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「成長させてくれたのはJJ」神戸蘭子さんが語る赤文字系ファッションの時代

  • 2021.1.12
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JJとの出会い「何もわからずに光文社へ行った」

――神戸さんはJJで約10年にわたってモデルをされてきました。月刊での発行が終わり、今後は不定期での発行になることは、ご存じだったのですか?

神戸蘭子(以下神戸): そういう噂をうっすらと聞いていたんです。その数日後、本当になったので、すごくびっくりしたし、「悲しい、寂しい」という気持ちになりました。雑誌には厳しい時代ですが、JJは私が高校生の頃からの憧れ。私がモデルになる前から時代をつくってきたし、過去にはファッション誌のブームもありましたしね。

――出身の宮崎からJJの世界は遠いと思いますが、高校生の頃にも読まれていたのですか。

神戸: 友人に大人びた子が多かったんです。私は家が厳しく、大人の世界を知りませんでしたが、友人は高校生らしからぬ格好をしていた。宮崎でもJJとか『CanCam』(小学館)を読んでいるようなタイプ。私はどちらかというと『Cutie』(宝島社)が好きで。大人びるより、ちょっと個性を出したかった。でも、友人の影響で「そういうのも素敵かも」と思うようになって、高校生の後半くらいからJJを読んでいましたね。

――最初にJJに声をかけられたのが19歳の時ですよね。

神戸: 遥か昔で記憶がないのですが(笑)。文化女子大学への進学のために上京して、割とすぐだったので、その辺かもしれません。「メイクページに出ない?」と、渋谷の109へ行く途中で声をかけられました。メイクの仕方も知らない田舎者でしたから、「メイクしてもらえるんだ、うれしい!」と。何もわからずに光文社へ行ったのが始まりです。

朝日新聞telling,(テリング)

いろんな雑誌に読者モデルとして出ましたが、やっぱりJJは関わりが濃かったし、家族に近いイメージがありました。私はメイクやヘアのページに登場することが多かったのですが、大学を卒業するタイミングで、「ファッション企画のモデルに」との話をいただきました。「背が低いから(無理)」と伝えたんですが、それが、(背が小さくてもバランスよく見せる)Sサイズの企画だったんですね。そこからSサイズのレギュラーになりました。だから、私がどこからが” JJモデル”なのかは、自分でもよくわからない。ただ、卒業する時の特集ページで、「10年くらい」という話をしたので、そんなものかなぁと(笑)。

Sサイズ企画で、モデルという意識が持てた!

――「背が低くてもファッションモデルになれる」という新しい扉を、JJが開いてくれたということですね。

神戸: それまでの仕事での私は、洋服を着ることがあっても全部ぶかぶかで、靴も大き過ぎて・・・。自分がモデルという実感はまるで湧いていませんでした。でも、Sサイズ企画は、「こうして着たら、背が高く見えますよ」といったコーディネイトをスタイリストさんが提案して、見せる企画。モデルの意識を持てましたね。

朝日新聞telling,(テリング)

「JJは私の青春」ではないですが、「おしゃれもメイクもわからない田舎者を成長させてくれたのはJJ」という思いは、ありますね。もともとお洋服が好きで、服飾の学校へ行っていたので、ファッション誌の現場でお洋服が見られるのもうれしかった。モデルは楽しい仕事。そして卒業後はアパレル企業に就職しました。

――文化女子大学での専攻はなんだったのですか。

神戸: 服装造形学科といって服をつくる学科だったので、デザインからパターン、生地、つくり上げるまでの工程を学んでいました。だからモデルの撮影で着るお洋服の縫い目は、よく見ていましたね。「このブランドは安いつくりをしてるな」とか「ここは縫製がしっかりしているな」とか。裏や縫い目を見て、ギャザーの寄り方に感心したり、このラインは新しいデザインだと思ったりしていました。

私の通っていた時は、JJやCanCamといった赤文字系ファッション誌の“コンサバ”が流行っている時代。私はコンサバなデザインの服を着たり、つくったりしていましたが、すごく浮いてたんです。文化女子大は個性的な服を着ている人が多かったので。タイトなワンピースやスカートにハイヒールで行っていたのは私1人(笑)。だから、思い切りコンサバを着られるJJの撮影は楽しかった。20代の楽しい時期を共に過ごさせてもらいました。

