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日本史上最後の征夷大将軍 徳川慶喜

  • 2020.12.27
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大政奉還を行った第15代将軍徳川慶喜。教科書にも出てくるので、彼の名前を聞いたことがないという人は、まずいないでしょう。

子ども時代とても秀才だった慶喜は、周囲の大人から将来を期待されました。将軍となって椅子を温めることなく、主権を返すし、いざ鳥羽伏見の戦いが始まると、一部の家臣と側使えだけをだまして連れ出し、船で江戸へ逃れます。この敵前逃亡と、明治以降は、生活に苦労する旧家臣たちに見向きもせず、趣味に没頭したため、幕末維新を語る際に、外すことのできない要の一人でありながら、辛い評価が目立ちました。

その実はどうだったのか、ホロスコープと事象を読みながら、今回は日本史上最後の将軍徳川慶喜を、考察したいと思います。

いつものごとく、略歴(ウィキその他資料参考)&ホロスコープです。

徳川慶喜略歴

1837年10月28日(天保8年9月29日) 江戸の小石川水戸藩邸で第9代藩主・徳川斉昭。有栖川宮織仁親王王女・吉子女王(正室)の七男として誕生。幼名は松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)。生後間もなく水戸へ移住し、幼少期を過ごす。

1847年(弘化4年)一橋家を相続。将軍徳川家慶に、”慶”の名を賜り、徳川慶喜を名乗る。約一年後、一条美賀子(正室)と婚約。

1853年(嘉永6年) 第一回目の黒船来航。第12代将軍徳川家慶薨去(享年51歳)。直系の大四男徳川家定が第13代将軍となるが、病弱なため後継問題が起こる。

1858年(安政5年) 2度目の黒船来航。天皇の勅許なく、井伊直弼は日米修好通商条約の調印をする。第13代将軍徳川家定薨去(享年35歳)。紀州藩主の徳川慶福が、第14代徳川家茂将軍となる。

1859年(安政6年) 隠居謹慎処分が下る(安政の大獄)

1860年(安政7年) 桜田門外の変で井伊大老が暗殺され、謹慎が解かれる。

1862年 (文久2年) 勅使と共に上京してきた薩摩藩主島津茂久の父久光に 将軍後見職に任命され、文久の改革を断行する事になる。

1863年(文久3年) 家茂将軍の上洛に先駆けて上洛。朝廷と交渉する。

1864年(元治元年)将軍後見役を辞任して禁裏御守衛総督に就任。禁門の変 守備軍を指揮する。

1865年(慶応元年) 兵庫開港要求事件

1866年(慶應2年) 第14代将軍徳川家茂薨去(享年20歳)。 慶喜、第15代将軍に就任。

1867年(慶應3年) 孝明天皇崩御(35歳)。四侯会議。11月9日(10月14日)大政奉還により政権を返上。王政復古の大号令。

1868年(慶應4年・明治元年) 鳥羽伏見の戦い開戦。開陽丸で江戸に逃亡。江戸に到着後、事態収束を勝海舟に任せ、寛永寺にて謹慎。江戸城無血開城の後、水戸へ帰る。

1869年(明治2年) 謹慎を解除されて静岡に居住。渋沢栄一等、一部のものしか会わない生活を続ける。

1897年(明治30年)静岡から東京巣鴨に移住。翌年には明治天皇に謁見。

1902年 (明治35年)徳川慶喜家を興し、貴族院議員となる。

1910年 (明治43年)家督を七男・慶久に譲り隠居生活。

1913年(大正2年)11月22日 急性肺炎にて死去。享年77歳。

ホロスコープ1837年10月28日 江戸 (現在の文京区小石川)

太陽星座 ♏ 4°30

月星座 ♎ 18°37

第1室 本人の部屋 ♑ ♆(♒5°27)

第2室 金銭所有の部屋 ♓ ♅(4°41R)

第3室 幼年期の部屋 ♈ ♇(15°31R) ☊(22°29)

第4室 家庭の部屋 ♉

第5室 喜びの部屋 ♊

第6室 健康勤務の部屋 ♊

第7室 契約の部屋 ♋

第8室 授受の部屋 ♍ ♃(12°23)

