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会社初の女性役員になって考えた「自分らしい生き方」

  • 2020.11.5
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本連載『覆面姉さんのワサビトーク』は、酸いも甘いも噛み分けたDRESSのお姉さん世代の働く女性たちが、仕事やキャリア、結婚、出産・子育て、離婚などの女性が対面するさまざまな問題を、自身の体験を交えて匿名でコラム化したものです。第五回では、会社初の女性役員になっただんすさんが考えた、自分にとって大切な生き方について。

はじめまして。某流通系企業の監査部門で役員を務めるだんすと申します。既婚、子どもなしです。ちなみにハンドル名を「だんす」としたのは、私の人生を語る上でダンスはなくてはならないものだから。

17歳で始めたバレエを皮切りに足掛け36年、ダンスのために会社員を続けているようなものなのです。何だか給料泥棒みたいな言い方ですが、このあたりは後ほどお話します。最初に一昔前の就活から振り返ることにしましょう。

新卒入社した会社に勤めて36年。初の女性店長に任命され、さらには初の女性役員へ――。責任の大きい仕事を引き受け、もがきながら進んできたことで見えてきたのは、仕事も家族も好きなことも、自分の人生の大切な要素だということでした。

■銀行マン「田舎からお母さん呼んで、一緒に住める?」

1984年、翌年からは均等法施行という年の夏、卒論制作の傍ら、私はダンス部の男性同期と一緒に、某都市銀行勤務のOBと会食をしていました。当時はこうした先輩のコネは強力で、親戚枠みたいなものだと聞いていました。
ところが、待てど暮らせど採用の連絡がない。一緒に行った男子たちは、とっくに内定をもらっているのになぜ? 電話をかけてみたところ、言われたのが見出しの言葉です。それが内定を出す条件である、と。

私は大学入学と同時に単身上京し、女子学生会館に住んでいました。当時の銀行にとって、独り暮らしの女子は「男に騙され銀行のお金を使い込む」リスク分子。信じられます? 今じゃ、もう笑い話ですけれど。その後、さまざまな会社を受けたものの、なかなか内定がもらえず、最後に出会ったのが現在の会社です。
「だんすさん、面白い人だねえ」。ダンスに熱中するがあまり卒論もボロボロで、あわや学部卒を剥奪されかけたダメダメな私を、こんな粋な評価で採用してくれたのでした。当時、男女差別なく採用していた稀有な会社のひとつで、採用担当も役員もユニークな人が多く、今にして思えば非常に幸運だったと思います。

■「男性より昇級が遅い」と気づいた日

ただ「男女差別なく、スムーズにキャリアを積めて、苦労しなかったんですね」と言われれば、世の中そんなに甘くありません。自由な社風ではありながら、女性社員は「女の子」と呼ばれ、朝の机拭き、15時のお茶出し、飲み会でのお酒づくり(!)はあたりまえ。

そして、何年かして気づきました。「女性は男性と同じ仕事をし、成果も上げているのに、明らかに男性より昇級が遅い」と。実際に、女性役職者はほぼ皆無でした(私の前に商業施設のNo.2までいった方がふたりだけいましたが、私より10歳以上年上でした)。当社の、いや当時の日本企業の女性のキャリア形成においては「ガラスの天井」は「鋼の天井」だったのです。

■大切なことはダンスが教えてくれた

そんなハードワークの傍らも、相変わらずダンスはかなり真剣にやっていました。若い頃一度だけ、プロになるため、会社を辞めるか考えたこともありましたが、資産のない自分に生活ができるのか。そんな迷いを断ち切ってくれたのは、会社ではなくダンスの先輩たちでした。

「迷うなら、会社は辞めちゃダメ。覚悟のない決断はすべきじゃない」

先輩はこうも言ってくれました。

「私たちは休んだらお金はもらえない。失敗はもちろん、与えられた役割を果たせなければ、次の仕事は来ない。お金をもらっている以上はプロ。無料でダンスを見せても、見てくださっている方たちの“時間”というお金をいただいている。だからプロはその価値に見合うパフォーマンスを常に果たせるよう、日々訓練やメンテナンスを欠かさない」

この言葉は私の人生訓となっています。というわけで、ダンス中心の生活とはいえ、仕事も手抜きはしませんでした。お給料をもらっていますし、何より「協力・理解」という対価もいただいていましたから。

