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我を忘れるほど旨いピッツァ|世界のおいしい店①

  • 2020.11.22
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2020年12月号の第一特集は「おいしい店100」です。創刊30周年を迎えたdancyuはこれまで紹介してきた店を振り返り、本当においしい店を特集しました。旅行作家の石田ゆうすけさんが今まで訪れた国々を振り返ったときに、思い出す本当においしかった店とは――。

我を忘れるほど旨いピッツァ|世界のおいしい店①

■樹海のように深い味わい

dancyuは創刊30周年を迎え、今月の特集はずばり「おいしい店」!
ど真ん中だなぁ。
はて? おいしい店......?
思わず考え込んでしまう。

自転車で世界をぐるりとまわった旅では、旅行期間の長さから当然贅沢はできず、屋台や大衆的な店でばかり食べていた。もちろん味に感動した経験はたくさんあるけれど、dancyuの「おいしい店」というテーマに屋台を挙げるのもなぁと思う。
世界一周後にちょくちょく出かけている短期の旅では、それなりの店に行き、そこそこ楽しめたりもしているのだが、真においしい店となると難しい。ガイドブックやネット内で評判の店で、評判通りおいしかったという経験が不思議とあまりない。

ただし例外はもちろんあって、その筆頭はナポリのピッツァの名店「ダ・ミケーレ」だ。
世界一周中に寄ったのだが、この店が名店だというのは当時は知らなかった。スマホもなかった時代だ。ガイドブックも持っていなかった。情報は地元の人から得る。ピッツァ発祥の地とされるナポリで僕は宿の人やタクシーの運転手に「この町一番のピッツァは?」と聞いてまわった。最も多い回答が「ダ・ミケーレ」だった。1870年創業の老舗らしい。

古いアパートが立ち並び、石畳の路地が網の目のように敷かれた一角に、その店はあった。夕暮れ前なのにすでに店の外に人だかりができ、なんと整理券が配られている。イタリアにしてはずいぶんシステム化されているな、と感心したが、逆にイタリアだからか。一列に並んで行儀よく順番を守るイタリア人というのは、あまり想像がつかない。

ピッツァを焼く香ばしいにおいが石畳の路地に立ち込めていた。人々は思い思いの場所で、夕涼みをするように立ってしゃべっている。その柔らかい空気がよかった。これから味わう至福を思ってつい笑顔がこぼれる、そんな様子だ。コンサート前のファンたちの行列のようにも見える。
日が暮れ、路地に明かりが灯り、ますますいい雰囲気になってきた。

僕の番号が呼ばれて中に入ると、まるで大衆食堂か学食のようだ。わきたつ喧騒の中で、人々は熱に浮かされたようにピッツァを頬張っている。
壁のお品書きを見ると、「マルゲリータ」と「マリナーラ」の2品しかない。あれこれトッピングするのは邪道といわんばかりだ。マルゲリータの値段は日本円でなんと約440円。

店内に大きな窯がすえられ、次々にピッツァが焼き上がって出てきた。窯の中では薪が赤い炎を上げている。
5分ほどで運ばれてきたピッツァは、日本なら特大ともいえるサイズで、生地の上ではトマトソースがサラサラのスープ状になっており、その上でモッツァレラチーズが溶けている。

最初のひと口目は「あれ、こんなもん?」と拍子抜けした。いやにシンプルな味だ。
ところが食べ進めるにつれ、森の奥へ、さらにその奥へと導かれ、次第に思考力を失い、指についた油も気にせず無我夢中で頬張っている自分がいた。

かぶりつくと、トマトの爽快な酸味と甘み、およびモッツァレラチーズが溶けたスープ状のソースが口内にあふれる。きらめく海を思わせる広大な気配に一瞬うっとりしたあと、スープを吸って表面がブルブルにとろけた、しかし中のほうはもっちりした生地が、歯にグニッと刺さり、小麦の香ばしい風味が顔のまわりや喉の奥に広がるのである。いつしか魔法にかかったように我を忘れ、深い樹海の中をふらふらとさまよい歩いていた。
平らげたところで、ビールにまったく手を付けていないことに気がついた。気の抜けたビールをちびちびと飲みながら、食べ終えた皿を茫然と見つめ、断続的にわき上がってくる喜びに身を任せていたのだった。

余談だが、支店を出さないことで有名だったこの店が、どういう経緯か、2012年、東京の恵比寿に初めて支店を出して話題になった。
本店と同じ粉、オイル、トマトを空輸して使っているそうだ。
何度か食べにいったが、旨い。旨いけれど、現地の味とは違う。水や空気が違うから当然といえば当然だが、「俺は現地の本店で食ってるぜ」という超絶クダラナイ自負が、もしかしたら自分の中にあって(自覚はないが)、冷静なジャッジを阻害しているのかもしれない。
でもたぶん一番の理由は、石畳の路地の夕暮れどき、笑顔で待っている人々のあの雰囲気が、旅のひとコマとして、味の記憶に影響を及ぼしているからだろうな、と思う。

文:石田ゆうすけ 写真:鈴木泰介

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