第9室 精神の部屋 ♎ ☿(18°10)☽(18°37)☀(♏4°30)

第10室 社会の部屋 ♏ ♄(17°59)♂(♐3°25)

第11室 友人希望の部屋 ♐ ♀(15°16)

第12室 障害溶解の部屋 ♐

3・2・1・11・10・9・8室に、星が集まっているのを見ると、社会的なことも大事だけど、我が道を行く感覚が強い傾向アリ。

♏の☀は、第9室精神の部屋にあって、人やモノの本質を見抜く力。社交さえ面倒がらなければ、交易などで成功できる可能性をもたらしています。

そして、この☀を背にした☽と☿。これは♎になりますが同じく第9室。誕生日が一日ずれれば新月生まれでしたが、二十六夜月。これは江戸時代だけでなく、日本史上最後の征夷大将軍という立場で、緞帳を降ろす役を司ることを暗示するような感じにも見えます。

☽はその人の心理と、幼年期を表示しますが、8歳より先の学び盛りの少年期を観る☿と風の合。幼い頃から利発で、どこかスマート。両親や先生をはじめ、周囲の関心をばっちりと引くのは、向かい合う第3室幼年期の部屋にある♈の☊♇の合と、オポジションを組んでいるのも一役買っているからでしょう。

☊は大衆。♇は♏の守護星。慶喜にとって縁深い星で、どちらも第11室の♐♀とトリンを形成し、人の目を引く魅力をもたらしています。

第12代将軍徳川家慶の目に留り、一橋家の養子になるだけでなく、将軍後継者にしたいと思わせたこと。その後も彼を将軍の座に据えたいと願う人たちが絶えなかったのは、この4本のオポジション。そして☊♇と♀が、順調な角度を取っていたからかもしれません。

オポジションはもう一つあって、授受の部屋である第8室♍の♃と、所有の部屋である第2室♓の♅。♃と♅の組み合わせは、物事を倍加させます。このオポジションは、人生の拡張機能のような存在なのでしょう。それだけに良い時と、暗雲漂う時の落差。彼を巡る人間模様の色分け。また慶喜自身に極端な行動を取らせたのもあったのかもしれません。

社会の部屋である第10室には、物事に対して抑制効果の高い♄と、獲得意欲の♂があり、♂は♅と緊張角度を持ちますが、♆とは穏やかな角度を取っています。♄も♃と調整の角度を取っているのを見ると、感情的ではなく、慎重な判断の元、大政奉還や王政復古の道を進んだのかもしれません。

☀とメジャーアスペクトを取るのは♅と、第1室にある♒の♆。

現実主義者な面と、お茶目な面も有する慶喜ですが、第1室♒の♆と☀の緊張角度が、時に味方さえ翻弄させてしまい、評価を下げた要因になっているともとれます。

武家と公家のハイブリッド。☽と☿が効果を発揮する幼年期。

慶喜の幼名は松平七郎麻呂。(本編は慶喜で名前を統一します)

お江戸小石川にある水戸藩の藩邸で、水戸徳川家9代目藩主・徳川斉昭と、正室の吉子女王(有栖川宮織仁親王第12王女)の七男として、誕生します。

水戸徳川家は、尾張徳川家と紀州徳川家に並ぶ徳川御三家の中でも、将軍に万が一あった際、代役として機能する盾の役を担っているため、藩主は江戸常駐が多く、参勤交代を行わない藩でした。

将軍家と密接でありつつ、第2代藩主光圀(みんな大好き水戸黄門)の影響も大きく、「もし、朝廷と徳川宗家との間に戦が起きたなら、ためらうことなく帝を奉ぜよ」という教えを重視してきた勤皇色の強い家系だったのです。

父の斉昭は水戸の偕楽園。藩校弘道館の創設者でもありますが、部屋住みという立場が長く、家督を継いだのは30歳を迎える頃でした。そのため側室はいましたが、正室を持てなかったのです。

