向があった。情愛のね。彼の人間関係は決して穏やかなものではなかったわ」と語る。

彼女は両親の「派手な」いさかいを思い返す。「父は、母としょっちゅう目も当てられないような喧嘩をしていてたの。中にはかなりつらい思い出もあるし、母だって父に負けてはいなかった。2人が別れた後も父が私たちに会いに母の家を訪ねて来た時、お皿の投げ合いをしていたくらい。2人とも大酒飲みだったけれど、父は飲酒が原因で暴力をふるうことはなく、むしろ飲んだ時は優しかったわ」

「スキャンダルが及ばないように、私は守られていた」

歌手でもあるシャルロット・ゲンズブールは、1985年に発表された『レモン・インセスト』についても思い返す。当時13歳だった彼女がセルジュ・ゲンズブールの傍らで歌ってみせた楽曲であり、父と娘の愛の融合を描いている。

この楽曲のミュージックビデオは物議を醸した。上半身裸のセルジュが、シャツとショーツ姿のティーンエージャーのシャルロットと共に、ダブルベッドに横たわっていたからだ。

この点について彼女は自問する。「レコーディング前に父が歌詞を読ませてくれたのかしら?当時どう感じていたのかしら?この時のこと覚えていなくて、後悔しているの。とにかくリラックスしていたわ」。彼女は続ける。「映画監督みたいに私に指示を出していた父と一緒に、突然マイクの前に立つなんて、どれほど濃密な体験だったか!父は録音を聞き直して感激し、私の音程が少し外れていたから喜んでいたわ。そういうのを望んでいたから」

幼かった彼女は、その後どんな論議が巻き起きるか考えも及ばなかった。「それから寄宿舎に戻ったの。レコードが発売したらどうなるかなんて、全然わからなかった。スキャンダルが及ばないように、私は守られていたから。こんな楽曲が今の世に出たら、昔よりもっと世間を騒がせていたかしら。きっとそうなっていたでしょうね。またあの曲をレコーディングできていたかしら?おそらく父はやってのけたでしょうね。私自身もきっと。『レモン・インセスト』は、父から娘への純粋で無垢な愛の告白なの。むろん父は言葉とタブーで遊んでいたんだけれど、それが彼の強さだったんじゃない?もちろんこの世には有罪にすべきおぞましい行為は存在するけれど、一方で芸術の上での挑発は必要だと思うわ」

「全部まとめて遠ざけなきゃならなかった」

1991年3月2日に他界した父の死について尋ねられ、シャルロット・ゲンズブールは当時自分の気持ちと世間の気持ちの妥協点を見つけるのに苦慮したことを振り返る。「追い詰められたように感じて、熱狂の渦の中で自分の感情をコントロールできなかった。全部まとめて遠ざけなきゃならなかったの。誰とも分かち合える状態ではなかった」と打ち明ける。

以降、彼女は一線を引くようになった。「今なら父について私に語りたい人たちの気持ちや、彼らの父へのあふれる愛情を理解できる。けれど19歳だった当時は自分の苦悩しか見えなくて、侮辱されたと感じていた。『どうして父についての思い出を話すことで、私を傷つけていることがわからないの?』ってね」

元記事で読む
の記事をもっとみる