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【戦国武将に学ぶ】細川忠興~情にあつい文化人、激し過ぎる言動も~

  • 2021.1.10
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京都府長岡京市にある細川忠興像
京都府長岡京市にある細川忠興像

細川忠興は文化人大名として知られる細川藤孝(幽斎)の長男で、1563(永禄6)年の生まれです。父・藤孝が初め、足利義昭に仕え、義昭が織田信長と対立してからは信長に臣従したこともあり、忠興は若い頃から、信長に目をかけられて成長しました。なお、名乗りの忠興の「忠」は信長の長男・信忠の1字を与えられたものです。

1577(天正5)年、大和片岡城=奈良県上牧(かんまき)町=攻めで戦功を挙げたとき、信長から直筆の感状を受けていますし、翌年、明智光秀の娘である玉(後のガラシャ)と結婚しますが、これは信長からのお声がかりでした。

先を見る目と高い教養

父・藤孝が丹後支配を任され、宮津城(京都府宮津市)を居城とした頃、藤孝・忠興父子は光秀の与力大名となっています。丹波攻めのとき、国人(こくじん)領主(在地領主)・内藤氏を攻めたのですが、城兵が降伏してきたにもかかわらず攻撃を続けようとし、光秀から、「降伏してきた者を攻めるではない」と諭されているところをみると、性格的に突っ走るタイプだったように思われます。

1582年6月2日の「本能寺の変」に続く光秀と秀吉の戦いでは、藤孝・忠興父子は光秀に味方しませんでした。光秀からの誘いを蹴り、忠興は妻の玉を味土野(みとの、京都府京丹後市)に幽閉し、信長への弔意を表しています。謀反が成功しないと先読みしたものと思われます。

以後、豊臣秀吉の天下統一の戦いに参陣し、豊臣大名の一員として活躍しますが、1598(慶長3)年に秀吉が亡くなると、徳川家康に急接近しています。これは、秀吉の側近だった石田三成を嫌っていたのと、先を見る目があったことの表れといってよいでしょう。

なお、家康が関ケ原の戦いの前哨戦となる会津の上杉攻めに向かったとき、三成らが大坂に在住している大名たちの妻を人質に取ろうとしたのに対し、玉がそれを拒否して、命を絶ったため、その後の人質収監が中止になったという一幕もありました。

忠興は茶の湯の世界でも名が知られ、千利休の高弟7人「利休七哲」の一人に数えられています。1591年2月、利休が秀吉の命で堺に蟄居(ちっきょ)を命じられ、聚楽第近くの茶室「不審庵(ふしんあん)」を出て堺に向かうとき、利休の弟子だった大名の多くが秀吉の手前をはばかって見舞いに出る者もなく、見送る者もいなかった中、忠興と古田織部の2人だけで利休を見送ったことが知られています。秀吉の怒りを買うかもしれない行動ですが、情にあつい武将だったのかもしれません。

屋根ふき職人を斬り捨てる

この情にあついという点はプラス面ですが、それが行き過ぎると裏目に出ることがあります。忠興の場合、やや直情径行気味でした。有名なエピソードなのでご存じの人も多いと思いますが、あるとき、忠興・玉夫妻の部屋の屋根を修理していた屋根ふき職人が誤って転がり落ち、2人がいる部屋の前に出てしまいました。「玉に見とれた」と思ったのか、そのとき、忠興は有無をいわせず、その職人を斬り殺したといわれています。

また、先に述べた、玉が人質になるのを拒否したときのことですが、その際、忠興の長男で、細川家の家督を継ぐべき立場にあった忠隆の妻も大坂の細川屋敷にいました。彼女は玉から、「そなたは逃げなさい」と言われて逃げたのですが、その後、忠興から、「なぜ、一緒に死ななかった」と詰問され、忠隆が妻をかばったところ、怒った忠興は忠隆を廃嫡してしまいました。

忠興は関ケ原の戦いの論功行賞として、豊前一国および豊後の国東(くにさき)郡を与えられ、39万9000石の領主となり、初め中津城、ついで小倉城に移っています。その後、三男の忠利が肥後・熊本城主となり、忠興は1645(正保2)年、肥後の八代(熊本県八代市)で亡くなりました。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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