吉子女王が斉昭の元に降嫁したのは、彼が家督を継いだ1年後でした。斉昭の年齢も高めでしたが、吉子女王の年も28歳と、この時代ではかなり遅い年齢同士の婚姻です。 縁談話は彼女の姉である喬子女王の肝煎りで進み、仁孝天皇(孝明天皇の父)も快く勅許されました。夫婦仲はとても良かったそうです。

このような経緯を背景に、慶喜は徳川家の血筋を持つ父と、公家の血筋を持つ母の元に、同胞の兄弟のみならず、異母兄弟もざっと30人以上いる中に生まれました。

「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という、光圀公の教育方針を守り、生後7ヶ月から10歳になる頃まで、慶喜は水戸で過ごします。

弘道館で学問と武術を習いますが、その才能を講師陣に注目され、父の斉昭は後継ぎである長男・慶篤のサポートとして、出来の良い七男を手許に置くことを考え、松平昭致(まつだいら あきむね)という偏諱を送りました。

しかし、その秀才ぶりは、第12代将軍徳川家慶の目に留まり、徳川御三卿の一橋家(第8代将軍徳川吉宗の四男徳川宗尹が始祖)の養子になることが決まってゆきます。

10歳で江戸へ上がると、家慶将軍から名の一字「慶」を授かり「徳川慶喜」を名乗りました。翌年には正室として、公家から一条美賀子を迎えます。

慶喜の幼年期&少年期は、周囲に将来を期待させる魅力、利発さを放っていましたが、運勢的な要因として☽と☿。そして実母、吉子女王も関わっているのかもしれません。

吉子女王1804年10月28日〈文化元年9月25日〉生まれ。

親子なので当前といえば当然ですが、慶喜と吉子女王の写真を見ると、似ているのがわかります。そんな親子の似た部分、実はホロスコープにも出てくるケースがあります。

特にこの母と息子は、出生地と生まれ年こそ違え、誕生日は同じ月日。当然、☀同士は蠍座で重なります。

それだけではなく、慶喜の☽☿には吉子女王の☿♅が合。

年齢域で観るなら、☽は幼年期(0歳~7歳)。

☿は少年期(7歳~15歳)。学問好きな母の影響も大きかったのでしょう。また、慶喜の♃と♅のオポジションに、吉子女王の☽(♍)と♇(♓)のオポジションが重なります。

慶喜の♄に吉子女王の♃が合となるのを見ても、かなり強い結びつきが見えてきます。

吉子女王自身は、和歌をはじめ有栖川流書道の他、手芸や雅楽を得意とする才女で、薙刀や乗馬の訓練にも励む行動派。水戸に移って以降は、城の堀で釣りを楽しんだといわれています。豪胆で多趣味な女性だからこそ、艶福家の夫斉昭に仕え、側室たちが産んだ庶子たちの教育にも、目を配ることができたのでしょう。

子ども時代の慶喜は、多くの兄弟と切磋琢磨しながら、才女である実母をはじめ、周囲の期待と寵愛をまんべんなく受けて育ちました。しかし、15歳で元服をして以降、家慶将軍が、重い病に伏せた夏1853年7月8日(嘉永6年6月3日)。

蒸気船を含む4隻の艦隊が、浦賀沖に姿を見せて以降、状況や立場が変わってゆきます。

黒船問題と世継ぎ問題に揺れる徳川幕府。

アメリカ政府の親書を携え、開国を求める東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー。

将軍が伏せているため、重大事を決められない幕府側は、やむなくペリーに久里浜への上陸を許し、開国について改めて話し合う事を約束。艦隊の方も補給の都合上長居ができず、一先ず帰ってもらうことができました。

この約10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)。第12代将軍家慶が薨去し、定められた通り徳川家定が第13代将軍に就任します。

これまでも日本各地の沿岸で、外国船が騒動を起こすことはありましたが、大型の蒸気船が来たのは初めてでした。アメリカ艦隊が日本を離れたのを見透かすように、ロシア艦隊が通商を求めて、長崎港に入り2ヶ月近くいすわります。