朝日新聞telling,(テリング)

アパレルでの会社員生活から一転・・・

――そしてアパレル企業に就職されました。

神戸: JJのSサイズ企画に出ていたのは、アパレル企業へ就職した頃。私はプレスやショップ定員として働いていたのですが、会社が撮影のスケジューリングをやってくださって。本当にありがたかったです。ただ、モデルは本業ではないので、複雑な感情もありましたね。ショップに立てば、知られている分、見せ物みたいになってしまう事もあったり・・・。会社に入ったのは「服の勉強をしたい」という気持ちがありましたから。

でも、デザインもさせてもらえました。打ち合わせにも参加し、服をつくる工程なども見られました。ボタンを選ばせてもらったり、値段の相談をしたりと。

――しかし、そのアパレル企業を退社して芸能界へ。

神戸: 今も勤めていた会社とはつながりがありますし、モデルをやらせてもらったり、コラボ商品をつくったりと良い縁が続いているんですよ。退社当時は、その後のことは何も考えていませんでした。モデルの仕事はJJ以外でもちょこちょこやっていましたし、イベントへの出演もしていたけど、芸能活動で食べていこうとは思っていませんでしたので、別のアパレル系の会社で働いて、服づくりの勉強をしていました。

それなのに芸能活動を始めることに、なっちゃったんです。芸能人になりたいとも思ってなかったのに(笑)。ひょんなことで芸能事務所の人に声をかけられ、断りきれずに始めた、というのが事実に近いかもしれません。

朝日新聞telling,(テリング)

「ヘキサゴン」での出会い 島田紳助さんの言葉の意図は?

――それで、クイズ番組などに出るようになったんですか?

神戸: 事務所が一生懸命、仕事を取ってきてくださったんです。テレビの仕事はわかりませんでしたね。現場に行ったところで「何を話せばいいんだろう?」「とりあえずクイズに答える」みたいな感じでした。初めて出た「熱血!平成教育学院」(フジテレビ系)ではド緊張しました。MCのユースケ・サンタマリアさんは優しく声をかけてくださり、番組中に何度か話せましたが、「心臓が飛び出る!」と思ったくらいでした。

「クイズ!ヘキサゴンⅡ」(同)で出会ったのが、MCの島田紳助さん。「私はこの仕事がわからないです」と伝えたら、「とにかく2年がんばりなさい」とアドバイスされました。紳助さんの真意は違ったと思いますが、私はそこで勝手に「芸能活動は2年しかやらない」と決めたんです。

――何をしたかったんですか。

神戸: 結婚したいと思っていました(笑)。仕事は自分のペースでやりたいと思っていましたしね。ただ、以前の事務所を辞めるきっかけの1つは、体調を崩したこと。その前後の13年辺りはファッションショーが流行っていて、様々な所へ行きました。海外へ行って、帰ってきたと思ったら沖縄へ、という感じで、家にも帰れないような状態。その間、各地で病院をハシゴするみたいな状況になった時に、「なぜこんなに働かなくちゃいけないんだろう?」と。一番大事なのは、私のメンタルと体。「健康がすべてだ」と。その時は30歳を過ぎていました。”子どもができにくい体質”とも言われていたので、「ストレスを減らそう」と思って1回、仕事をリセットしたんです。

●神戸蘭子(かんべ・らんこ)さんのプロフィール
1982年、宮崎県出身。宮崎県で育ち、2001年に上京し文化女子大学服装学部に入学。 『JJ』にスカウトされ03年、読者モデルとして活動を始める。その後『JJ』にモデルデビュー。バラエティ番組などにも多数、出演した。現在はも行っている。

■坂口さゆりのプロフィール
金融OL、編集者を経て、週刊誌AERAでライター業をスタート。同誌ほか、週刊朝日、朝日新聞、小学館の女性誌などで主に映画記事やインタビュー記事を執筆。著書に『バラバの妻として』(NHK出版)、『佐川萌え』(ジュリアン)ほか。食べることも料理を作ることも大好き

■岡田晃奈のプロフィール
1989年東京生まれ、神奈川育ち。写真学校卒業後、出版社カメラマンとして勤務。現在フリーランス。

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