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アジア文化を丸ごと飲み込む「新大久保」 駅の右と左で異なる街並みが映し出す近未来ニッポン

  • 2020.12.17
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駅の出口から右に行くか、左に行くかでまったく印象の異なる街、それが新大久保です。そんな新大久保の魅力について、アジア専門ライターの室橋裕和さんが解説します。

新大久保駅を出て、右に行くか、左に行くか

一見するとコリアンタウンのように見える新大久保。しかしよくよく歩いてみると、女子でにぎわう「韓流エリア」はそう広くない範囲に集中していることがわかります。

JR新大久保の駅を出て、目の前の大久保通りを右に。交差点のあたりから韓国のレストランやショップが密集するのですが、それも300mほどにすぎません。あとは大久保通りから南に延びるイケメン通りと、その先に横たわる職安通り、細かな路地にも韓流の店が点在していますが、ざっくり300m四方でしょうか。

そこから少し離れると、まったく違った新大久保の顔が現れるのです。

JR新大久保の駅を、左に折れてみましょう。大久保通りを渡った先のマツモトキヨシがある路地を進めば、すぐにスパイシーな香りが漂ってきます。彫りの深い顔立ちをした、南アジアや中東の人々が行きかいます。

上下真っ白い服に身を包んだイスラム教徒、派手な民族衣装のアフリカ系の人、にぎやかに通り過ぎていくベトナム人や中国人の留学生、どこからか聞こえてくるインドのポップ・ミュージック……まるで異国にトリップしたかのようです。

新大久保の名所「イスラム横丁」。イスラム教徒だけでなくさまざまな人々が行きかう(画像:室橋裕和)

このかいわいはスパイス店の上階にモスク(イスラム教の礼拝所)もあり、イスラム教徒が集まってくることから「イスラム横丁」と呼ばれています。しかし実際のところ、ほかにも多種多様なアジア系の人種・宗教が混在し、生活をする、多民族集住地域となっているのです。これが新大久保のいまの姿なのです。

コロナ禍で注目された「日本の中の異国」

新大久保駅の「右側」、つまり韓流エリアは2000年代に入ってから観光地として発展してきた場所です。

2002(平成14)年の日韓共催のワールドカップ、2003年のドラマ「冬のソナタ」にはじまる韓流ブームを受けて急増した日本人観光客の需要に応えるため、さまざまなショップやレストランがつくられていきました。いわば、テーマパーク的コリアンタウンといえます。

一方で「新大久保の「左側」は、東南アジアや南アジアを中心とする外国人たちがたくさん暮らしています。彼らの日々を支えるさまざまな店が並ぶ、「リアルな生活の街」なのです。いまではアジアの下町のようにもなっています。

スパイスをはじめとしたさまざまな調味料や食材を売る店、現地そのままの味のレストラン、インドやネパールの食器やお香などを売る店もあれば、ネパール人や中国人の女性相手の美容室、サリーやアクセサリーの店もあります。送金会社はコンビニよりもはるかに多いし、外国人のビザや在留資格の手続きをする行政書士の事務所もたくさん。これらの外国人が暮らす上で必要なインフラが、新大久保には整っているのです。

こうした異国の食材店が新大久保にはたくさんある(画像:室橋裕和)

こうした街の光景が、日本人にも興味を持たれるようになってきました。特にコロナ禍で外国旅行に出掛けることのできないいま、「国内で異国気分を楽しめる」と、コリアンタウンではなく、むしろ新大久保駅を出て左折する日本人が増えています。

よく誤解されるのですが、どの店でも日本語はちゃんと通じます。皆さん日本で商売している以上、ちゃんと言葉を学んでいる人ばかりです。店のたたずまいはいかにもアジアの雑ぱくな商店街でやや気後れするかもしれませんが、入ってみれば皆さんフレンドリー。食材や料理について熱く語ってくれる人もいます。

スパイスやエスニック料理のファンにとって、新大久保はいまや聖地のようにもなっています。

国際都市 → コリアンタウン → 国際都市

もともと80年代から新大久保は多国籍の街でした。土台となったのは、高度経済成長期からバブル期にかけての人手不足の時代、労働力として来日した南アジア系や東南アジア系の人々です。

加えて歌舞伎町が隆盛していく過程で増加した、韓国、台湾、中国、タイなどの夜の世界で働く人々も、職安通りを越えた新大久保のアパートに住むようになります。彼らのためのエスニック食材店や国際電話屋などが点在していたといいます。

21世紀からの韓流ブームで、こうした「国際色」はいったん、韓国一色に塗り込められます。しかし2011年頃から、再びさまざまな人々が流入してくるようになったのです。

スパイスショップは見るだけでも楽しい(画像:室橋裕和)

きっかけは東日本大震災と福島第1原発の事故でした。それまで「主力」だった韓国人と中国人の商売人や留学生に、帰国の動きが出てきたのです。

そこを穴埋めする形で、日本政府はネパール人やベトナム人を中心とする東南アジア、南アジアの人々に対する入国のハードルをやや下げました。少子高齢化が進む中で不足する労働力を、彼ら外国人でカバーしようという国策でした。

これは全国的に広がった流れでしたが、特に顕著だったのは外国人エリアとしてすでにインフラが整っていた新大久保です。こうして今度はコリアンタウンから、再度インターナショナルタウンへと回帰しているところです。

人種ミックスのビジネスや取り組みが進む街

アジアの諸民族を飲み込んで膨張する新大久保ではいま、国籍を越えた動きが出てきています。

ベトナム人が韓国料理店を経営する、ミャンマー人が日本風の定食屋で日本人のサラリーマンの胃袋を満たす、ネパール人と日本人が八百屋を共同で営む、ベトナム人とネパール人の夫婦が経営する多国籍レストランもある、そして新大久保の商店街には、日本人の音頭のもと、韓国人、ベトナム人、ネパール人の事業者たちも参加し、街の発展のための会議を続けています。

すし屋、中国・延辺料理、ネパール料理、中国・武漢料理、その隙間に八百屋。これが新大久保(画像:室橋裕和)

こうした取り組みはすべて日本語を共通語として行われているのも特徴的でしょうか。あくまでここは日本なのです。日本の環境と言葉をベースに、多民族が共存する。そんな街になってきました。

だから日本人の女子が楽しげに過ごす韓国のレストランでも、厨房(ちゅうぼう)で料理をつくっているのはネパール人だったりするのです。

日本に住む外国人はどんどんと増えています。その縮図が新大久保にはあります。ここは日本の近未来の姿なのかもしれません。

室橋裕和(アジア専門ライター)

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