異人嫌いな孝明天皇を筆頭に、国内には攘夷論が高まる中、江戸城では+α新将軍が病弱なため、将軍継嗣問題が再浮上したのでした。老中阿部正弘は、水戸藩主徳川斉昭(慶喜の実父)・薩摩藩主島津斉彬・越前藩主松平春嶽と共に一橋派として、かつては自分が反対した徳川慶喜を次期後継者に推します。

今の時代なら高校生。当時は元服を済ませて大人扱いな16、17歳。年齢域では♀の時期(15歳~25歳)に当たります。慶喜の♀は第11室♐。

正妻や側室との関係や、内心は楽しいことを追いかけて気楽にしてたかったのかなと、気になりますが、将軍職候補に選ばれたのも、華々しい♀効果の一つでしょう。

選ばれたものの、道は険しく、有力なバックアップであった阿部正弘に続き、薩摩藩主の島津斉彬までが死去してしまい、一橋派が求心力を失います。

井伊直弼が大老に就任したことで、第14代将軍は、家定の従兄弟で当時13歳の紀州藩主徳川慶福(家茂)に決定しました。

この展開に斉昭をはじめ、悔しがる者もいましたが、当事者の慶喜は、このような言葉を父斉昭に送っています。

『骨が折れるので将軍に成って失敗するより、最初から将軍に成らない方が大いに良い』出世への欲がないのか、♎の☽と☿のバランス感覚が利いていたのか、非常に冷めていて、これが彼の本心なら、将軍になる気はなかったということになります。

むしろ慶喜を激怒させたのは、再びやってきた黒船を前に、朝廷からの勅許を得ないまま、井伊が日米修好通商条約に調印したことでした。

この条約調印は、佐幕派と勤皇派のどちらから見ても、井伊(=幕府)が皇室をないがしろにした行為と映ってしまい、不興を買ったのです。

後に明治政府が、改定に心血を注ぐこととなった日米修好通商条約ですが、この時はアメリカとの締結を急ぐ事情が、幕府側にもありました。

アメリカとの調印を見送ったところで、蒸気船を開発した西洋諸国は、さらなる植民地拡張を巡って、まだどの国の統制下にも属さない日本に、開港を迫ってくるのは目の前の現実だったのです。特にアロー戦争がそろそろ終わるイギリス軍は、タウンゼント・ハリスの脅しを差っ引いても、日本に来る可能性が最も高く、警戒の対象でした。

頻発する地震や流行り病への財政出動が続く幕府には、朝廷をはじめとする攘夷派が言うほど、外国勢と戦を交えて勝てる財力。そして近代武器がありません。

彼らと戦えば植民地化される可能性が上がるだけで、益はないのです。これを避けるために、幕府はアメリカに後ろ盾となってもらうメリットを優先したのです。

朝廷がすんなりと勅許を出すはずもなく、返事を待つ余裕もなかった幕府と、開国を嫌う者たちの間で、現実への温度差が埋まらないまま、条約は締結されました。

勤皇onlyだった慶喜も、この時は一橋派の者たちと共に、江戸城で井伊直弼を捕まえて詰問しています。これが元で後日、全員に安政の大獄による隠居謹慎処分が下されました。

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたことから、謹慎は一年弱で長期化はしませんでしたが、慶喜が、再び脚光を浴びるのは、2年後の1862年(文久2年)。 25歳を迎える頃で、1867年大政奉還を行った時が30歳。幕末維新の出来事は、個人の☀が、その力を一番増す(25歳~35歳)年齢域の時期になります。

幕末の動乱と共に輝く太陽の時期

それは朝廷からの勅使・大原重徳の随行として、薩摩藩の島津久光が、薩摩藩兵を率いて江戸城に入ってきたことから始まりました。

・攘夷を行うための話し合いをするため、将軍・徳川家茂の上洛を要請。

・沿海五大藩を五大老として、国防に当らせる。

・一橋慶喜を将軍後見役に、松平慶永を大老職あるいは政事総裁とする。

上の2件が朝廷からの要請。最後の人事案は、久光公の案と言われています。 外国を打ち払わず煮え切らない幕府に、孝明天皇をはじめ攘夷を正義とする者は、しびれを切らしていました。その声を代表して、久光は幕政改革をするために来たつもりなので、悪意はなかったのです。

