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『エヴァ』完結を前に振り返る“1997年” 『Air/まごころを、君に』と『もののけ姫』

  • 2021.1.3
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『もののけ姫』(c)1997 Studio Ghibli・ND

「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」

「生きろ。」

1997年、夏。対照的なキャッチの2つのアニメ映画が劇場公開された。庵野秀明監督作品『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(以下、『Air/まごころを、君に』)と宮崎駿監督作品『もののけ姫』だ。

前者は当時社会現象ともいえるブームとなっていたテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』の完結編であり、後者はすでに巨匠として評価されていた宮崎駿監督の引退作とされていた。師弟ともいえる2人の大作の同時期公開ということで、アニメファンの話題を集める。実際『Air/まごころを、君に』の興行収入は24億円をこえるヒットとなり、『もののけ姫』にいたっては193億円と、当時の日本映画で最高の興業収入を記録した。

しかし『Air/まごころを、君に』も『もののけ姫』も、実はかなり異質な作品だ。前者は実写映像さえ取り込んだある種の前衛さにおいて、後者はそれまでの監督作品では観られなかったリアルな暴力描写において、明らかに過剰といえる。

こうした作品が、これだけ一般性を帯びることができたのは、公開当時の日本で若者を中心に流れていた、“ある気分”にあるのではないだろうか。

両作については様々な切り口での解釈が可能だとは思うが、本稿では20代で2作をリアルタイムで鑑賞した筆者の実感としての“ある気分”について、あの頃を知らない世代のために記しておきたい。

90年代半ば、すでにバブル経済は崩壊したものの、その経済的繁栄を一度知った世間には、身の丈をこえた欲望と閉塞感で覆われた現実との落差に、当時の流行り言葉でいえば「終わりなき日常」に風穴を開ける“何か”を待つ風潮が、漂っていたように思う。

そして1995年、1月17日未明に阪神・淡路大震災が、3月20日の地下鉄サリン事件を契機に起こった一連のオウム真理教事件が起こる。大災害とカルト集団によるテロ事件という、まるでB級映画が抜け出てきたようなこれらの出来事は、退屈な日常を破壊すると思わせるのに十分なインパクトを持っていた。連日テレビや新聞で報道されるその非日常な光景や情報に、同情や社会的正義感を抱きながらも、その実ある種の祭典のような昂揚感を覚えた人も多かったと思う。正直20代半ばだった自分もそのひとりだ。

今にして思えば90年代後半は、80年代の狂騒から覚めて現実に向き合うための準備期間、ある種のモラトリアムの時代だったのかもしれない。その後の長く続くであろう不況や不景気、不穏な未来を見つめたくないという恐れが、世紀末ブームの礎である『ノストラダムスの大予言』にならっていえば恐怖の大王を待望する気持ち、ある種の破滅願望という形で漂っていた。

東日本大震災や福島の原発事故、COVID-19騒動などを経て、普通の生活が“特別”になってしまった2020年の日本においては実感できないかもしれないが、1997年当時潜在的に、普通の生活を退屈として、日常を破壊したいという世間の“気分”は確かにあったと思う。そんななか『Air/まごころを、君に』『もののけ姫』は公開された。

詳しい内容に関しては各作品の本編を観ていただくとして、公開当時は気づかなかったが両作の構造、また終盤の展開は似ている。

エヴァンゲリオン初号機とシシ神の首というマクガフィンを巡る各陣営の対立が頂点に達したところで、そのマクガフィンが超越的な力を発動させる。神に等しい存在となったエヴァンゲリオン初号機は人類の自我を融合させようとし、首を失ったシシ神は巨大なディダラボッチとなって森とタタラ場の住人の命を吸い取ろうとする。こうした展開は、先述した破局への願望、退屈な日常を壊してくれる強烈な一撃。恐怖の大王を待望する“気分”を象徴していたのではないだろうか。

庵野秀明監督は『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』の中で『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズのドラマやキャラクターについて、そして社会や時代からの作品への影響について、こう語っている。

「ノンフィクションですよね。自分が今やっているのは。(中略)エヴァは実はドラマというより、ドキュメンタリーに近いですね」

「僕のアンテナが、要するに自分自身には何もないので、無意識に社会を反映できるというのがあるのかもしれない」

一方の宮崎駿監督も、インタビュー集『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』のなかで、『もののけ姫』制作当時の心境について、こう語っている。

「いや、僕は人間を罰したいという欲求がものすごくあったんですけど、でもそれは自分が神様になりたいんだと思っているんだなと。それはヤバいなあと思ったんです。それから『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督)なんかは典型的にそうだと思うんだけど、自分の知ってる人間以外は嫌いだ、いなくてよいという、だから画面に出さないという。そういう要素は自分たちの中にも、すごくあるんですよ。時代がもたらしている、状況がもたらしているそういう気分を野放しにして映画を作ると、これは最低なものになるなと思いましたね」

時代や状況の影響について庵野秀明監督は「無意識に」と言っているのに対して、宮崎駿監督は自覚的であり、批判さえしているのが興味深い。

『もののけ姫』が当時の空気を取り込んだうえで、その空気に対するカウンターパンチを込めて、より普遍的なファンタジーへと昇華させたとしたら、『Air/まごころを、君に』はドキュメンタリー映画のようにままならない現実の理不尽さも含めて、物語に表現に空気を直接焼き付けているというところだろうか。実際いま両作を観直してみると、『もののけ姫』が1作のファンタジー映画として楽しめるのに対して、『Air/まごころを、君に』にはいまだ閉塞感が色濃く漂い、公開当時の“あの気分”が自分の中によみがえってくるように感じた。

折しも「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」完結編『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開にあわせて、『Air/まごころを、君に』が23年ぶりに劇場公開される。“あの気分”を知らない若い世代が、同作を観てどのような感想を抱くのか、知りたい。

もちろん宮崎駿監督が、現在制作中の『君たちはどう生きるか』で、今度はどんな気分へのカウンターパンチを見せてくれるのかも気になるところだ。

(倉田雅弘)

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