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「LGBTは可哀想な弱者なのか」草彅剛『ミッドナイトスワン』に見る、ぬぐい切れない偏見の罪

  • 2020.11.16
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草彅剛主演の映画『ミッドナイトスワン』は、高い評価を得て話題になっている。一方で、コラムニストの河崎環さんは、作品で描かれる美しくエモすぎる性的マイノリティの像に違和感を覚えるという。日本社会が“少数派”を普通に受け入れる日はいつになるのだろうか——。

多様なジェンダー
※写真はイメージです
哀しくも美しい演技

草彅剛主演の映画『ミッドナイトスワン』。公開から1カ月以上がたった今も、SNSには多くの観客による感動の声が流れていく。

「今年一番の映画」「帰りの電車で涙が止まらなかった」「数日たってもふと思い出す。間違いなく傑作だ」……。その熱量を見れば、この映画が確実に心を動かした観客の存在を否定することはできないだろう。草彅剛が見せるトランスジェンダー像の美しさに、各界から絶賛が集まっているそうだ。

私も公開直後に映画館へ足を運び、トランスジェンダーの凪沙(なぎさ)役を演じた草彅剛の哀しく美しい姿に心を奪われた。トランスジェンダーとしての所作は、自身もトランスジェンダーで男性に女性の所作を指導する「乙女塾」アドバイザー・西原さつきによるもの。西原が実体験と研究の中で蓄積したスキルから生まれる演出は、以前NHKドラマ『女子的生活』で志尊淳への指導に発揮された完成度の高さそのままだった。それは、トランスジェンダーがなりたいと思い描く、どこか架空の女性の姿でもあるがゆえに、目が離せぬほどに切ない妖艶さを放つ。

幸せになれない同性愛者というステレオタイプ

主演の草彅剛をはじめ、他の全ての役者たちの人物理解と努力、みごとな輝きがスクリーンいっぱいに広がる。カメラも渋谷慶一郎の音楽も、非の打ちどころなく全部いい。……ただ、それでもこの“絶賛の嵐”に乗り切れない私がいる。

それは、「いま性的マイノリティを描くのに、本当にこの物語で良かったのだろうか?」という脚本への疑問が、映画を観終えて以来ずっと脳裏にわだかまっているからだ。幸せになれない同性愛者という、手垢のついたメロドラマにしばしば邪魔をされ、ステレオタイプな人間観に興醒めしてしまうのである。「言いたいことは理解できるが、語り方に賛成できない」という感情でエンドロールを見終え、席を立った。

あまりにも美しく描かれる2人の死

女性になりたい、自分の中には女性がいる、だから新宿のニューハーフパブで働いてお金を貯める凪沙は、新人の服部樹咲(みさき)演じる親戚の被虐待児・一果(いちか)を預かるうちに「母性に目覚める」。やがてその“母性”に強く突き動かされるようにして、凪沙の人生はとある結末へと導かれていく——。手短に説明するなら、『ミッドナイトスワン』はそんな映画だ。

この映画には2人の人物の死が描かれている。1人目は一果の同級生・りん(演:上野鈴華)だ。裕福で派手好きな家庭に生まれ、親の過剰な期待に辟易していたりんは、バレエ教室へやってきた一果と急速に距離を縮める。だがけがによってバレエを諦めざるをえなくなったりんは、一果と一瞬甘く同性愛的な雰囲気に陥ったあと、自ら命を捨てていく。

白いロウソクとカラーの花
※写真はイメージです

そして本作で描かれる2人目の死は、凪沙である。一果の母になりたいと異国で性転換手術を受けた凪沙だったが、久々に一果と再会したときには術後の激しい後遺症に苦しみ、孤独の中で痛みと熱に堪える身体になっていた。2人で出かけた海辺で力なく腰を下ろした凪沙は、砂浜でバレエを踊る一果の後ろ姿を、もうほとんど視力のない目で見つめたまま、静かに息を引き取るのだ。

注目すべきは、この2人の死が、劇中であまりに“美しく”描かれていることだ。りんはビルの屋上で開かれた親の友人の結婚式で、唐突にバレエをくるくる踊りはじめ、グリッサードで机の上を飛び石のように跳ね、そのままふわりと屋上の手すりを越えて空へと飛び立っていく。凪沙は、砂浜の流木にもたれかかりながら、真っ青な海を背景にバレエを舞う少女を見つめて、静かに旅立っていく。

だが、なぜ性的マイノリティの(もしくは性的マイノリティの気配を宿した)2人の“女性”は、本作の中でともにひどく非現実的に「美しく、エモく」死んでいかなければならなかったのだろうか。そのほうが絵になるから? 感動を呼ぶから? もしかして、監督の趣味? その問いに対して、私はいまだに答えを見つけられずにいる。

“多数派”同様、人生は続いていくはずなのに

もちろんこれは映画だ。フィクションだ。「映画を盛り上げるために登場人物が死ぬ」という筋は物語としてわかりやすいくらいの定石だし、そういった表現に対して「正しい/正しくない」といった答えを出すことなどできない。

ただ、おそらく私は無意識のうちに、性的マイノリティが「生き続ける」映画を期待していたのだと思う。

確かに性的マイノリティとして生きることは、簡単なことではないはずだ。凪沙が作中で痛ましく何度も口にするように、「なんで私だけが」という思いを抱えながら、それでも懸命に目の前の現実と折り合いをつけて、一日一日、しがみつくように前に進んでいく。そんな人生を送っている人もいるだろう。

だけど性的マイノリティの人生だって、多くは「普通に=多数派同様に」続いていくのだ。この不合理な世界で、理不尽な社会で、“多数派”と同じように年を重ね、少しずつ老いていく。その長い人生の中で、死にたくなる日もあれば、幸せをかみしめる日もあるだろう。そんな普通の未来を示唆させる終わり方では、物語として成立しなかっただろうか?

「美しく可哀想な弱者」でなければ受け入れられないのか

本作の内田英治監督はTwitterで次のように述べている。

「多様な意見がある。素晴らしいこと。人の数だけ意見が富んでる。素晴らしいこと。でも自分の映画を社会的にはしない。これは娯楽。娯楽映画で問題の第一歩を感じれればいい。社会問題は誰も見ない。映画祭やSNSでインテリ気取りが唸り議論するだけ。なので娯楽です。多くの人に観てほしい。それだけ」

劇中で中小企業のオジサン面接官が、採用面接を受けにきた凪沙をひと目見て「いま、はやってますよね、LGBT」と無邪気に言い放つ。本人は「特別な、可哀想な人たちに理解を示した」つもり。だが横に座る女性社員に、発言をコテンパンに非難されるのだ。そんな、ものすごくリアルな社会観察力に優れたセリフのやり取りを書ける監督が、「娯楽に社会性を求めるな」と発言する意味とは、一体何だろう。

映画は娯楽との意見に、私も大いに賛同し、大歓迎する。しかし、性的マイノリティがエモい死に方をすることなく、「多数派同様に」生き続ける映画は、娯楽としては成立しないのだろうか。性的マイノリティは、特別な死を迎えなければ物語にはならないのだろうか。幸せな性的マイノリティは、誰かが考える「こうあるべきマイノリティ像」とは違うのだろうか。私たちの世界は、あとどれだけ「美しく可哀想な弱者」を見なければ、マイノリティの存在を普通に受け入れられないのだろうか。

「きれいごと」は、果たしてどっちだろう。このモヤモヤ感もまた、『ミッドナイトスワン』という映画が私たちに残した“問い”のひとつなのかもしれない。

河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト
1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。

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