幕臣たちからすれば、余計なお世話で、彼はなき薩摩藩主の兄弟に過ぎず、朝廷からの勅使の随行だから対応しただけなのに、大きな態度を取られたことから、総じて気分は最悪でした。

松平春嶽は政事総裁職に就任し、慶喜は将軍後見職の地位を与えられ、会津藩の松平容保が、京都守護職を命じられたのもこの改革によるものですが、「やらされた感」が拭えないままの改革だったのです。

第14代徳川家茂将軍の上洛が決まると、孝明天皇の無謀な攘夷を止める為に、将軍名代として、慶喜は先に京都へ赴きました。謹慎が解かれて以降、幕府と海外勢との交渉を身近で見た結果、下手な攘夷は国を亡ぼすことになるのを理解しました。強引さは目立つものの、朝廷と幕府の間に立って開国を進めるために働きます。

1864年(元治元年)は慶喜にとって、大きな転換の年となりました。

将軍後見職を辞任して、禁裏御守衛総督に就任した慶喜は、長州藩の志士たちが起こした禁門の変で、帝に向かって弓を引く敵と見なし、直接容赦なく斬っています。

これまでは勤皇派の志士たちに対して、理解と寛容な態度を示していましたが、それがなくなり、保守系の会津藩・桑名藩の藩主と公武合体の提携を求めました。

第一次長州征伐後、安政五カ国条約の勅許を得るため、再度朝廷に対して直接交渉を行いました。自身の切腹も視野に入れた末、神戸港の開設はできなかったものの、一昼夜にわたる会議で勅許を得て成功を納めます。

大政奉還で止まらなかった♇が語る新旧交代劇

第二次長州征伐(1866年慶応2年)は、薩摩藩をはじめ、佐賀藩や広島藩は出兵を拒否。

さらに禁門の変以降、朝敵として孤立していたハズの長州藩が、新型の銃をふんだんに使って、幕軍を迎え撃ったのです。

第一次の時と、すべての様子が一変し、刀と旧式の兵器で戦う幕府軍は総崩れとなる中、大阪城で指揮を執っていた家茂将軍の薨去が、幕府に追い打ちをかけます。

慶喜はすぐさま朝廷に働きかけ、休戦の詔勅を引き出すと、戦にこだわる周囲を押し切る形で、休戦協定を締結しました。戦を抑えた後、家督問題が浮上。

徳川宗家の相続には応じた慶喜ですが、将軍職に就くことは拒み続け、家茂将軍の死から約4ヶ月。師走を迎える頃に、ようやく第15代将軍に就任。 そして孝明天皇が崩御して慶応2年は終わりました。このため慶応2年は、歴史的にも、慶喜にとっても大きな節目でした。

因みにTの♇が、♉の15°を航行。慶喜のN☀と♄は、T♄と合。Tの♇とオポジションなので、根幹の入れ替えを告げるような形です。

明治天皇が継承して迎える1867年(慶応3年)。

朝廷との連携を重視する慶喜は、二条城に留まり、政治スタンスの違いで、対立していた改革派幕閣とも連携します。フランスの支援と協力の元、造船所の設立や軍制改革を進めました。自身の名代として、徳川昭武をパリ万博に向かわせ、有能な若い幕臣の留学も行います。

神戸港の開港許可をようやく取り付け、各国の公使から信頼を得ていきました。国内に薩長と一部の公家が、より討幕色を強めて国内に国家転覆の雰囲気が漂う中、土佐藩主山之内容堂が、国内紛争を収める妙案をまとめた建白書を持ってきます。

その案とは、幕府が収めている大政を朝廷に返し、権限を一元化。朝廷に議事堂を設置し、公家や武家、庶民の別なく、選挙によってえらばれた議員がそこに集まり、国のことを決めてゆくというものでした。

