1. トップ
  2. ライフスタイル
  3. 中央区の名橋「日本橋」、実は江戸時代に10回も架け直されていた

中央区の名橋「日本橋」、実は江戸時代に10回も架け直されていた

  • 2021.1.9
  • 403 views

石造りのアーチ橋「日本橋」は日本橋エリアの象徴として、長く親しまれてきました。そんな日本橋の歴史について、ルポライターの昼間たかしさんが解説します。

日本橋は東京の「スタート・ゴール地点」

中央区の日本橋川にかかる日本橋には道路元標(道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物)が置かれています。これがつくられたのは明治時代ですが、江戸時代には五街道の起点であるため、日本橋は長らく東京の「スタート・ゴール地点」となっています。

日本橋川にかかる日本橋(画像:写真AC)

現在の旅は鉄道や自動車といった乗り物を使うのが当たり前なので、日本橋がスタート・ゴール地点といってもイメージしにくいかもしれません。

むしろ、日本橋三越本店(中央区日本橋室町)などの由緒正しいデパートが並ぶため、たまのぜいたくを楽しむ場所というイメージが強いのではないでしょうか。いずれにせよ、日本橋のブランド力というのは一定しています。

橋の始まりは、徳川家康が江戸幕府を開いてからです。日本橋川は神田川の開削にともない形成されたのですが、このときにかけられたのが日本橋です。

前述のイメージから、日本橋周辺はお金持ちが住む地域と思われがちですが、実際には下町です。それも神田と並ぶ本気の下町なのです。

橋の床材の厚さは15cmもあった

初代の日本橋がかけられたのは1603(慶長8)年。以降、周辺には魚河岸や船宿ができ、交通の要衝ということもあってか、大店(おおだな)が並び、江戸随一の繁華街として発展していきます。

時代劇の影響もあり、江戸の日本橋と聞いて大半の人が思い浮かべるのは、真ん中が高く半円形をした木造の太鼓橋でしょう。確かに太鼓橋に違いはありませんが、実際の橋とは結構異なります。

復元された江戸時代の日本橋は、江戸東京博物館(墨田区横網)で見られます。キャパシティーの関係上、実際の半分の長さですが、それでもかなり大きな橋です。なお復元の基となっているのは、江戸時代後期・1806(文化3)年の『日本橋懸方御普請出来形帳』の記録です。

江戸東京博物館で復元された日本橋(画像:江戸東京博物館)

これによれば、橋の長さは28間(約51m)、幅は4間2尺(約7.9m)。橋げたは3本を一組として計8組。使う木材は橋杭(はしぐい)や梁(はり)など、構造部分と欄干の支柱にはケヤキを、敷板(床材)や欄干にはヒノキを使っていると書かれています。

また、1829(文政12)年の『江戸向本所深川橋々寸間帳』という資料には、それぞれの部材の寸法まできちんと記されています。敷板の厚さはなんと5寸(約15cm)。大勢の人たちが毎日往来するため、とても頑丈につくられていました。

こうした資料を突き合わせていくと、江戸東京博物館にあるような復元ができるわけです。

全焼8回、半焼2回の日本橋

それにしても、部材の材料や寸法まで記した詳細な資料がなぜ残っているのでしょうか。

日本橋が重要なランドマークだったため、扱いが丁寧だったから? もちろんそれもありますが、最大の理由は日本橋が「何度もかけ直された」からなのです。

皆さんもご存じの通り、江戸の町は幾度も火災に見舞われており、日本橋周辺も例外ではなく、橋は何度も焼けています。

最初は、1657(明暦3)年に発生した「明暦の大火」で全焼。その後、火除地や防火堤などの整備が行われたものの、火事の勢いにはかないません。

江戸時代を通じて、日本橋は1858(安政5)年までに全焼が8回、半焼が2回と想像以上の被害を受けています。これはいくらなんでも焼けすぎではないでしょうか。江戸時代は265年でしたから、江戸の大半の住人は人生に1度か2度は日本橋が焼けたところを見ていることになります。

もともと火事が多い江戸の町の中心にあるため、焼けやすいのは事実ですが、だからといって「何年かに一度焼ける」では困りものです。そこで、明治時代になると焼けない橋の建築が始まります。

まず、肥後の石工である橋本勘五郎によって石像の橋がつくられた後、1911(明治44)年に現在の橋がかけられました。

日本の道路の起点として風格のある橋が求められた結果、日本橋は極めて丈夫な橋になり、その後の関東大震災(1923年)や太平洋戦争(1941~1945年)を生き残りました。太平洋戦争の際には焼夷(しょうい)弾が直撃しているのですが、びくともしませんでした。

首都高速道路の地下化予定図(画像:都市整備局)

その後、1963(昭和38)年に橋の上へ首都高速道路が建設されたこともあり、現在の景観は決してよいとはいえません。しかし、首都高速道路の地下化事業が検討されているため、いずれはその優美な姿を取り戻し、これまで以上に通る人たちを魅了してくれることでしょう。

昼間たかし(ルポライター、著作家)

元記事で読む
の記事をもっとみる