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毒母の介護、最後は“意地”だった。「娘がいて“便利で”よかったわ」「つまらない人生でした」母の辛辣な言葉に、私は……

  • 2021.2.28
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皆さんは、これまでの人生で「看取り」を経験したことがあるだろうか?

「看取り」とは、高齢者が自然に亡くなるまでの過程を見守ることを指し、超高齢社会の現代においては多くの人が経験するものと考えられるが、家族が年老い、死んでいく姿を“まったく想像できない人”は少なくないはず。もしくは、死を目前にした家族を皆で囲みながら、感謝の言葉を伝え合いながら、穏やかな時間を過ごす……そんなドラマのようなワンシーンを思い浮かべる人もいるかもしれない。

しかし、『親の介護をはじめる人へ伝えておきたい10のこと』(学研プラス)を上梓したエッセイスト・鳥居りんこ氏は、「看取りはもっと過酷なものです!」と語る。本書には、両親を10年以上にわたり介護し、看取った実体験を元に、介護・看取り初心者へのアドバイスをつづっているが、その内容は確かに過酷そのもの。そして、読者に“死への向き合い方”を考えさせる1冊となっている。

今回、サイゾーウーマンでは、鳥居氏にインタビューを行い、その介護体験を振り返りつつ、親を看取ることの難しさを語っていただいた。

◎私の母は女王様、子どもは使用人だった

——鳥居さんは、2006年にお父さまが心筋梗塞で倒れてから、介護生活をスタートされたそうですね。

鳥居りんこ氏(以下、鳥居) そうですね。父はその後、末期の肺がんと診断され、08年に息を引き取りました。一方の母は、今から20年前、いわゆる“目にくる脳溢血”で突然片目が見えなくなってしまい、病院への付き添いが始まりました。思えば、その頃から「介護がスタートした」といえるかもしれませんね。そして12年には、パーキンソン症候群の一つである難病「進行性核上性麻痺(PSP)」と診断されたのですが、病名がわかるまでが大変でした。ガラス窓に頭から突っ込むなど、明らかにおかしな行動が増え、母から目が離せなくなったのに、病院へ行っても「老化です」と言われてしまって……。その後、13年に介護付き有料老人ホームに入居し、17年に亡くなりました。

——簡単に介護歴を振り返っていただいただけでも、その壮絶さがひしひしと伝わってきます。

鳥居 私の母は、いわゆる毒母。昔からまるで女王様のように「いろいろしてもらって当たり前」という態度で、子どもは“使用人”。母の意に反することをしてしまうと、罵倒されました。まぁ、母からすると「正しいことを指摘した」だけなのでしょうが。片目が見えなくなった頃から、その傾向はさらに強まっていきましたね。

そんな中、介護のキーパーソンだった姉が病気になってしまい、私がメインで引き受けざるを得ない状況に。家事と子育て、仕事、介護と、目まぐるしい日々に突入しました。夫にとっては実の親ではないため「介護を手伝って」とは言えなかったし、当時中学生だった下の娘をしっかり見てあげることもできず、自分の家族がバラバラになっていくのを感じました。

◎「どこまでやったら褒めてもらえる?」毒母を意地になって介護した

——当時、どのような心境だったか覚えていますか?

鳥居 もう、目の前のことしかできなくなるんです。この割れたガラスを片付ける、失禁したパンツを洗う、食べさせるものを作るとか。目の前のハエを追うような毎日で、「この場を切り上げて早く家に帰りたい」とばかり思ってました。帰宅しても、山のような家事が待っているんですけどね。全てが中途半端にしかできなくて、フラストレーションがどんどんたまり、体力だけでなくメンタルも削られていきました。

——介護の中で、特に印象に残っている、つらかった経験はなんでしょうか?

鳥居 これは老人ホームに入ってからの話ですが、母に毎日毎日「つまんない」と愚痴られるのがつらかった。母の病気は、嚥下がしづらくなる症状もあったため、食べていてもすぐもどしそうになる。老化によって、味覚も鈍くなっていたのか、食事の楽しみがなくなってしまいました。それに老人ホームは、どこの誰かわからない人たちと集団行動しなくちゃいけないというストレスもありますから、「つまんない」のは当然なんですよ。

そんな母の楽しみを補うのは、私の役割でした。昔から母は、自分の楽しみを私に委ね、私は母を喜ばせるために、いろんな話をしなければいけなかった。それをしないと、母が機嫌を損ねてしまい、爆発するから。この頃の母は、私にさらに楽しみを求め、感情をぶつけてくるようになっていました。

毎日「今日は来るの?」と電話がかかってきて、「◯時頃行くよ」と答える。そしたら「もう出た?」と電話が入り、「今向かってる」と言っても、また「まだ着かないの?」とお叱りの電話が鳴り響く……。「今、車に乗ってんだよ!!」って叫びたかったですよ。そういえば、母にカメラを回しながら「どんな人生だったか?」を聞いたことがあったんですけど、「つまらない人生でした」と言っていて……「本当にそうですよね、自分で楽しもうとしなかったんだもん」と、心の中で思いました。

——それでも介護を投げ出さなかった理由はなんでしょう?

鳥居 私は「お願いだから、今日死んでくれ」って散々思っていましたし、当時仕事をしていたメディアでも言ってましたけどね(笑)。これは、毒母を持つ娘ならではの感覚かもしれませんが、母に認めてほしかったんです。母は「娘がいて“便利で”よかったわ」とは言うんですが、私は“自分の存在”を認めてほしかった。どこまでやったら褒めてくれるんだろうと、最後のほうは意地になって介護していました。でも結局、最後まで認めてはもらえませんでした。

介護をする人の心って、「親に対する恩」と「親に対する怨」の間で揺れ動いていると思うんですよ。「恩」を感じすぎても、「怨」を感じすぎても、心が疲弊してしまう。親に対して「今すぐ死んでしまえ!」と思っても、次の瞬間に「かわいそうだから、これをやってあげよう」と動く……そんなふうに「恩」と「怨」の心境を行ったり来たりすることが、介護なのだと感じています。

(後編につづく)

鳥居りんこ(とりい・りんこ)
エッセイスト、教育・子育てアドバイザー、受験カウンセラー、介護アドバイザー。『偏差値30からの中学受験』シリーズ(学研)など、中学受験の著書で広く知られる一方、近年は実体験を元に、介護問題へのアドバイスを行っている。『鳥居りんこの親の介護は知らなきゃバカ見ることだらけ』『親の介護をはじめたらお金の話で泣き見てばかり』『親の介護をはじめる人へ伝えておきたい10のこと』(いずれも学研プラス)など著書多数。

サイゾーウーマン編集部
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