これが「大政奉還」の大本で、徳川幕府を終わらせる話です。

幕府がなくなれば、薩長は倒すべき対象を失うので、挙兵はできません。

この建白書を提出することは、薩摩藩の志士も知っていましたが、これで慶喜が大政奉還を拒否することで、討幕の名目が立つ。と、踏んでいたのです。

ところが幕府と薩長の争いが長引くことで、戦乱になることは最大のマイナスであり、外国勢の侵入も許すことになると踏んでいた慶喜は、あっさり承諾。

1867年11月9日(慶応3年10月14日)岩倉具視を中心とした数名の公家が、薩摩藩と長州藩に討幕の密勅を下した日、慶喜は大政奉還を行います。

将軍から権利返上が行われたため、討幕は急遽延期となりました。

渋沢栄一著の『徳川慶喜公伝』によると、山之内容堂に大政奉還の案を託した坂本龍馬は、潔い慶喜に感動し「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな。余は誓って公の為に一命を捨てん」と、労いの言葉を述べたとあります。

長い間政治から遠ざかっていた朝廷が、いきなり適切な行政を機能させることは難しく、大政奉還後の政治体制について、後日の諸侯会議によって定めることとし、慶喜も幕閣もポストは大きく変わらず継続となったのです。

武力倒幕の大儀を失った薩長両藩と討幕派の公家は、これで引き下がりませんでした。

坂本龍馬と中岡慎太郎が、何者かに暗殺された後の、1868年1月3日(慶応3年12月9日)。薩摩藩を筆頭に御所内で政変を起こし、王政復古の大号令を出します。

これによって江戸幕府は急に廃止され、慶喜以下幕臣はリストラ。

代わりに総裁・議定・参与の三職を置いて、岩倉具視が仕切っていきます。

横暴なやり方に幕臣が暴発することを案じた慶喜は、桑名と会津の藩兵と大阪へ移動しつつ、話し合いによる収拾を図りますが、1868年1月27日(慶応4年1月3日)。

ついに鳥羽伏見の戦いが始まったのでした。

慶喜のN☀と♄にT♇がしっかりと引っ張っています。そしてN♇に、T♂☀が緊張角度。

他にも気になるアスペクトはありますが、かなり重くのしかかっている感じです。

薩長と旧幕軍が戦う中、朝廷では緊急会議が開かれていました。

大久保利通は「徳川征討の布告と錦旗の掲揚が必要」、松平春嶽は「薩摩藩と旧幕府勢力の私闘に対し、朝廷は中立を保つこと」を求め、両者対立する中、議定の岩倉具視が徳川征討に賛成して、方向性が定まります。

翌日、朝廷は錦旗と節刀を仁和寺宮嘉彰親王に与えました。これで薩摩軍と長州軍は官軍となり、薩土討幕の密約が機能し、土佐藩兵が官軍として参戦してゆきます。

近畿の御旗を振り、最新鋭の兵器で戦う官軍を前に、旧幕軍は苦戦する一方でした。

負け戦でも「徳川家を守る」意志で固まり、引くことができない幕臣たちを前に、「最後まで戦い抜け」という言葉をかけますが、彼らと共に戦うことはしませんでした。

一部側近と妾たち。老中二人と会津藩主松平容保。桑名藩主松平定敬(慶喜の実弟)は、「一緒に来い」と気軽に言われたから、散歩をするのだろうと、慶喜について港に行ったそうです。なので全員軽装。

そのまま開陽丸に乗り込むと、船が港を離れ愕然。 開陽丸艦長だった榎本武揚は、船を取られて愕然。

戦場に多くの家臣を残したまま、慶喜は船で江戸に向かったのでした。

この敵前逃亡が、慶喜の評価を致命的に落としています。

慶喜は自身のことを多く語らないため、推測でしかありませんが、いきり立つ家臣を抑える術はなく、薩長はゆるせない。だけど朝廷に刃を向けることができなかったのかもしれません。

彼が鳥羽伏見の戦いに固執すれば、相当ひどい戦になったという見方もありなので、「正しい」「間違っている」に関しては言えません。

いずれにしても、負け戦の戦場に家臣を残したまま、慶喜に付き合わされた藩主二人と、船を取られた榎本武揚は、とんだトバッチリでした。

翌日、正式に徳川慶喜追討令が下り、旧幕軍は完全に朝敵となったのです。

江戸に着いた慶喜は、宗家は田安亀之助(後の徳川家達)に譲り、幕臣たちに朝廷への恭順を主張。すべての事態収拾を勝海舟(陸軍総裁)に一任すると、上野寛永寺大慈院で自主謹慎を始めます。幕臣たちが箱根と駿河湾で薩長軍を殲滅させる計画を伝えますが、首を縦に振りませんでした。

