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池端俊策による“本能寺の変”はどんな結末に? “視点の転換”がもたらした『麒麟がくる』の面白さ

  • 2021.2.1
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『麒麟がくる』写真提供=NHK

「本能寺の変」まで、あと3年! いよいよ残すところ1月31日の放送を含めてあと2回となり、俄然盛り上がってきたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』(全44回)。

「このドラマのユニークでおもしろいところは、光秀の視点で戦国の世やそこで活躍した武将たちを描いているところです。光秀の視点で見ると、これまでとまったく違う風景が見えてきます。たとえば斎藤道三も、光秀の視点で描いたから今回のような人物像になっていたはずです。主人公が誰かによって、世界が全部変わってしまう。そこが、ドラマのおもしろさです」(引用:池端俊策インタビュー② 『麒麟がくる』公式サイト)

本作の脚本を担当する池端俊策自らが語っているように、本作のおもしろさは、その「視点の転換」にこそある。そして、それは「ドラマ」のおもしろさであると同時に、「歴史」のおもしろさ――とりわけ、どこに視点を置くかによって、いくらでも見え方が変わる「戦国時代」のおもしろさでもあるのだろう。

●“対面すること”が光秀の流儀

そんな「視点の転換」を、はっきりと浮かび上がらせる意味もあるのだろう。本作『麒麟がくる』で描き出される明智十兵衛光秀(長谷川博己)は、とにかく各地を奔走し、そこで数多くの人々と会ってきた。かつての主君である斎藤道三(本木雅弘)や、現在の主君である織田信長(染谷将太)との手に汗握るような面談はもとより、ときには旅芸人一座の女座長であり諸国の有名大名や公家に顔がきく伊呂波太夫(尾野真千子)や、三河出身の農民であり実は家康の忍びであることが発覚した菊丸(岡村隆史)といった本作オリジナルの登場人物たちの導きや橋渡しのもと、光秀は「記録」として残された「歴史」の合間を縫って各地を奔走し、当時の重要人物たちとの対面を果たしてきた。対面状況で腹を割って誠実に話し合い、彼らの本意を探ろうとすること。それが『麒麟がくる』における、明智光秀の「流儀」なのだ。

けれども、そんな光秀の「流儀」はここへきて、「視点の変換」によって視聴者に「違う景色」を見せるどころか、次第に追い込まれてゆく光秀自身の内面を、ありありと感じさせるようになってきた。そう、今日の我々が知る「本能寺の変」へとやがて至る光秀の運命の歯車は、もはや音を立てて激しく回り始めているのだ。第40回「松永久秀の平蜘蛛」で光秀は、本願寺攻めの最中に信長軍から逃亡した松永久秀(吉田鋼太郎)と密会し、信長が所望する大名物・平蜘蛛の茶釜を託される。

「これはわしじゃ! そなたに討たれたとしても、これは生き残る。そなたの手の中で生き続ける」

その後、信長に反旗を翻した久秀は、光秀を含む信長軍が取り囲む中、信貴山城に自ら火を放ち、壮絶な最期を遂げる。光秀に平蜘蛛を託すと同時に、その「覚悟」を問う伝言を残しながら。池端曰く、「この回は、やがて光秀が本能寺へと向かうきっかけになる回だと思っています。本能寺への導火線に火がついた。そして、それを仕掛けたのは松永久秀なのです」。

続く第41回「月にのぼる者」で光秀は、三条西実澄(石橋蓮司)を通じて、正親町天皇(坂東玉三郎)に拝謁することを許される。帝は、今の信長をどう思っているのだろうか。すると帝は逆に、光秀にこう語るのだった。「信長はどうか。この世が平らかになるには、そなたの力に負うところがあるやもしれぬ。こののち信長が道を間違えぬよう、しかと見届けよ」と。

さらに第42回「離れゆく心」で光秀は、信長によって京を追われたのち、現在は毛利の庇護のもと、備後・鞆の地に身を寄せている将軍・足利義昭(滝藤賢一)に会いにゆく。その真意を探ろうとする光秀に、「信長がいる京へは戻らぬ」、「そなたひとりの京であれば考えもしよう」と語る義昭。かくして、帝と将軍という当代きっての権威から、光秀は言外に何かを「期待」されるのだった。平蜘蛛を託すことによって久秀から「覚悟」を問われた光秀は、今度は帝と将軍の双方から、信長を御するべく「期待」を掛けられたのだ。

光秀が対面したのは、彼らだけではない。再び光秀のものに現れた菊丸の導きのもと、摂津沖に浮かぶ船を訪れた光秀は、そこで三河にいるはずの徳川家康(風間俊介)と相まみえるのだった。敵である武田側と通じた嫌疑により、家康の嫡男・信康の切腹を信長が命じたことを家康の口から告げられる光秀。家康は信長の家臣ではなく、あくまでも同盟者に過ぎないにもかかわらずだ。家康は言う、「今の信長様は味方を遠ざけてしまわれておる。公方様しかり、松永殿、荒木殿……これでは天下はひとつにまとまりませぬ。私は事を構えるつもりは毛頭ございませぬが、あまりに理不尽な申されようがあれば、己を貫くほかはありません」。そして、「これには三河の誇りが掛かっております」と光秀に向かって凄んでみせるのだった。そこにさらに追い打ちをかけるように光秀は、義昭から書状をもらったという駒(門脇麦)から、そこに「昔話した、誰も見たことのないという生き物、麒麟。十兵衛となら、それを呼んでこれるやもしれぬ」という一文があったと告げられる。そう、「麒麟」である。