■いわゆる「初の女性店長」が誕生するまで

そうこうするうちに、さまざまな分野のお仕事を経験する機会をいただき、いつの間にか結婚もし、入社17年を数え40歳になりました。この年、長年の本社勤務から11年ぶりに現場(店舗)に戻ることに。しかも、No.2のポジションとして、です。現場は若いときに数年経験しただけ。いきなりの重責を担う辞令に衝撃を受けました。

しかし、当時の担当役員から「将来的に店長を目指し、あなたの後に続く女性たちの道を拓いてあげてください」という言葉が、背中を押してくれました。自分より優秀で力のある女性は、本当にたくさんいました。その人たちが活躍するために、最初の扉を開けることが私の役割ならば、喜んでその役目を受けよう。とはいえ、まずはお店の発展のために、与えられた役目をしっかり果たすことで頭がいっぱいでした。

そして3年後、ついに本社担当役員から1本の電話がきました。

「だんすさん、店長をお願いします」
「まじですか?」
「まじだよ。期待してるよ」

その瞬間は実感が沸きませんでしたが、日が経つにつれ「当社の初の女性店長だね!」などとお祝いを言っていただく度に、不安とプレッシャー度数が徐々に上がっていきました。まるで救命胴衣なしで日本海の荒波に放り込まれた気分……。

そんなとき、ダイバーシティの勉強会に参加することになりました。そこには私と同世代で、同じような立場の女性役職者が集まっていました。皆、同じような不安を抱えつつも、試練や困難に前向きに立ち向かっている。まるで無人島で「やっと人に会えた!」というような安堵感をおぼえるとともに、そのパワフルな姿に勇気と活力をもらいました。彼女たちとは今でも付き合いが続いており、私の大切な心の拠りどころとなっています。

■誰でもトップに立つのは怖い

役職者となって男社会の深くまで関わる中でわかったことは、男性役職者も抱える悩みや不安は皆、同じなのだということでした。役職者の飲み会で女性は私だけ。普段は威厳を持って組織を引っ張っている男性陣の本音トークを聞けたことは、私にとって自分の中の思い込みを捨てられたり、肩の力を抜いたりできる大切な機会でした。

「“組織のトップ”に立つのは誰だって怖い。だけど、一度その手綱を握ったら覚悟は決める。でも、無理はしない」。こうしたことは前述の女性役職者たちに加え、身近な男性役職者からも学びました。

店長職から5年。そこへ再び一本の電話です。今度は社長の秘書からでした。「社長がお話したいことがあるそうです」

ええ? いやだ、何か粗相でもしたかしらん……と、おそるおそる本社に向かいました。そこで受けたのが役員就任の辞令でした。さすがにそれはない、と思っていたので、即答はできませんでした。社員と役員ではわけが違います。
その責任の重さを考えると、足元の地面がなくなって宇宙空間に投げ出されたような気持ちになりました。家族や身近な人に相談し、最終的には先輩役員たちの励ましや、ダイバーシティ活動の後輩などが応援してくれる中、意を決し、お話を受けることにしたのです。

就任当時は、案の定経営者として必要な知識や認識を得ることに必死で、自腹でビジネススクールに通ったり、周りの役員の方たちに教えを請うたり、がむしゃらに過ごした1年でした。

■自分の人生は神様がくれた宝物

その後、震災を含め、経営者としてさまざまな判断を必要とされる局面を経験する中、家族はもちろん、諸先輩方や社員、取引先など、たくさんの方たちに支えられ育てられていきました。今でも、経営者とはどうあるべきか、何が会社のためになるか、そのために自分に必要なことは何か。日々自問自答と研鑽を積み重ねる毎日です。

一方で、ダンスは一度も中断したことはありません。プロの方とご一緒する経験をいただいたり、定期的に発表会に参加したり……70歳までは踊り続けたいですね。
そんな私が、今何より大切にしているのは「自分らしく生きる」ことです。自分の人生は神様が自分にだけにくれた宝物。そして、一度しかありません。だからチャレンジしてみないともったいない!

そして、仕事も家族も好きなことも、自分の人生の大切な要素だと思います。だから、私は家族や仕事、そしてダンスを同じように大切に想い、誠実に向き合って、これからも人生を楽しんでいきたいと思っています。

Text/だんす

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