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東京都内に「シルクロード」があった! 場所は八王子、いったいどこ?

  • 2020.12.27
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シルクロードと言えば中国ですが、なんと八王子の山中にも「シルクロード」があるのをご存じでしょうか。明治地形散歩ライターの内田宗治さんが解説します。

山中にある約1kmの未舗装の道

中国とヨーロッパを結ぶ古代の通商路として、世界的に名高いシルクロード(絹の道)。それよりも距離はずっと短いですが、都内にもかつて絹(生糸)を運搬する商人が盛んに行き交い、現在は往年をしのんで「絹の道」と名付けられている山道があります。

この道がにぎわったのは、幕末に横浜港が開港してからのわずか二十数年間だけ。以後、かつての姿が幻であったかのようにほとんど忘れ去られ、道沿いにわずかな栄華の跡だけが残っています。

八王子市街を見下ろす鑓水峠付近の「絹の道」。2020年12月撮影(画像:内田宗治)

場所は八王子市街から南へ約4km、八王子市鑓水(やりみず)付近、約1kmの未舗装の山道です。

当時八王子を起点に鑓水峠を越えて、横浜へと多くの絹が運ばれました。鑓水付近の1kmはその一部の区間で、住宅地化されていない森の中を通り、往時の姿を残しています。そんな鑓水峠付近から絹の道資料館(八王子市鑓水)付近までの約1kmが、文化庁による「歴史の道百選」(浜街道~鑓水峠越)に選定されています。

この日本版「絹の道」の歴史をひもといてみましょう。

八王子は江戸時代中頃から「桑都(そうと)」と言われ、一帯は養蚕、製糸、織物が盛んでした。糸を吐いて繭を作るカイコ(蚕)を育て(養蚕)、繭から生糸を繰り出し精錬して絹糸にして(製糸)、しま模様などの布に織る(織物)産業です。カイコは大量の桑の葉を食べて育つので、周囲には桑畑が広がっていました。桑都の名は、これらのことから付けられたものです。

鎖国が解かれて横浜港が1859(安政6)年、アメリカ、イギリスなど5か国に向けて開港します。生糸はすぐに輸出品の花形となりました。

生糸でもうけた「鑓水商人」の誕生

生糸が欧米から注目されたのは、その頃ヨーロッパでカイコの病気である微粒子病が流行し、生糸産業が大打撃を受けていたこと、および日本産の生糸が安かったためです。

カイコはふ化してからひと月ほどで糸を吐き、生産者は短期間で利益が得られるので、養蚕は東日本を中心に多くの地域の農家に広まりました。

八王子付近では、財力のある一部の農民が近隣農家からの生糸を集めて八王子で開かれる市などで売り、生糸商人として成長していきます。

その年にできた桑の葉の具合や、投機筋の意向などにより、生糸相場は変動します。八王子市街から山ひとつ越えた鑓水は、後述するように生糸の産地としては横浜に近いという地の利があり、富豪となった生糸商が4~5家生まれ、彼らは鑓水商人と呼ばれるようになります。

1874(明治7)年、鑓水商人たちは八王子市街を見下ろす鑓水峠に、東京の浅草にあった大雄山最乗寺道了堂の分霊を祭って道了堂を創建します。

道了堂跡の「絹の道」の石碑。2020年12月撮影(画像:内田宗治)

満開の桜の時期など参詣人でおおにぎわいとなりました。鑓水集落には鑓水商人の館が点在し、中でも八木下家の館は50mに及ぶ石垣で囲まれ、「石垣大尽」との異名をとり、「異人館」と呼ばれた洋館も建っていました。

八王子から横浜まで運ばれた大量の生糸

東北地方・群馬県産の生糸は、利根川や海路の舟運で江戸などを経て横浜へ運ばれたのに対し、多摩地方・埼玉・山梨産の生糸は多くが八王子に集まり、そこから鑓水(絹の道)・町田経由で横浜へと運ばれました。八王子から横浜へは、甲州街道で江戸・東京を経由するより鑓水経由のほうが、ずっと短距離のためです。

礎石だけが残る道了堂跡。2020年12月撮影(画像:内田宗治)

鑓水商人の全盛期にあたる1879年の例では、国内全輸出総額のうち蚕糸類が44%にものぼっています。また全国の生糸売り込み量のうち武蔵国産だけでも約12%を占めています。おおざっぱな計算ですが、日本国の輸出額のうち5%以上が、この「絹の道」を通って運ばれた生糸によって稼ぎ出されたと推定できます。

鑓水から先は、現・JR横浜線橋本駅付近を通り、現在の横浜線沿いや国道16号沿いのルートで横浜へと運ばれました。

近代化で失われた鑓水の優位性

しかし、鑓水商人は明治10年代後半に没落してしまいます。多くの地域では鉄道開通が陸運の革命となるのですが、甲武鉄道(現・JR中央線)新宿~八王子間の開通が1889(明治22)年、横浜鉄道(現・JR横浜線)八王子~東神奈川間の開通が1908年なので、鑓水商人の没落はそれより早く訪れています。

電信の普及が大きな一因でした。電信により横浜の生糸相場がどの地域でも一律に得られるようになり、横浜に近く相場を早く知ることができ、相場に応じて生糸を早く届けられるという鑓水の優位性が失われてしまったわけです。

鑓水には「浜見場」という高台があり、のろしによって相場を迅速に知らせていたとも推定されています(『新八王子市史』通史編5より)。さらに鉄道の開通や、大工場での機械製糸の普及も没落に拍車をかけました。

絹の道資料館。石垣は八木下家の館時代からのもの。2020年12月撮影(画像:内田宗治)

道了堂は次第に荒廃し1983(昭和58)年に解体され、木々に覆われた山頂の境内に礎石だけが残っています。鑓水の豪商の館も八木下家の石垣だけが残り、同地に現在絹の道資料館(入館無料)が建てられています。

「絹の道」は、歴史好きにも自然散策好きにも、興味深い場所となっています。

内田宗治(旅行ジャーナリスト、地形散歩ライター)

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