●「理想主義者」の光秀と「現実主義者」の秀吉

「王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣、麒麟。応仁の乱後の荒廃した世を立て直し、民を飢えや戦乱の苦しみから解放してくれるのは誰なのか……そして、麒麟はいつ、来るのか?」――そもそも、それが本作『麒麟がくる』の物語であり、そんな「麒麟」を呼び込む真の英雄を探しあて、その者に忠義を尽くすことが、光秀の人生の目的なのだった。それは、織田信長ではなかったのか。久秀が光秀に問うた「覚悟」、そして帝と将軍から「期待」、さらには家康が訴えかける「思い」は、光秀自身が「麒麟」を呼ぶ者であることを意味しているのだろうか。

第42回「離れゆく心」の放送開始直後、番組公式Twitterが「AWAITNG KIRIN」という言葉と共にアップした一枚の画像。それは、『麒麟がくる』のオープニングタイトルバックの一場面(鎧姿で森にたたずむ光秀の後ろ姿のシーン)に隠されており、いよいよこの回のオープニングより、まばゆい光を放ちながら徐々にその姿をあらわにしてゆく「麒麟」のモデルとなった麒麟像であるという。

そんな「麒麟」を自らのもとに呼び込もうとしているのは、無論光秀だけではない。その筆頭は、やはり光秀の同僚でありライバルでもある羽柴秀吉(佐々木蔵之介)になるだろう。本作においては、終始ひょうげた様子を見せながら、その奥底にギラリと光る野心を覗かせる不気味な人物として描かれている秀吉。そう、平蜘蛛の一件を信長に報告し、光秀と信長の関係性にさらなる亀裂を入れようとしたのは、秀吉の仕業だったのだ。

「乱世を平らかにする」――その願いは同じでありながら、秀吉によって平らかな世とは、かつての自分のような貧乏人がいない世の中を意味する。そう、ある種の「理想主義者」である光秀に対し、秀吉は徹底した「現実主義者」なのだ。そんな彼にとって光秀は、もはや目障りでしかない。中国・毛利攻めの陣頭指揮を言い渡され、恐らく再び光秀と対面することはないであろう秀吉は、遠く離れた備中の地より、京の趨勢をどのように見るのか――否、どのような策を使って動かそうとするのだろうか。

●いちばん気になるのは細川藤孝の動向

さらに、現関白・二条晴良(小藪千豊)との政争に破れ、一時は京を追われたものの、信長に近づき、再び上洛の機会を狙う前関白・近衛前久(本郷奏多)も気になる存在だ。彼にとって信長は、まだまだ利用価値があるのだから。けれども彼は、本作においては、光秀と懇意の伊呂波太夫と姉弟のように育った者として、光秀と旧知の関係でもある。次第に追い込まれてゆく光秀を見て、前久は何を思うのだろうか。

しかし、いちばん気になるのは、やはり光秀の朋友とも言うべき細川藤孝(眞島秀和)の動向だろう。第13代将軍・足利義輝(向井理)の奉公衆のひとりとして出会って以来、義輝亡き後はその弟・義昭を将軍にすべく奔走し、やがて光秀ともども幕府を見捨て、信長の家臣となった藤孝。言わば光秀とは、同じ夢を抱く「同志」であるはずなのだ。しかも、その嫡男・忠興(望月歩)は、光秀の愛娘・たま(芦田愛菜)の夫でもある。つまり、藤孝と光秀は、姻戚関係でもあるのだ。だが、かつて義昭を捨て、信長に付き従うことを決意する際、袂を分かった兄・三淵藤英(谷原章介)に向けて、「時の流れを見るのが肝要である」と言い切った藤孝ではある。彼は、光秀の苦悩をどのように察知し、どんな言葉を彼と交わすのか。そもそも藤孝は、光秀と再び腹を割って話し合う機会を持ちうるのだろうか。

冒頭に「あと3年!」と書いたものの、天正8年には石山本願寺との長期にわたる戦いの終結。翌9年にはそれを祝して、京で大規模な馬揃えが開催される(光秀はその運営担当を任される)。そこには、光秀をはじめとする信長軍団(秀吉は中国攻めにつき欠席)の他、前久も参加するのだろう。さらに翌10年には、遂に信長軍による甲州・武田征伐が敢行され、光秀も従軍。そしてその後、信長が安土城まで家康を呼び寄せ、宴の席を設けるなど(光秀はその饗応役を任される)、信長のもとで忙しない日々を送り続ける光秀は、そのあいだに誰と会って、どんな話をするのだろうか。そして、最終的にその背中を押すのは、果たして「誰」なのか。

いずれにせよ、もはや「待ったなし」の状況で、猛然と回り始めた『麒麟がくる』の物語。この「コロナ禍」にあって、中断期間を挟みながらも放送期間を延長し、回を減らすことなくその壮大な物語を全うせんとする、その堂々たるクライマックスに期待したい。(麦倉正樹)

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