勝海舟は英国外交官パークスとコンタクトを取り、慶喜の助命と、官軍が江戸を攻撃しないよう協力を持ちかけました。 官軍がどうしても江戸総攻撃をするなら、住民すべてを避難させ、町に灯を放つ計画を、勝海舟は浅草界隈を束ねる「を」組の頭新門辰五郎と、既にしていたのです。

慶喜を高く評価していたパークスは、勝海舟の人柄と実行力も理解し了承しました。

西郷と勝の会談と江戸城無血開城が進んだ裏には、イギリスと江戸の町火消しも、一役買ったのです。新門辰五郎は、上野大慈院別当・覚王院義観も認める人物でした。

慶喜とも信頼が厚い間柄で、娘の芳は慶喜の側室となっています。 イギリスは薩摩側でしたが、自ら城を明け渡して謹慎をする慶喜を、討つことは「恥である」と擁護しました。さらに、官軍としても避難させるつもりだった篤姫と和宮。

どちらも徳川家の人間として、江戸から出ないと言い張ることから、さすがの西郷隆盛も、江戸総攻撃を諦めざるを得なくなりました。

徳川の拠点を攻撃できず、首も取れない。官軍にとっては収まりのつかない状況になり、身代わりのように勢いが向けられたのが、北越戦線、会津戦争だったのです。(話し合いによる解決って、本当に難しいですね)

1868年5月3日(慶應4年4月11日)江戸城が新政府に明け渡されました。

寛永寺にいた慶喜は、水戸に向かいます。上野にいれば旧幕臣たちの起爆剤になりかねず、戊辰戦争が続く中、弘道館で謹慎生活を続けました。

夏には徳川家が駿府(現在の静岡県)に移されることに合わせて、駿河の宝台院に移ると、旧幕臣とは全く関わらず、謹慎を続けました。 この時慶喜31歳。歴史の転換であり、中心人物でもある彼は、かなりドラマチックな☀年齢域を過ごしたと思います。

1872年(明治5年)35歳で従四位に復帰しますが、これが♂年齢域(35歳~45歳)のはじめ。以降、♃年齢域(45歳~55歳)も含め、囲碁や将棋をはじめ写真など、様々な趣味を楽しむ生活をします。コーヒーや洋食も好きで、好んで食べたとか。

旧幕臣は生活苦に苛まれ、和宮や篤姫は彼らの支援もしましたが、慶喜は救済に関わることなく過ごしました。西南戦争をはじめ、きな臭い時期もある明治時代。

下手に関わることで、国家転覆を企んでいると誤解される危険もあって、余計に何もしなかったのかは、定かではありません。 深く付き合うのは、ほんの一握りの人たちだけに限っていました。 その一人が渋沢栄一です。

60歳(♄年齢域55歳~70歳)となる1897年東京に戻りました。翌年には有栖川宮の配慮で、皇居(旧江戸城)にて、明治天皇へ拝謁しています。

5年後には公爵となり、貴族院議員として再び政治に関わる立場に戻ります。本家である徳川家とは別に、徳川慶喜家も興すことができました。

一旦取り上げられたものが、まるで戻ってくるような時期で、慶喜にとっては恨み解きのような時間だったかもしれません。♄年齢域の良い部分ともいえます。

7年ほど頑張って隠居した後、1913年(大正2年)11月22日、76歳(70歳~84歳)♅年齢域で人生の幕を閉じますが、立場によって評価が全く変わる徳川慶喜。

歴史の主線にいた彼の切り口を変えたら、まったく新しい幕末ドラマが作れる要素があると思います。

今回はホロスコープだけでなく、惑星の年齢域も当ててみました。 歴史的に際立った人物の半生を見ながら、星を当ててゆくととても良い勉強になります。

お話/緑川連理先生

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